2020年12月28日月曜日


 

コラム197 <気力はどこから出てくるものか②>

  発症後あと二か月足らずで、三年になる。やっと、やる気という意味での気力が甦りつつある。私にとっての本当の自主トレーニングはこれからだ、と思えるようになってきた。発症後半年経過したら、以後大きな回復は望めないなどという医学界の常識に捉われずに、73才になった私は淡々と自主トレを続けるだろう。そして発症後5年後にはどこまで恢復しているか改めて報告したいと思う。息巻いていた割に恢復していないという結果になるかもしれないが、生きるとはそのプロセスだから……結果は天のみぞ知る、である。

 自主トレの自分なりにの組立を考えるに、若い頃やっていたスポーツ(陸上競技やスキー)が大いに役立っていることは確かだ。病院では入院中も退院後も転ばないように、転ばないようにと再三注意を受けたが、転んで起き上がるのも経験の内だろう。特に退院後はこれまで幾度も転んだし、笹ヤブの坂を滑り落ちて大きな石に頭をぶつけ、血を流したこともあるが、大したケガもなく済んでいるのは、若い時分、柔道をやっていたおかげであると思う。転び方がうまいのである。セラピスト達はトレーニング中にケガでもされると責任問題となるから、チャレンジャブルなトレーニングをどうしても控え気味になる。だから私は最初から宣言した。
 〝トレーニング中に転んでケガしようが、私は病院の責任など決して問いませんから……〟
 こうしてセラピストとの気も合って思いっきりのいいトレーニングを随分させてもらった。1階のリハビリルームから病室のある4階までの階段を許可もなく登ったこともある。挑戦しなきゃ、楽しくないよ。
 気力とは、気質にもよる。気質とは生まれた時に身についてくるもののようであるから、簡単には鍛えられない。熱き胸(思い)と、力の入らぬ丹田では、気力はどうにもならないのである。志(胸)と気(丹田)はどこかでつながっているものかもしれない。
 もっと日常的な気分でいえば、

 Ⓐ・今日の体調は最悪であるし、ベッドに横になったまま休んでいたい……
  ・ああ、腿(モモ)の筋肉がもう限界である。こんな調子では歩けそうにない……
  ・風も強いし、空は暗いし、今日は歩きに出かけるのはよそう……
 Ⓑ・そんなことはどうでも、よ~し、一丁やったるか……!

 ⒷマイナスⒶがプラスとして残れば行動が起こせる。気力があるとは、このプラス部分が残ってこそはじめて言えるのである。自分との闘い、気力との闘いとはこういうことである。

Ⓐに勝るⒷということである。

2020年12月21日月曜日

 コラム196 <気力はどこから出てくるものか①>

 最近やっと〝がんばってるよ〟と他人に少し言えるようになった。がんばろうにも気力が出なければがんばれない。これまでもがんばってきたつもりだが、気力がないと〝がんばってるよ〟とは他人には言えないものだ。気力と一口に言うが、この〝気力〟とはどこからどうやって出てくるものか判らないし、医学の世界でもきっと判らないことだろうと思う。どうも脳や特定の内臓から出てくるものではなさそうだし、栄養を沢山とって出てくるのは体力の方であって気力とは言い難いし、歯を食いしばっても持続して出てくるものでもない。漢方では丹田が全身の精気の集まるところとされるが、これは少し当っているような気がする。スキーで〝リラックスして〟と言っても、丹田まわりも含めて腹筋の力を抜いてはギャップで飛ばされて安定した滑りが出来ないことを経験上知っているからである。 

 リハビリのセラピスト達は気力のない人(やる気のない人)にはどんな名トレーナーが付いてもどうにもならないと言う。確かにその通りだろうと思う。しかし、私の経験から言うと、名トレーナーとは専門技術が高いというようなこともさることながら、患者にやる気を起こさせる人のことを名トレーナーというのではないかと思うようになった。
 退院後の自主トレーニングの段階となれば、基本的にやる人は自分しかいなくなるから、気力の問題が大きくなるが、それでも一緒に添って歩いてくれる人、励ましてくれる人、誉めてくれる人の存在は大きい。

  私は入院中は主治医にも恵まれた。リハビリのセラピスト達にも恵まれた。とにかく、多く住宅の話を交えながら楽しくやらせてくれたのが何よりだった。退院後も多くの人々に恵まれた。連れ合いや二人の姉を筆頭に、別荘地内の友人達にもよく助けられた。自主トレの環境にも恵まれた。勿論、私が不在の間、住まい塾の活動を支えてくれた仲間達もよくがんばってくれた。
 こうしてみると、気力というものは自分の身体内のどこかで生み出されるものというよりも、もっと複雑にさまざまの要素がからんで生まれてくるもののように思われる。〝湧き所は胸〟という表現が一番実感に近い。

2020年12月14日月曜日

 

コラム195  <脳卒中(脳出血や脳梗塞など)の後遺症に苦しんでいる方々へのはげまし その① >

  脳出血とか脳梗塞などを総称して脳卒中ということすら、私は知りませんでした。脳出血などは特に一瞬にして気を失い、バタンと倒れるもののように思っていましたが私の場合は全く違いました。2018211日日曜日、午後1時からの定例勉強会のあと、ユーザーとの打ち合わせをひとつ済ませて、スタッフが用意してくれていた遅めの昼食をとり終えて、お盆を寄せようとしたら、アレッ?といった感じで左手に力が入らないことに気付きました。定例の勉強会後だったのでスタッフがまだ残っていましたし、声をかけて2階の自室に呼んだ時にはすでに左脚にも力が入らず、スタッフの山上君に左肩を支えられながらも床にへたり込みました。こうして救急病院に運ばれました。意識は自分でははっきりしていたように思います。

  あの日からもう三年近くになります。恢復が捗々しいとはいえないまでも、二つのリハビリ病院での基礎トレーニングで、一本杖で歩けるようになりましたし、多少のことなら左手も使えるようになりました。私が基礎トレーニングと書き、今日のコラムに〝はげまし〟と付けたのは、国が定める入院リハビリテーション期間は6ヵ月が最大と決められているからです。その期間を過ぎると大きな恢復は望めないとされていて、ベテランの医師程そう確信しているようです。国の定めもこの考えに基づいています。ですから、その後は別の形のトレーニング方法をとるか、どうしても自主トレーニングが中心にならざるを得ないのです。はげましとして書きたいと思ったのは私の場合、一本杖で比較的安定して歩けるようになったのも、左手の握力が10kgを超えて15kg位まで回復したのも(半年まではゼロでした)、グー・チョキ・パーが何となく出来るようになったのも、左手でボールを投げられるようになったのも(勿論下手投げですが)、左指先で動き曲がりなりにもファスナーを上下できるようになったのも、作務衣のひもをたどたどしくも時間をかけてやっと結べるようになったのも、すべて半年を過ぎてからです。ですから、〝半年〟などという医学界の常識に捉(とら)われずに、坦々と自主トレーニングを中心に励んで欲しい、というのが私からの励ましなのです。時には奥歯をかみしめて折れそうな自分の心と闘わなければならない日もありますが、これまで心が折れて自主トレーニングをあまりしなくなった人を数多く見てきました。心が折れたら回復は望めません。私はそう思って主たる病院である信州上田の鹿教湯(かけゆ)病院でもセラピスト達に〝高橋さんはこの病院でも自主トレランキング、No1だよ〟などとおだてられながら調子にのってがんばれたのです。あまり無理せず、継続して自主トレーニングをしていけば、ほんの少しずつでもできることが増えていきます。
 私の現段階での最大の難敵は左脚及び左肩から指先までの強烈なシビレです。それでも折れずに、マッサージ師の助けをかりながら毎日トレーニングに励んでいます。もうダメだ!と思って諦めかけている人々にエールを送りたいのです。私だって時々、〝こんなに沢山の人達に世話と迷惑をかけながら生きるのならば死んだ方がましだ!〟と思う時があります。他人の役に立てないまま 生きる というのは辛いことです。〝この役立たず!〟と心の中で自分に向かって自分が言うのです。 

 私の挑戦はこれからも、まだまだ続きます。きっと人々の役に立てるようになるまで……。そうならなければ、恢復を願って多大の犠牲を払ってくれている、特にまだ現役で仕事をしている連れ合いや姉に、そのほか心配してくれている多くの友人や仲間達に申し開きができないではありませんか。


 

2020年12月7日月曜日

 

コラム194 <いい人間関係を築いていくには>

 

 ・喜びの感情を伝え合うこと

 ・感謝の思いを示し合うこと

 ・相手への敬意を抱き合うこと

 人間関係を悪くするには、この逆を歩めばいい。その前提には互いに素直な感情が必要だ。人間である限り、それぞれに多少なりとも課題はある。それでも、責めるよりもずっと多く上記の感情を伝え、示し、抱き合うことだ。

  〝人間は第一に考える動物であり、第二に感じる動物でもある〟としばしば言われる。しかしそれは逆であると、ある脳医学者は言う。〝人間は第一に感じる動物であり、考えもする動物である〟……と。私は なるほど そうだ、と合点した。そうした認識に立てば人の見方も変わってくる。対処の仕方も、発する言葉も、人間関係も違ってくる。40年程前に、この山小屋を作ってくれた大工さんは毎年数回訪ねて来てくれる。世話になったリハビリ病院のセラピスト達も忙しい時間を縫って片道2時間の距離を遊びに来てくれた。うれしいことではないか。互いに上記の感情を持ち合っているからである。



2020年11月30日月曜日

 

コラム193 <巨大化する資本主義社会はどこへ行く —— 人間の幸せについて>

 

 金(カネ)・金(カネ)・金(カネ)の気配が年々濃厚になっていく。その先に待ち受けているのはどんな社会だろう。

 こんな時代になっても貧困が生む辛さ、悲劇が世界中に少なからず存在し、時に残酷ですらある。逆に、ならば贅沢三昧の生活は幸せを生むのか。

  ・使い切れないほどのお金

  ・欲しいと思うものは何でも買える

  ・食べたければ豪華食がいつでも食べられる

こうした生活は一見幸せにつながるように思われるが、さてどうだろう。私自身もこれまでの人生で上記のような状況にある人を幾人か知っている。その人達に同じ問いを発したなら、大方金(カネ)は幸福を保証しない、幸福の要素は他のところにある、と答えるだろう。上記のような状況にありながら、生活センスが悪いとなると住生活という観点から見ると始末に負えぬ程の不幸を招く、と私の眼には映る。

 年末ジャンボ宝くじなどに当った人達のその後を追ったTV番組を見た。それによると自滅あるいは破滅生活に陥っている人達がほとんどだった。見たことも、持ったことも、使ったこともない大金を突然手にするのだから大金の使い方など身についているはずもない。あのような宝くじは人間に幸せを与えないと統計的に判っているのに、それでも年々大型化していく。何千円か何万円か当って喜んでいる分にはかわいいものだが、欲が欲を生んでバクチのようになっている人もいるだろう。しかし常に一番儲けているのは仕掛け人だろう。大きな志でもあってやるのならまだましにもなろうが、一獲千金の夢を追うのはもうそろそろよそうではないか。もし夢が実現したとしても泡銭(あぶくぜに)によっては幸せにはなれないのだから……

 それよりも、分相応の生活をして、程々の生活ができていればそれでいいし、好きで欲しいものなどは時々買えて、時には楽しみに少し贅沢な食事でもできる程度の方がずっと幸せだと私は思う。使い切れぬ程の金に恵まれるより、心のきれいな知的にも豊かなよき仲間達に恵まれている方がはるかに幸せというものではないか……ん!?考えてみればそれは私のことではないか!?あなたのことではないか!?……と、ふと思われた。




2020年11月23日月曜日

 コラム192 <自然生態系>

  私の住んでいる別荘地内の標高1500メートル付近に通称美濃戸池と呼ばれている人工池がある。夏のある時期になるとその周辺には蛍が舞い、仲間とよく見に行ったものだ。〝おお、大きいホタル!〟と私が叫んだら、土手に座ってくわえタバコをしているおじさんだったりしたこともあった。その蛍達も今は絶滅した。

 夏から秋にかけて砂利道を車で走って行くと大量に飛び立った赤トンボも激減した。怖さ知らずで、人差し指を立てると指先にすぐに止まり、キョロキョロもせずじっとしていたものだった。足先をつかんでも逃げようともせず、秋田で生まれ育った私をも驚かせたものだった。

 雨上がりの月夜にはあれ程、道路に出てきて月の美しさを楽しんでいるかに見えたカエル達もとんと見なくなった。自然生態系に詳しい人の話によると、農薬などのせいばかりでなく、森の中や道端を流れる瀬を雨水排水や農業用水の効率的な確保のために大小のU字溝に替えた影響が大きいという。横切ろうとして落下したまま、つかまる所もなく、また産卵場所も失われて下流に流される一方だという。

  美濃戸池の蛍が絶滅したのは、ある日誰かがブルーギルを放流したせいで旺盛な繁殖力で増え、何せ肉食系の魚(北アメリカ原産といわれる)だから、元いたフナやワカサギ、ヤゴ、タニシなどを食いつくして、池はあっという間にブルーギルだらけとなった。池の水も急速にヘドロ化した。こんなところで蛍も赤トンボも生息できるはずがない。私は長い間、別荘地の住民の会の会長を務めていたからいろいろ夢を描いたが、美濃戸池の復活だけは果たせなかった。この辺に生息していた蛍は源氏蛍でも平家蛍でもない、小さめの固有種だという。

  ビオトープなどと騒ぎ始めても、一度失われた複雑にからんだ自然生体系をよみがえらせるのは至難なことだ。失ってみて始めて気づくその貴重さ。生きているのは人間ばかりではない。みんなで生きているのだ。

  害獣駆除と称して日本鹿が大量に殺されている。数年前に知った時には茅野エリアだけでもその年度だけで4千頭近かった。もう鉄砲でではなく、大半が罠(わな)だそうである。罠であるなら他の動物も殺されているはずだ。いつの日か、人間が害獣指定を受ける日が来ないとも限らない。どうする?想像しうるということは、起き得るということでもあるのだから……。

2020年11月16日月曜日

 

コラム191 <仏画師 安達原玄さんの想い出② —— 一期一会の茶>

  いつ頃からそのようにし始めたか、記憶がはっきりしないが、伺う時には必ず、抹茶を点てられるように最低限の茶道具を持参した。その道具で点てた抹茶をこよなく愛された。動きの危うくなった両手で茶碗を懐(いだ)くようにして、点ったばかりの緑色の茶をじーっと見つめて、〝美しいわねえ……〟とつぶやいたその目には涙が滲んでいた。〝あと何回戴けるかしら……〟と一人ごとのようにつぶやくこともしばしばで、涙を滲ませながらの一服であった。その姿を見ていて、昔はともかく一期一会の心の茶とはこういうことをいうのかと、その度に思わせられた。習い事の点前の順序など、どうでもよかった。〝私の命はあと少しなのだから一番いい茶碗で戴かせて……私ってわがままねえ……〟などとおっしゃるから、所有している中で私がいいと思っている茶碗で極力点てた。その中でも特に小森松庵の大振りの黒楽茶碗を好まれた。この茶碗は縁あって私の茶道の師匠 森田宗文氏から譲り受けたものであった。たまたま小森松庵作の茶杓を私が持っていたのがその茶碗との縁であった。森田先生が同氏の茶碗を所持しているというので、〝一度稽古で二つを合わせてみましょうか〟とおっしゃり、稽古のあと森田先生が〝この茶碗はどうも高橋さんの元へ行きたがっているように思われて仕方がない……〟とおっしゃり、実は私も同様に感じていたので、私の元にくることになった茶碗であった。晩秋山を下りて、帰塾する途中、入院中だった韮崎の病室で最後に点てたのもこの茶碗でであった。もうほんの数滴、口につける程度であったが、それが最後の別れの茶となった。

玄さんの方が精神的にはるかに高みにあったのに私との相性もよかったのだろう。
 〝先生(おこがましくも私のこと)と話していると楽しいわあ〟とおっしゃって下さった。当然まじめな話をすることも多かったが、私の話など、
 〝昨夜 満月があまりに綺麗だったから月まで泳いで行ってきた……〟というようなことをおっしゃるものだから、
 〝泳いで行く時にはクロールですか、それとも平泳ぎですか?バタフライだけはやめた方がいいですよ、あれは腰をいためますから……〟などと馬鹿馬鹿しい話での雑談も多かった。二人で大笑いして、そんなことがかえってよかったのだろう。
 今思うと、病室でベッドの背を少し起こしながらのあの最後の数滴の茶は真剣な一期一会の茶であった。



2020年11月9日月曜日


 

コラム190 <仏画師 安達原玄さんの想い出①>

  仏画師 安達原玄(1929~2015 86才)さんの晩年を想い出している。玄さんといっても女性である。そんな風に思ったことも感じたこともなかったが、私は1947年生まれであるから、私より18才年上であったことになる。すでに清里にほど近い国道141号線沿いに『安達原玄仏画美術館』はあるのだが、玄さんの45メートル四方程の曼陀羅(まんだら)等の大作が現在の美術館では収蔵しきれず、もっと大きな美術館をつくりたいとのことで、ある人に紹介されたのが出会いのきっかけであった。以来随分長いおつき合いをさせていただいたが、それが45年程だったか、10年以上に及んだものか、はっきりしないのはその期間私にとって言葉で言い尽くせぬ程濃密な時間であったからであろうと思われる。

  新しい建設候補地はすでに清里の萌木の村に隣接する国道141号線沿いに準備されていた。だが時勢が悪かったこともあって、残念ながらこの計画は基本設計止まりで、実現には至らなかった。

 私が知り合った頃には、玄さんはパーキンソン病に冒(おか)されていて、歩行にも、利き手の右手の方も不自由になられていたが、それでも筆を持つと手のふるえが止まるのだと言って、病状が徐々に進行するに及んでも〝右手でダメなら左手で、交互に描いているうちにどちらで描いているのか自分でもわからなくなるのよ〟とかおっしゃって、こういう方は天から何か使命を受けてこの世に生まれ出たものであろうと幾度も思わせられた。

 霊力(透視能力や霊感)も多分に働いていたようで、私には随分語り聞かせてくれたが、〝こういう話をすると気持悪がられるから他人にはあまりしないの〟とおっしゃっていた。

 晩年はその病状もさらに重くなり、進行を遅らせるために飲んでいた薬も、〝もっと強いものでもいいから、あと二年、描かせて……〟と祈るような調子で語ることもあった。表現したいものがまだまだあったのだろう。充実の中にも悲しい時間であった。





2020年11月2日月曜日

 コラム189 <上から目線②>

  大した人が大したことを言う分には腹が立たないものだ。問題は大したことのない人が大したことを言う場合だ。〝上から目線〟というものは、おそらくこの場合の心理と同様で、大したことのない人間が大したことを言ったり、大した態度をとったりするから相手の不快をあおり、腹立たしいことにもなるのだと思う。

 驕(おご)り、昂(たか)ぶり、傲慢(ごうまん)な言い方をすると、〝何をえらそうに!〟などと言われる。これもえらくない人がえらいことを言うから、えらそうに!なのだ。時にはきつい、激しい言い方をしなければならないこともあろうかと思う。しかし限界は効果ある言い方をすることだ。勇ましいけれど、さっぱり効果なしでは仕方がないし、〝言ってやったぜ。ああスッキリした!〟ではあまりに大人気ない。要は人間の底力の問題である。

  その点若い時分から〝先生〟と呼ばれる職業についている人は注意が必要だ。特に先生だらけになった昨今では本心からではなく、大方立場上そう呼ばれているに過ぎないと知っておいた方がいい。設計者もその一人である。

 人間常に素直に、謙虚でありたいものだと思う。いくつになっても、それが人間成長の第一の要件だからである。






2020年10月26日月曜日


 コラム188 <上から目線①>

  角の立つ言い方というものがある。音が出る訳ではないが、カチンと来る態度がある。簡単に言えば 〝この野郎!〟という感情を引き出してしまう言葉・態度である。    

 辞書で引く言葉の意味からではない。語調、目つき、言葉にのせる感情、表情で、角が立ち、カチンと来るのである。

  礼節などという言葉は、今あまり使われなくなったが、これが大切であると言われるのは言葉そのもの以上に人間関係をよくしていく上に必要とされるものが多々あるからである。「慇懃(いんぎん)無礼」という言葉もあるから、礼節は形式的なことではなく、心にしっかり浸み込ませておく必要がある。

  私の仕事場である<住まい塾>では、一人間として、一仕事人として、あるべきようにあり得ていない時には、年令や先輩・後輩に関係なく、それぞれ率直に指摘し合おうということになっているが、どれ程真剣になされているか、私は心配だ。その前提には素直な心が必要だからである。

  職人達から時々この〝上から目線〟を指摘されるスタッフがいる。本人にその気が無くとも、そう感じさせるのだから何かがあるのだ。当の本人は、驕(おご)り、昂(たか)ぶり、上から目線など大嫌いな人間なのにである。長年つき合ってきた私から見ても、まちがいなく いいやつ なのにである。

 ちょっとしたことなのだ。言葉に乗ってしまうニュアンス・語調がそうさせる時もある。ちょっとした目つきや表情が関係する時もある。人によっては無いものが出る訳がないのだから、心のどこかに問題があるのだよ、と厳しい指摘をする者もいる。まわりにはこの原因が割とよく判る。しかし、本人にだけはそれがどういうことなのか判らないのである。〝自分のことは自分が一番よく知っている〟とよく言われるがこうしてみると〝自分のことを一番知らないのは自分自身である〟とも言えるのである。




2020年10月19日月曜日

 

コラム187 <カジノとトバク———その②>


  カジノといっても、公認の巨大トバク(賭博)場に違いはありません。それ故、いかなる経済効果があろうとも日本はカジノ施設は作らないと世界に向けて宣言したなら、さぞかし潔い国として賞賛を浴びるに違いありません。賞賛など浴びなくても日本人として気分がいいではありませんか。歴(れっき)とした賭博罪のある国なのですから、誘致する側にも、やる側にもどこかうしろめたさがあるはずなのです。(感覚がマヒして、そんなもの疾(と)うに無いのかな……)

 私は、安倍首相(もうお辞めになってしまったが)以下、日本の政治家たちにお聞きしたい。昔から取り締まってきたトバクも国の名の元でなら大っぴらにやっていいという理由はどこにあるのですか?単なる大型のマネーゲームに終わらずに、麻薬から足が抜けなくなるような人々の悲劇がきっと生まれてくるでしょう。

 〝ラスベガスはじめ、他国でもやっている……だからいいだろう〟というのは民族としての精神的誇りを失った人間の使う言葉です。他国が持っているからいいだろうなんて論理は全く成立しないのです。

 原発問題にしろ、このカジノ問題にしろ、巨大な渦の底に巻き込まれてしまっている暗い想念が想定外の暴発をしないうちに、青空を垣間見(かいまみ)ることができるように……と日本人として心から願っています。キョロキョロ、チョロチョロ政治家だけでなく、気骨ある勇敢な政治家が一人位いないもんですかねえ。



2020年10月12日月曜日

 コラム186 <カジノとトバク———その①>

 

 カジノとはイタリア語のcasino:シチリア島で結成された秘密結社が起源と言われる。(『辞林21』より)

  カジノといえば、西洋式にスマートに聞こえるが日本語でいえばトバク(賭博)場である。時代劇やヤクザ映画などでしばしば見かけるサイコロでの〝さあ、はったはった、丁(ちょう)半(はん)〟がルーレットやカード、ダイスなどになっただけのことである。このカジノの日本への誘致が取り沙汰されているが、私にはこれが不思議に思われる。

 これまで長く取り締まってきた側の国が、率先して国をあげて大がかりな賭博場をつくろうとしているのである。トバクも大きくなり過ぎると人間の目に余り、罪としてきたことも娯楽のひとつに見えてくるのだろうか。今でもりっぱに「賭博罪」というものが存在するのに、である。(野球賭博などは我々のよく知るところである)

  私は国を代表する首相が〝日本は長い歴史の中で賭博を良しとした時代を一度も持ったことがありません。ラスベガスがどうあろうとも、他国がどうであろうとも、賭博をよしとする精紳土壌は日本の歴史には無い〟と世界に向けて宣言したら、日本人はどれほど爽快な気分を味わうことだろう。この巨大になった資本主義社会の中で、何をたわけたことを!と言う人間がいてもいいではないか。潮流に巻き込まれていくばかりでなく、独自の国のありようをしっかり持った国になってほしいものである。

2020年10月5日月曜日

 コラム185 <成功>

 夢の中で誰かと〝成功〟について語っている。内容を思い出しながら書く。

  〝今の時代は志薄く、中途半端に成功だけを求める者達だらけになったから、自然世の中つまらなくなるよ。成功を願うのは勝手だけれど、だいたいは思い通りにはいかないのが昔からの相場ときている。

 因みに「成功」とは、私は人間としての完成に人生をかけて近づくことだと思っているが、こういう価値観も今の時代は全く希薄だ。こんな経済社会になっては致し方ないとも思うが、経済即ち金の面でうまくいけば、それが成功なのだ。何と大きな見当違いをしてしまったものか。

 失敗にめげずに立ち上がり、鍛えられて、おもしろい人間が出来上っていくんじゃありませんか。面白い人間を見ていると、だいたいそういう経験の積み重ねの上にできているよ。成功尽くめなんて無いっていうか、仮にあったとしてもいいことでも何でもないんだ……〟

  〝かつては〝苦労は金を出してでも買え〟なんて言われたものだけれども、あれは人間づくりのために言われたものでしょう?今は、金出して苦労を捨てるような考えの人間ばかりになっているんじゃない?金出して苦労を買うバカがどこにいるか!なんて言われかねない。そんなことで味わいのある、厚みのある人間が出来上がっていく訳が無いんだ。もんじゃ焼きみたいな薄っぺらな人間しかできて行かないんじゃないか?……〟

 こんな話をしている。語り相手が誰であったかははっきりしない。



 

 

2020年9月28日月曜日

コラム184 <自然二句>


 そよそよと風になびくよ コスモスの

か細き茎に 秋風を観る





秋の風 野辺に揺れるよ さよさよと

よくぞ耐えたぞ 細いカヤの葉





2020年9月21日月曜日


 

コラム183 <人生一句 >

 

溜め息や

 蛙(かわず) 飛び込む

          ドブの中





2020年9月14日月曜日


コラム182 <器の扱いについて教えられたこと>

脳出血以来、器がうまく扱えなくなって、改めてこれまで器の扱いについて教えられたことがらを思い出さざるを得なくなった。左手及び指の動きが思うようにいかないので細心の注意を払わないと落としたり、滑らせたり、器どうしぶつけたりして、器を損じることが多くなったからである。器の扱いという面では、自分を自分で躾けてきたようなところがあるだけに余計にくやしいのである。

第一に思い出されるのは、魯山人の教えである。おそらく『星岡茶寮』における従業員達へ心得として説いたものであろうと思われるが、器と器を重ねる際には間に必ず紙を敷き込んでいたという話である。器にキズをつけたり、欠き損じることの防止という意味ばかりでなく、特に陶器類は水分を吸うから高台周辺へのカビ防止にも役立ったことだろう。
この話を聞いて以来、私自身もこれを実生活に取り入れてきた。年々古い時代の貴重な器を使うようになったということもあるが、それだけではない。器を大切に扱うこと、特に長年生きてきた器を大切に扱うことは、器に対する礼儀というものであろう。私にとっては、これが器の扱いへの目ざめと呼んでいいものだった。これによって私の器の扱いは一歩成長した。

思い出したことの第二は、かつて渋谷神谷町にあった料亭『くねん坊』の女将から教えられたことである。この頃にはすでに家庭での躾もままならぬようになって塗りもの(漆器)を金タワシで洗われてなげく鰻屋の亭主がいたり、輪島塗の座卓の上をざらついた食器を擦って卓をキズだらけにされたりする例がめずらしくなくなっていた。自然陶磁器などもよく割る時代になっていたのである。茶道が男のものでなくなり、女性の茶道人口もめっきり減ったことも一因であったかもしれない。くねん坊の女将は〝最近は器をよく欠く時代になったわねえ……〟となげきつつ、〝厨房で洗う際にも器に心を残しながら扱わないのが原因ね。他人と話しながら洗ったり、早く済まそうと気が別のところに行ってしまったような状態で扱ったりするのも一因ね〟と、器に心を残して扱うという意味での「残心」という心得をここで教えられた。以来、私はほとんど器を欠き損じることがなくなったように思う。
食及び食器文化のきわめて高い日本であればこそ、もう一度器の扱いを見直したいものである。


2020年9月7日月曜日


コラム181 <日本三鳴鳥+α> ——— その②

ウグイスは、ホトトギスなどに托卵されることがあり、これも摩訶不思議な自然の摂理のひとつである。ウグイスは全長15cm程だというのに、全長が30cm程にもなるホトトギスの卵を懸命に抱卵して温め、何せ食べるエサの量が違うだろうに生まれたヒナを必死に育てる。生み落とされたウグイスの小さな巣の中で、あふれんばかりの大きさに育ってくるのだから、途中でこれはおかしいなと思いそうなものだけれど、我が子と信じて疑わずにせっせとエサを運んで育てる。巣立つ頃には、ほぼ30cm近くになっているのだから、気味が悪いなどと感じないものだろうかと思うが、このウグイスは余程仏心深い鳥なのだろう。
 〝ホー、ホケキョ!〟と鳴くのは、それとは関係ないことだろうが、托卵する方のカッコウ科のホトトギス類にはよくよく調べると残酷と思われる巧妙な一面があって、私は好きになれない。
 図鑑には繁殖期の雄は「特許許可局」と鳴くと記されているが、私にはそのように聞こえたことが一度もない。先日、その辺に詳しい別荘地の友人に酒を呑みながらたずねてみたら、あれは〝テッペンハゲタカ〟って鳴くんだよ、というから私は〝余計なお世話だ!〟と返して笑い合った。あとで山と渓谷社の野鳥図鑑を調べてみたら、〝テッペンハゲタカ〟でなく〝テッペンカケタカ〟とあった。どちらにしても大してかわりはないか……。
 オオルリに対してはこれまで二度気の毒なことをしている。大きな窓ガラスに当って窓下で死んでいた。私の記録には、2010.5/22012.5/10とある。他の家でも一度見た。透明ガラスに周囲の樹々の姿が映るから、森と思って突っ込んで首の骨を折ってしまうのである。私はあまり詳しくないので、あるいはルリビタキであったかもしれない。以来、当り易い方にアミ戸を持ってきておくか、必要な時以外はケースメントあるいはレースをしておくようにしてからは、こうした事件は起きなくなった。


2020年8月31日月曜日


コラム180 <日本三鳴鳥+α>―――その①

日本三鳴鳥といえば、ウグイス・オオルリ・コマドリということになっている。ぜひこの仲間に入れてほしいのが、ミソサザイである。小さな体躯で、それはそれは艶(つや)やかな、美事な声で囀(さえずる)る。そのさえずりは、渓流の林間に冴え渡る。声も大きく、しかも鳴き声も長く複雑だから通常のカタカナ文字ではとても表現できない。
 体長(くちばしの先から尾羽の先までの長さ:cf スズメ14cm)は11cmと小さく、日本で最も小さな鳥のひとつとされる。その上、色も地味な茶系ときているから姿をとらえるまでに何年もかかった。見慣れたせいか、時々窓辺にひょいと飛んできて、姿を見せるようになった。子鳥達が巣立つ頃には、56羽の幼鳥を連れてやってくる。子鳥達はササヤブの中に積んである枯枝の中にもぐったり、ヨチヨチ飛びをして遊んだりしているが、その間親鳥は近くの樹の上でしっかり見守っている。人間が近づいたり、何か危険が迫ったりすると、チチッ!チ・チ・チッ!と短い警戒音を発する。するとヤブの中で遊んでいた子鳥達は、ピタリと動きを止めて、音を立てるのを一斉(いっせい)に止める。それは美事なものである。「親」とは「木の上に立って見るもの」の成り立ちを文字通り実感させるのが、このミソサザイである。あれだけの美声の持主ながら三鳴鳥に入れぬ理由は、あるいはその性状にあるのかもしれない。
山と渓谷社の『野鳥図鑑』には「雄は外装だけをつくった巣の前でさえずって雌をよぶ。巣が気に入ると雌は内装を完成させる。抱卵、育雛は雌が行い、雄は次の雌を求めて新たな巣の前でさえずる。」とある。
そこが気に入らないという人もいるが、自然の摂理なのだ。人間の私情をはさむこともあるまい。



2020年8月24日月曜日


コラム179 <八ヶ岳の標高千数百メートル付近の山間道路を走りながら考える>

皆セカセカと追い越してゆく。都会と変わらぬようなスピードで。まるでみな苛立ちながら走り去ってゆくようだ。
緑たっぷりの涼やかな道路をどうしてこうもセカセカと走って行かなければならないのか——しかも排気ガスをブカブカ吐き出しながら……この人達はこんなにもゆったりした環境の中に来ながら、どこで、どうやってゆったりするのだろう。地球の温暖化など自分らとは一切関係のない話だと思っているのだろう。地元の古老は、〝以前はこの辺で夏窓を締めて走る車なんて見ることなかったんだけどねぇ〟とつぶやいた。

 以前、〝そんなに急いでどこへ行く〟というTVコマーシャルがあったけれど、あれは名コピーだった。今、改めてそう聞かれても答えはあいかわらず
 〝どこに向かっているんでしょうねぇ……〟
位だろう。
 あのコピーからもう何十年も経つというのに、日頃のセカセカが益々身体に浸み付いて、体内リズムが振り子の短い時計のようにせわしなくなっているのだろう。

 だが、私は今はっきり言う。
 〝そんなに急いでも決していいところへは行けないよ〟……と。
 〝ゆったりした道では ゆったり走ろうよ〟
 〝散歩道では 野辺の名も無き野花の美しさでも眺めながら、ゆっくり歩こうよ〟

 今の私のようになっては、それすらできないよ。
みんな日々の大いなる恵みを大切に!


2020年8月18日火曜日


コラム178 <人間頭脳と人工知能(AI> 私のAI ——自戒の念を込めて

A
・諦めない
・焦らない
・慌てるべからず
・案ずるべからず
・愛情を受けて、情(じょう)を深めよ
・あとのない、あと一歩
・愛は平和の源泉、愛情深くあれ
・明らめるまで、諦めない

I
・急ぐなかれ
・苛立たない
・忙しくするべからず
・生きて、使命を果たすべし
・生き切ったら、思い残すことなし

AIartificial intelligence):人工知能

最近のAI(人工知能)には乱筆・乱文もなし
私の人間頭脳には乱筆・乱文に加えて、乱心まであり。
 ここが人間のおもしろいところだ。この世に生まれ出た第一の目的は、この乱心を修め、整えることだと私は教えられてきた。

2020年8月10日月曜日


コラム177 <涙―その②>

 一方、左半身にひどいシビレと共にマヒが遺(のこ)った私は多少モタつきながらも言葉は出るが、歌が以前のようには歌えない。気がきいてやさしいヘルパーの田代正史さんは入浴時間に私の得意曲を三曲、スマホでかけて歌わせてくれるが、どうも歌になっていないようだ。音程も狂っているようだし、音量も不足、ビブラートもうまくきかない。音痴というのはこういうものなのだろうなと思う———自分で歌っているつもりだが、歌になっていない———

 過日、連れ合いがスマホに高性能イヤホンのようなものをつけてベッドに横になっている私の耳に差し込み、〝一緒に歌ってみて〟と言う。いい音がする。それに合わせて歌っているつもりだが、どうもかつてのように歌っている気分にならない。そこで聞いた、
 〝歌になってる?〟こたえは、
 〝浪花節みたいだ〟とのことであった。

 おそらく同世代であろう、さだまさしのベスト盤を今日久々に聴いた。この人はきっと心根のやさしい人であろうと歌を聴きながらいつもそう思う。ベスト盤が手元に三枚あるが、一枚目の第2曲目に「道化師のソネット」という曲が入っている。そのソネットをCDと一緒に歌っていたら、ボロボロと涙がこぼれた。熱いものがこみ上げてきて、むせびながら最後まで歌ったが、どうせ浪花節調だったに違いなく、連れ合いとも仲のよかった大沢夫妻も、あの世で腹をかかえて笑いながら聴いていたに違いない。
 涙はやはり人の心の塵(ちり)を払い、一段一段、澄んだものにしてくれるように改めて感じた。



2020年8月3日月曜日


コラム176 <涙―その①>

 住まい塾で家をつくり、その後も親しく交流を続けてきた大沢一男さんが脳梗塞で倒れたのは、もう10年程前のことになるだろうか。恢復がままならず、まだ右脚に大きな装具を付けていた頃、住まい塾運動のよき理解者であり、しばしば酒を呑み交わし、かつ茶の湯仲間でもあった奥さんの大沢由利夫人が突然に急性白血病と診断され、迷われた末に抗ガン剤治療を選択された。だが病状は悲しいかな、急速に悪化の一途を辿り、まもなく亡くなられた。
 お別れの会では歩くのもおぼつかなかった一男さんが悲しみをこらえながら、しゃんと立ち挨拶をされた。その後時々訪ねたり、電話で話したりしたが〝すっかり涙もろくなってしまって……〟とその度に涙ぐまれた。このような姿に接していると人間の心は余分なものを涙と共に洗い流していくのかと思われた。涙は天が人間に与えた滴(しずく)のようにさえ感じられた。

 それから数年して、こんどは私が脳出血で倒れた。私が千葉県松戸市にあるリハビリテーション病院でリハビリに励んでいた頃、茶の湯仲間と共に、車に同乗し、見舞いに来てくれたことがあった。大沢さんの自宅からは距離もあるし、予想もしないことであったが、茶の湯仲間達の優しい気遣いと取り計らいであった。我々は顔を合わせるなり胸が熱くなり涙が ほほ を伝った。腰に巻いたポシェットから徳利とさかずきの絵の脇に酒と涙と添え書きのしてある少々シワシワになった絵手紙を、クシャクシャになったお見舞い袋と共に取り出し、〝やっとここまで描けるようになりました……〟と私に手渡してくれた。私とは反対の右片マヒなので、特に由利さん亡きあとの数年間はさぞかし不自由な思いをしながらの生活であったろうと思われ、再び涙がこみ上げてきた。私からの手紙には必ず不安定な字で返事をくれた。あれはうまく動かぬ左手でけんめいにかかれたものだったろう。今にしてそれがよく判る。後遺症の残り方は共通するところもあるだろうが、人それぞれによって皆違うし、それでもその身体の辛さとさまざまに錯綜する心の苦しみがわかり合えるようになったからこそ、瞬時に涙がこみ上げてきたのである。
 〝同病相憐れむ関係になりましたね〟と手を握り合った時には目に涙は残っていたもののいつもの一男さんの笑顔に戻っていた。
 その大沢さんも先日、希望に添って病院から自宅に戻り、大好きだった庭を眺めながら亡くなられた。
 御夫妻共々楽しいよき思い出を沢山残してくれた。死期が迫っているのを悟ったのであろう。自宅に戻られてから数日して亡くなられた。最後の二日間電話で話し、〝フィーリングが合う人どうしは、あの世でもまた会えるらしいよ〟との私の言葉に弱々しい声ながら、
〝タカハシさんと私はフィーリングが合うから、また合えるよね……〟
と返してくれたことが、悲しくも切ない最後の言葉として胸に刻み込まれた。

2020年7月27日月曜日


コラム175 幸福のパンデミック

 世界が平和であるなら、毎年投じ続けられてきた各国の巨額の軍事費は不要となって、それを平和構築のために有効に使えるようになったら、世界は何千年も人類が夢見続けてきた平和なユートピア世界に、現実にどれ程近づくことでしょう。平和な活動など考え出したらいくらでもあります。
 自分達の手では対策の立てようもない貧困な人々の救済もそのひとつでしょう。「戦争」というものがあるからこそ人々は「平和」ということを考えるようになるのだ、などと論理学から抜け出してきたようなことを言う人もいるし、そんなことは夢物語りだと主張する人々も多いでしょう。これまでの何千年、何万年、いやそれ以上の歴史の中で、戦さが止んだことが一度でもあったか?!と反論されれば確かにその通りで、軍事力、防衛力の不足から、力の論理であっけなく侵略されたりした例も多く、絶望的に思えますが、だからといって未来永劫不可能だという論拠にはならないものでしょう。全世界に平和構築への決意と実践が無かったのです。もう時代は変わったのです。


 平和は小さな単位でならいくらでもあったのです。人間の集団単位が大きくなって力を持つようになれば、欲に歯止めがかからなくなるのです。自由主義経済とはいえ、限りなき欲望の渦に巻き込まれていく現代の資本主義経済を見ればよく判ります。ちょっと前までは
   〝溜(たま)って汚くなるのは 金と灰皿〟
などと、のんきなことを言っていたものですが、このまま放置すればこの中に人類そのものも入ることになるかもしれません。
 愚かな者が沢山いる一方で、人類には賢人が沢山いるのですから、今はそうした人々の知恵を結集して世界が「幸福のパンデミック」に向かうまたとないチャンスではないかと思えるのです。

2020年7月20日月曜日


コラム174 「幸福のクラスター」づくりへ ②

 小さな単位であっても、いい仲間達とのよきつながりや共感関係の拡がり、あるいは近代文明が未発達の小さな村社会の平和などは「幸福のクラスター」と呼んでいいものではないかと思う。
 「幸福のクラスター」と呼べるような、この小さなクラスターの芽をどんどん拡げて、「幸福のパンデミック」を作り出す方法はないものか。

 〝よき仲間とつき合え〟とは孔子(BC351479)の教えだが、2500年以上前に教えられたこの教えさえ、なかなか実現がむずかしい。色々な人がいるからである。(同様の言葉が釈迦(BC67世紀頃)の教えの中にもあったように思う。)しかし、このことに全世界がはっきり気づき、決意して、実践の輪を拡げていくならば、「幸福のクラスター」はあちこちにつくられていくのではないか。ソクラテスに師事したといわれる古代ギリシャの哲学者プラトン(BC427347)も人類のユートピア建設を夢見た一人だ。

 現在、最も必要なことは言葉でいえば簡単だ。世界中の皆がむずかしいことを言い合わず、もっと仲よく、協力的に、互いを信頼し合いながら助け合うこと。新型コロナウィルスとは逆に、「幸福のクラスター」を拡げると決意し、そのためには何をどうしなければならないかを考え出し、全世界でそれを実践に向けて行動を起こすことだ。人類はこれまでの数千年の歴史の中に数多くの賢人を輩出してきた。それでさえも、実現し得なかった「幸福のパンデミック」をこれからの人類の知恵の総力をもってすれば、可能となる日が必ずやってくると、私は確信する。そのためには、それでなくとも当てにならない国におまかせでなく、まずあなた自身が、私が、我々が「幸福のクラスター」の種火となり、決意し、実践することだ。


2020年7月13日月曜日


コラム173 「幸福のクラスター」づくりへ①

 全世界に猛威をふるっている今回の新型コロナウィルスでは「クラスター」とか「パンデミック」とか、これまで耳にしたことのない言葉を、どれ程聞かされたことか。その度に、ウィルスとは逆の「幸福のクラスター」とか「幸福のパンデミック」といったものは起きないものか、人類の知恵をもって起こせないものか、と思わせられた。「幸福とは何ぞや?」などと難しいことを聞かれても私には答えようもないし、哲学者や思想家たちがこれまで書き遺した『幸福論』などを読破してみても、おそらく 幸福とは何か といった問いへの確信に到ることはできないであろうし、最後は結局、自分の胸に聞くしかないということになるであろうと思う。人間にはそれがどういう状態をいうのか、ある程度までは判っているからである。「愛とは何か」と問われるのと同様である。

 逆に残虐な戦争の繰り返しを幸福だと思う人はいないであろうし、啀(いが)み合いの中に幸福を感じる人はないであろうと思う。



2020年7月6日月曜日


コラム172 <知ること>と<身につくこと>———知識と実践②

 知ることは身につくことの始まりだというけれど、孔子も釈迦も「知ってやらない」ことを「知らずにやらない」ことよりも下に置く。おそらく、キリスト教でも同じように教えるのではないか。知って終わりでは知らぬと同然、ほとんど意味を為さない。このことを皆はどう考えるだろうか?
 知らないよりはましだと考える人もいるだろう。だが、孔子も釈迦もキリストも、なぜこれを逆転して教えたのか。数千年前からの教えである。知っていることをどれ程多く実践できないままできたか、と考えると愕然とするが、元々「知る」という行為は実践するために、学び、知り、反省する———その繰り返しの上にはじめて、じわりじわりと身についていくのである。自分の経験からしても生半可な覚悟では成らぬものだと知った。反省に反省を加え、さらに反省、反省、反省を100回繰り返してもまだ身につかぬ。気性、性格、さらに人間の出来具合ともなると、これはもう覚悟を伴った修行・精進の域である。溜息が出ても、なお諦めずにチャレンジする。「諦観の念」とは、〝あ~あ、もうや~めた!〟といった簡単な境地ではなく、諦めてもなお、明らめるところまで諦めないでいく。そのプロセスを悟りへの境地に近づいていくことになるのだそうだ。繰り返し、繰り返し、あきらめずに、繰り返す——つまり反省によって知り得たことを身につけていく人生。
 これが最上の人生というものではないだろうか。

2020年6月29日月曜日


コラム171 <知ること>と<身につくこと>———知識と実践①

 片付けや整理法がいい例だ。モノの本でいくら知っても片付かない。知るばかりで身につかないからである。
 翌日やることは前夜の内にしっかりメモしておいて……。だが三日坊主で続かない。これもそうやればいいとは知っても身に付くまでいかないからである。
 よくない癖や習慣を、親に、まわりにいくら注意されても、なかなか直らない。言われることが判っていても、日本語の理解という程度に終わっていては何遍言われても直るものではない。すべては私の経験を書いているのである。スキーだって、他のスポーツだって同じだ。身につくとは、そう簡単なものではない。

 久々に、仲よしの大家さんが見えたというので階下に降りて行った。〝思ったより顔色もいいじゃない……安心したよ……〟と言われたので、私は〝リーダーたるもの辛くとも辛さを顔に出してはならない……〟と言って、その通りだと笑い合った。さて、翌朝来てくれたヘルパーさんと顔を合わせるなり言われた。
 〝タカハシさん 今日はだいぶ辛そうですねぇ……〟そんなものである。

知ることあまりに多く、身につくことあまりに少なし

 最近、このことを痛切に思うのである。





2020年6月22日月曜日


コラム170 <情報>

 私は新聞というものをとっていないし、めったに読むこともないから、訪問客が読みかけの新聞を置いていったりすると、そのまま捨てたり、燃やしたりする気分になれず、新鮮な気持で隅から隅まで読む。たまに読むから余計に新鮮に感じるのかもしれないが、中には役に立つことも時々書いてある。


 以前、行きつけの寿司屋で、置いてあった新聞を〝ヘェ~〟だの〝ハァ~〟だのと言いながら読んでいたら、寿司屋の大将に〝いまどき新聞をそう感動しながら読む人もめずらしいねえ……〟と言われたことを思い出した。
 〝俺なんか新聞二つ、週刊誌23冊は読んでるよ〟
 〝何で?〟
 〝カウンターをはさんでの客商売なんだから客と話が合わないと困るじゃないの。先生(私のこと)は困ることないの?〟
 〝全然……〟
 〝変わってるわ、やっぱり……〟
 〝そんな余計なことをしている割に、寿司の腕前の方はさっぱり上がらないねえ……〟
と冗談半分に言い返してやった。
 長いつき合いだから、そんな会話も平気だ。寿司屋なんだから、そんな無駄なことをしてないで寿司の研究にでも精を出してりゃいいものを……と思ったのが冗談以外の半分である。

 現代は情報時代だから、得ようと思えば情報は山程得られる。私などそれでなくても余計な情報はもう沢山だと思っている方だから、過多な情報はたまらない。Mailも〝気が滅いる〟と言って使わない。
 私の手にするものはもっぱら本と時々雑誌の類だ。TVは全く見ないということもないが、かなり制限している。インターネットは使わない/使えない。私には外からの情報よりも自ら思うこと、感じること、内部から湧いてくること、反省すること、行動することの方が、よほど大事なのだ。そういう意味でも、都市生活と山中生活がほぼ半々というのが私にとってはベストバランスだ。
 
山の中で何をしているんですか?瞑想でもしているんですか?なんて聞かれることがあるけれども、山中に身を置けば何もしなくとも、さまざまな思いや気づきが自然に湧いてくる。
〝我、インスピレーションと共にあり〟という感じだ。そこにこそ、真実の自分が見えてくる。
だがこれが、都市生活ではベクトルが逆になる。内部から湧いてくるというよりも大方、外から押し寄せてくる求めに対して必要に迫られて反応し、返しているだけなのだ。都市生活と山中生活の大きな違いがここにある。
 自分の真の姿をほとんど発見しないまま、人生を終えていく。何のための人生なのだろう。

2020年6月15日月曜日


コラム169 <土釜>

 まだ土釜がそんなに流行っていなかった頃、信州松本市内のある店で土釜を買った。中町通りをぶらぶら歩いていて、ふと立ち寄った陶器店主にすすめられて求めたものだった。土釜にしては珍しく、素焼きではなく厚く黒釉がかかっていて、注文が多くて届くまでに三カ月ほどはかかるという。土釜にしては値段も安くはなかった。数か月後、届いた釜には達筆な筆字で店主の思い入れが巻紙状の手紙が添えられていて、最後に〝ではどうぞ、美味しいオカマライフを!〟と書かれてあった。そこに店主、小林仁さんの人柄が表れていた。この店の名は『陶片木』——店の名前からして、もうすでに店主の性格を表していた。

 楽に慣れてしまっていた私は、それが届いてからもしばらくは電気炊飯器を使っていた。土釜の方がたしかにうまいと判っていたが、油断すると黒焦げにしたりして、付きっ切りの面倒が先に立って、やはり日頃はスイッチポンの電気炊飯器だったのである。
 やはり楽なものが脇にあっては、せっかくの土釜も生きない、と思っていた時に、ちょうど別荘地の管理人が自分の電気釜が故障したか何かで欲しいといってくれたので電気の方は偶然無くなった。キッチンタイマーを使うようになってからは火加減調整のタイミングに失敗することも無くなった。何せ、標高1600メートルのところでの生活なのだから、朝炊いても夜にはコチコチになる。夜に炊いてはなおさらだ。夜の冷や飯もさびしいし、夜粥というのもいただけない。その頃、私の山小屋には電子レンジというものが無かった。
失敗を幾度かしているうちに、自然にそうなったのだが、今は夜に炊きたてを、翌朝には朝粥にして戴く——このスタイルがすっかり定着した。修行僧にでもなったような気分で、これがまたいいのである。朝粥などと今は特別のことのように言うが、事の起こりはこんなものだったのではないかと思うようになった。
 粥では力が出ないという人もいるかもしれないが、そんなに体を使って力仕事をする訳でもなく、かえってこの方が私の身体にはいいような感じだ。おかずも自然に簡素になる。一汁一菜プラス一品位がバランスのいいところというべきか。

 あれから15年、今は土釜と炊き上がりがほとんど変わらない高級炊飯器がさまざまに開発されているようだ。人間とは便利・簡便にいかにも弱いときている。技術開発の世界もそうした人間欲求のもと、ひたすら歩んできたが、その発展のうらで人間として何か大切なものを大きく損なってきたと思えてならない。そのひとつが手仕事である。

 他に楽な手段がないとなれば、慣れと工夫があるのみ——そうなると土釜で飯を炊くオカマライフなど何の面倒もなくなることを経験で知った。現在この身体では無理だが、もう少し快復したら、またオカマライフに戻ろうかな、それともスイッチポンに戻るかな?


2020年6月8日月曜日


コラム168 < 新型コロナウィルス:濃厚接触?>


 日本語をもっと大切に使いたいと常々思っている私は、この「濃厚接触」という表現に、未だに違和感を感じ続けている。どこで誰が決めたものやら、コロナ流行の最初から使われていたから厚生省がらみの政治家達だろう。ジャーナリスト達も無批判に右倣(なら)えだ。
 濃厚を国語辞典で調べても
     色・味などが濃いさま⇔淡泊
     物事の気配などが強く感じられるさま⇔希薄「敗色——」
     男女の仲が情熱的であるさま「——なラブシーン」       (『辞林21)
 確かに濃厚感染という言葉があるが、これは今回の濃厚接触とは意味あいがだいぶ違う。これと同時並行に〝三密を避けよう!〟との声がかかった。三密とは密閉空間・密集場所・密接場面をいうらしい。ならば余計、濃厚な接触ではなく、濃密な接触の方がすんなり来るし、ニュアンスとして国民にも通りがよかっただろうと思う。
 別に腹を立てる程のことではないけれど、国や都道府県からのお達しならばなおのこと、せっかくの日本語の豊かなニュアンスをもっと大切に正しく使って欲しいものと願うのである。