コラム170 <情報>
私は新聞というものをとっていないし、めったに読むこともないから、訪問客が読みかけの新聞を置いていったりすると、そのまま捨てたり、燃やしたりする気分になれず、新鮮な気持で隅から隅まで読む。たまに読むから余計に新鮮に感じるのかもしれないが、中には役に立つことも時々書いてある。
以前、行きつけの寿司屋で、置いてあった新聞を〝ヘェ~〟だの〝ハァ~〟だのと言いながら読んでいたら、寿司屋の大将に〝いまどき新聞をそう感動しながら読む人もめずらしいねえ……〟と言われたことを思い出した。
〝俺なんか新聞二つ、週刊誌2~3冊は読んでるよ〟
〝何で?〟
〝カウンターをはさんでの客商売なんだから客と話が合わないと困るじゃないの。先生(私のこと)は困ることないの?〟
〝全然……〟
〝変わってるわ、やっぱり……〟
〝そんな余計なことをしている割に、寿司の腕前の方はさっぱり上がらないねえ……〟
と冗談半分に言い返してやった。
長いつき合いだから、そんな会話も平気だ。寿司屋なんだから、そんな無駄なことをしてないで寿司の研究にでも精を出してりゃいいものを……と思ったのが冗談以外の半分である。
現代は情報時代だから、得ようと思えば情報は山程得られる。私などそれでなくても余計な情報はもう沢山だと思っている方だから、過多な情報はたまらない。
Mailも〝気が滅いる〟と言って使わない。
私の手にするものはもっぱら本と時々雑誌の類だ。TVは全く見ないということもないが、かなり制限している。インターネットは使わない/使えない。私には外からの情報よりも自ら思うこと、感じること、内部から湧いてくること、反省すること、行動することの方が、よほど大事なのだ。そういう意味でも、都市生活と山中生活がほぼ半々というのが私にとってはベストバランスだ。
山の中で何をしているんですか?瞑想でもしているんですか?なんて聞かれることがあるけれども、山中に身を置けば何もしなくとも、さまざまな思いや気づきが自然に湧いてくる。
〝我、インスピレーションと共にあり〟という感じだ。そこにこそ、真実の自分が見えてくる。
だがこれが、都市生活ではベクトルが逆になる。内部から湧いてくるというよりも大方、外から押し寄せてくる求めに対して必要に迫られて反応し、返しているだけなのだ。都市生活と山中生活の大きな違いがここにある。
自分の真の姿をほとんど発見しないまま、人生を終えていく。何のための人生なのだろう。