2023年6月5日月曜日

 コラム324 <白井晟一の想い出 ④>         ───衣食足りて礼節を忘る?───


 衣食に不足している国や民族は世界に沢山ある。一方経済文明が発達し、衣食があり余って大量に廃棄されている国もまた沢山ある。その代表格のひとつが、この日本である。

 食事は残さぬように、米はお百姓さんが八十八回もの手間をかけて育て、やっと我々の食卓に届いているのだから、一粒たりとも無駄にしてはいけない、衣についても我々が小さかった頃には継ぎ接ぎ(つぎはぎ)を当てたものなど全く珍しくはなかった。美しいあの藍染(あいぞめ)木綿布刺子なども、背景には次々と買う訳にはいかない布を丈夫で長持ちするようにと、母親達が夜なべをして手間を惜しまずに作られたものがほとんどだろう。

 今は時代も変わって大量生産・大量消費で、着ないものを山ほど持っている人もめずらしくない。穴があいたり継ぎを当てた服はファッションにすらなり、捨てられる食糧は膨大な量である。以前あの『ヒルトンホテル』から出る食事の年間廃棄量を知って驚いたことがある(確か週当たりトン単位であったと記憶している)。刺子などは、地方の古民芸のひとつとして「民芸館」などに展示されることはあっても日常生活の必要から作ったりする人はもういない。物質文明社会はいずれにしても、大量生産・大量消費・大量廃棄の時代に向かう。それがGDPを押し上げ、また同時並行的に地球規模の問題を抱えることになっている。




 諺に〝衣食足りて礼節を知る〟(『菅子』)があるが、昔はともかく今は逆に〝衣食足りて礼節を忘る〟る時代となった。これも〝過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し〟(『論語』)ということなのだろうか。

 私は師白井晟一に一度きつく諭されたことがある。夏にどなたかが送ってくれた極上の素麺を、私に下さったことがあった。それから一週間程経った頃に

  〝この前の素麺はどうだった?〟

  〝とてもうまかったです・・・〟

  〝君ね、戴きものをしたら、礼のひとつ、感想のひとつ位言うのが礼儀ってものじゃないか、物があり余るほどの時代になったが、そういう礼儀は忘れちゃいかんよ〟

 その頃の私は修行の身故、日々の生活に事欠く程貧乏だった。そんな状況下の私ですらそうなのである。限度を超えては礼節など言っていられないこともあるかもしれないが、衣食が不足していた時代の方が家庭での躾しかり、かえって礼儀・礼節はしっかりしていたのではないか。辛(かろ)うじてそんなことが比較できる時代に生まれ育ったから、余計に思うのである。


 だからということでもないが、住まい塾の本部では誰かから戴き物をした時には必ず誰から戴いたものかかが判るようにシールに書いて貼るようにしている。その上で礼状もしくは葉書、最低限電話なりで礼を欠かないように習慣づけている。誰から戴いたものかも知らず、考えず、感謝の気持もなしにムシャムシャ食べている姿などは美しくないし、言語道断だからである。

 私の場合、こういう面に関しての躾は母が厳しかった。その当時は面倒くさがって反抗したりもしたであろうが、親の躾というものはどこか身に染みているものである。白井晟一の諭しと通底するものがある。

 あの諺は今の時代となっては

  

 〝衣食足りて、礼節を忘れるなかれ!〟


と言い替えねばならないようだ。





2023年5月29日月曜日

 コラム323 <白井晟一の想い出 ③>        ─── 白井晟一ってどんな人だったんですか? ───


 毎冬2か月余りの間入院リハビリを続けている。もう5年が過ぎた。2022年4月、退院してまもなく開かれた住まい塾東京本部の設計者養成塾で、塾生から私はこんな質問を受けた。

  〝白井晟一さんって、どんな人だったんですか?〟

 同年1月のNHK『日曜美術館』の白井晟一特集を見てのことだったろう。

  〝あなたはどんな人ですか?〟

 と問われたって答えようがないのに、そんな質問に答えられる訳ないじゃないか!と思ったが、年度初めの養成塾でもあるし、断片的な想い出を二・三、語った。それ以上知りたければ自分の想像力を総動員して、建築そのものを眼るしかない。偉大な人は建築評論家他、さまざまな人達が書いたり語ったりしているが、私の感じるところその多くはきっと真実に遠いだろうということだ。だから眼るしかない、と言うのである。

 

   


2023年5月22日月曜日

 コラム322 <白井晟一の想い出 ②>


 1973年、白井晟一の元に弟子入りしてまもなく、リビングルームの障子の張り替えを仰せつかった。白井晟一はヘビースモーカーであったし、張り替えてからだいぶ月日が経っていたようで、かなり黒ずんでいた。

 私は障子の張り替えとはこうするものだと思い込んでいたから、古い障子紙をバリバリと破いてはがし始めた。その時えらく怒られた。

 白井晟一の障子の組子の升目は一般の障子より大分大きい。その方が自分の建築空間に調和すると判断してのことだったろう。

  〝なんと乱暴なはがし方をするんだ。升目ごとにきれいに切り取って、埃(ほこり)を払い、重ねて束ねておきなさい!私が書の稽古に使うんだ〟

 そう言われてNTカッターで組子に傷つけないようにえらく気を使いながら切り取ったのを記憶しているが、その後その紙を書の稽古に使ったところは見たことが無い。古新聞と一緒に出されたか、あるいは単にゴミとして捨てられたかは、私は知らない。


 『徒然草』の第184段に「松下禅尼の障子つくろい」という話がある。話が少し長くなるから、興味のある方はご自分でどうぞお読み下され。

 


 概略現代語訳では次のようである(中野孝次訳)。


 松下禅尼という方は相模守時頼(さがみのかみ・ときより)の母である。その偉い方が煤けた障子の破れたところばかりを御自分で小刀で切り張りしておられた。

  〝切り張りはかえって大変で、しかも斑(まだら)になって見苦しくはございませんか、その仕事は某(なにがし)という男に張らせます〟

と禅尼の兄義景(よしかげ)が云うにこう応えるのです。

  〝物は破れたところだけを直して使うものだということを、若い人に見せて教え、注意させるためにこうしているのです〟

 天下を保つほどの人物を子に持っておられただけあって、さすがに凡人ではなかった、と結んでいる。



2023年5月15日月曜日

 コラム321 <白井晟一の想い出 ①> 


 1973年(昭和48年)から1984年(昭和58年)の白井晟一最晩年の10年間、私は最後の弟子として白井晟一のお世話になった。その前の3年間は大学で助手を勤めた。大学紛争のピークの頃である。


 昨年NHKの『日曜美術館』で白井晟一の特集が組まれることになり、数少ない弟子の一人として取材を受けた(放送2022年1月23日、再放送1月30日)。驚いたことに、この番組で建築家が取り上げられるのはこれが初めてだという。

 冬期のリハビリ入院時期が迫っていたこともあり、大して準備もせずに取材に臨んだが、何せ40年以上前のことだから取材を終えた後、詰まった毛穴が開いたように色々語るべき大事なことが想い出されて悔やまれた。入院前の慌しい中、再取材を検討してくれたが、日程の調整がつかず、断念することになった。取材は3時間程に及んだが、TVの常でその中から使われたのはごく一部である。プロデューサーとは〝退院して一段落したら、番組とは関係なくまた語り合う機会を持ちましょう〟ということで別れた。


 今病室でふと想い出したことがある。私が居た10年間のうちの中期頃だったと思うが、白井晟一が私にこう問うた。

  〝最近君はどういう勉強をしているかね?〟

私は〝日本の歴史を学んでいます〟と応えた。

 白井晟一はすかさず 

  〝何のために、だ?〟

 突然のことであったし、どう応えたかも記憶していないが、30才前後と若かったし、気の利いたような返答をしたに違いない。これまた間髪を入れずに白井晟一の言葉が返ってきた。

  〝君、そんな腹構えで歴史なんぞ学んでも、何の役にも立たないぞ!〟

  〝歴史だけじゃない。学ぶには、構えというものが大事なんだ・・・〟

こう言われたことだけは記憶している。自らに不足を感じ、一歩でも二歩でも生きる確信に近づこうというのでなければ、学びは私の嫌いな「知識人(物知り)」に近づいていくことになるだけじゃないか・・・。学んで、生きる力を篤くしていくというのでなければ学びに大した意味は無い。あれから45年、75才になった今ならば、その意味がよく判る。





2023年5月8日月曜日

 コラム320 <「金」(かね)について>


 住まい塾東京本部のある埼玉県志木市でも、連日のように「オレオレ詐欺(さぎ)」の注意勧告が、あちこちに設置されている拡声器から流れる。


  〝こちらは防災志木です。朝霞警察署からのお知らせです。

   本日、各家庭に市役所職員を名乗る電話が沢山かかってきています。

   「返金があるのでキャッシュカードを持って近くのATMへ行ってください・・・」

   といった電話がかかってきたら、すぐ110番通報してください〟

等の類だ。

 

 こうしたことは随分以前からあったから、取り締まりによって徐々に少なくなっていいようなものだが、手口が巧妙かつ集団化・組織化して年々ひどくなっているようだ。最近では「巧妙」に「凶暴」が加わった詐欺事件が横行している。被害総額もうなぎ登りに増加しているようだ。


 『金(かね)』というものは人の、あるいは社会の何かに役立ってこそ、その代価として受け取れるものだという意識が薄れ、それどころか全く喪失してしまっているような人間が、今の社会には多い。マネーゲーム、IT化が拍車をかける。

 

 〝働かざる者、食うべからず〟

と素朴な言葉で聖書は教えるが、今や〝詐欺を働いて、食いたいだけ喰って平然としている〟時代となり、詐欺を働いて億万の金をダマし取るなどへっちゃらになってしまった。

 人間の良心は決して許してはいないだろうと思うが、それは普通の人間の感覚であって、「良心喪失症」とでも云っていいような事件があちこちで起きる。先天性の病とは思えないから、人間のあり方や社会のあり方が後天的にこうした人間と病を多く生んできているのだろう。この世に生を受ける意味は幸福になるためだなどと軽はずみに考える人もいるが、その本意は


〝この地上でさまざまの経験を積み、人間を磨き、人間性を高めることにある〟


という真理を、親も教育者達も、政治家も企業も、もう一度根本から見つめ直す必要に迫られているのではないか。国の経済成長(GDP)のために小学校から株投資のやり方など教えている場合ではないだろうと思う。人間は経済成長のための道具ではない。


 金が無いのは辛いことだ。だが使いきれない位の金持でも不幸な人は不幸のままだ。金はあればある程幸せになるというものではない。技術も似たところがあるのではないか?

 

 限り無く発展していくAIの技術世界は今後どんな人間社会を創り出していくのだろう。最近の限りない進展を見るにつけ、楽しい希望や夢などというよりも、空恐ろしい悪夢とさえ思えてくるのである。


   



2023年5月1日月曜日

 コラム319 <愛情その⑤> 


 特別のことを色々してやることが愛情深いことだと思いがちだが、

 そっとしておいてほしい時には

 そっとしておいてあげること 

 これが一番の愛情なのではないか。

 しかしこれが一番むずかしいことかもしれない。なぜなら優しい真心が必要だし、複雑に織り込まれた内面のキャリア ─── 普通の言葉でいえば豊かな心が必要とされるからだ。


 真心が無ければ、どんなことでも形式的なことにしかならないが

  〝あなたは一人ではない〟

 と言葉少なに感じさせてやれること、これができたら、人間としてとりあえず合格と言っていいのではないかと思う。

 5年間病の後遺症と向き合いながら、今はそう思うようになった。





2023年4月24日月曜日

 コラム318 <愛情その④> 


 あちこちのシビレ専門の病院にも行った。

  〝もう治りませんね〟

  〝一発で死ぬ人もいるんですから、幸運だったと思って(この苦しみと)つき合って行って下さい〟

  〝よくここまでがんばりましたね。私だっていつそうなるかわかりませんから、なった時には高橋さんのことを想い出して私もがんばります〟等々。


 一般に医師達の言葉は冷たい。

 ガンの余命告知など今では当たり前のこととなってしまったが、ものは何でもはっきり言えばいいというものではない。あらぬ希望や期待は抱かせぬ方が本人のため、と考えるものやら、責任回避のためやら判らないが、こんな場合においても、人間としての、愛情深さが試されるように思う。

 私にとっては発症後5年経った今も、上田市にある鹿教湯病院は希望を捨てずに懸命にリハビリに取り組める唯一の所である。担当医も担当セラピストも看護師や介護士さん達も今では皆、友だちのようなものだ。

 

 私にも判ってきた。特別のことはいらない。辛さを抱えている者には希望を捨てずに静かにそっと寄り添ってくれる人が要る。───これが何よりのなぐさめとなり、励ましとなり、最も大切なことなのだ・・・。連れ添ってくれるパートナーや、いつも心配してくれている二人の姉、その他心あたたかい多くの友人や知人や仲間に恵まれて、私は幸せ者だと思う。こういう人達がいなかったら、私は自ら命を絶っていたかもしれないと思う。その人々に、社会に、そして何よりもこういう境遇を与えてくれた神さまに恩返ししないままこのまま死ぬ訳にいかない・・・この思いが私の日々の命と自主トレーニングへの取り組みを支えている。






 


2023年4月17日月曜日

 コラム317 <愛情その③> 


 この地上に生を受ける目的は、人格の完成即ち愛情深い人間に一歩でも二歩でも近づいてゆくことにあると教えられてきた。だが多くの本を読み、己の経験を通じ、他者の行いに学びながら75年生きてきても、この課題はたやすいことではない。


 入院していると病を抱えたさまざまな人に出会う。ふとしたきっかけで心が通じ合うようになると、傍(はた)からでは判り得ない痛み、苦しみ、辛さを固有に抱えていることが判ってくる。それに内面の苦しみまで含めたら、到底推し量ることさえできないところまで行くだろう。ドクターも言う。患者の苦しみは本当のところ医師である我々にも判らない、と。


 

 今朝、退院間近の人が廊下で退院前の測定を行っていた。入院時からどれだけリハビリの成果が出たかを目安とするものらしく、それがデータとして残されていく。〝普通のスピードで!〟〝極力速足で〟〝一定の時間で何メートル歩けるか〟等々。

 その中に歩き方がいたってスムーズな人がいた。

〝歩き方がいいですね。自然に見えますよ。〟と近くのトレーニング用ベッドに腰掛けて見ていた私は声をかけた。

〝ほめられたのは初めてですよ。〟と言う。

〝でも苦しいんですよ・・・。首の神経がやられたから、あちこちの関節と筋肉が引きつって辛いんだ。〟と言う。

〝私と似てますね。筋肉の引きつれと関節の痛みが連動して終日続く。〟

〝この苦しみは他人には判らないでしょうね・・・。〟

 その日から同病相哀れむという訳でもないが、少しの親近感をもって言葉を交わすようになった。

 

 私と同じ視床部出血の後遺症に苦しんでいる人が、院内には他に二人居るという。私は強烈なシビレから筋肉の引きつれ、それが関節の痛みに通じて苦しんでいるのだが、他の一人は目の玉を針の先で突つかれているようだと言い、もう一人は背中を鋭利な刃物で切られているような痛みが続いているらしい。「視床痛」という言葉があるように同じ部位をやられても血がどのように飛び散ったかによって後遺症の出方は皆違う。おまけに視床という部位はいろいろな神経がまとまって通っているところらしいから余計厄介なのだ。

 


2023年4月10日月曜日

 コラム316 <愛情その②> 


 人の苦しみが判らないのは愛情の深さが足りないせいだ、と思ってきた。しかし本当にその人の苦しみがその人と同じように判り得たら、おそらく生きてはいられないだろう。医師など到底やっていられないことになる。だから判り得ないように神様がつくって下さっているのだと、最近では思うようになった。


 その人の身になって苦しみを推しはかることが出来るようになる、辛さを察することができるようになること ─── ここにこそ人間としての愛情の深まりの課題があるのだと思うようになった。愛情の深まりは、その人の辛さや心に寄り添うことができるようになること ─── そうなれば真(まこと)の心をもって祈ることもできるようになるだろう。それが病んでいる人の励みにもなり、なぐさめにもなる。

 身代わりになって、その人の苦しみを分かち持つことができるのは、神さまか、仏さまに近くなってはじめてできること ─── 通常の人間にはできないことだ。


 愛情深くなるという人間としての最終最後の課題は以上のように考えて取り組んでいけばいいのではないかと思う。同情深くなること、察することができるようになることもりっぱに愛情深くなった証のひとつだと思って間違いない。

 あの車椅子のおばあさんが滲(にじ)ませた涙はその返礼であったのかもしれない。自分の苦しみの一端を察してくれる人がいて、うれしかったのだろう。苦しみの涙ではなく、ほっこりとした涙であった。私は潤(うる)んだ眼を見てそう感じた。


 消灯近くうす暗くなりかけた廊下を自分の部屋に向かいながら、あのおばあさんの心の内が思われて涙が滲んだ。別れ際、〝ここに来て話せる人がいて、よかった・・・〟とぽつりと言ったからである。




2023年4月3日月曜日

 コラム315 <愛情その①> 


 先月3月5日、70日間の冬季入院リハビリを終えて退院してきた。


 今冬はコロナの影響で、リハビリのセラピスト達が登院できない日が多かった。私を担当してくれている理学療法士 須江さんも10日間程登院できない日が続いた。須江さん担当の日は歩きがハードになるから、自主トレを含めて一日2000歩は越えるのだが、本部との電話会議などあったその日は、夕食後の私の万歩計は500少しを指していた。

 一日最低1000歩を目標にしている私は、廊下を一往復すると百数十メートル、歩数にして約300歩程になるから、あと二往復だ、そう思って廊下に出て歩き始めた。コロナの影響で、皆自分の部屋で食事をとることになっているから、食後の廊下は閑散としていたが、途中で一人90才程の車椅子に座ったおばあさんに出会った。


〝こんばんは〟とあいさつしたら、にこりと笑って

〝一回りしてくるんかい?〟と聞く。言葉からしてこの辺の人だろう。

〝いや、廊下の端まで行って帰ってきます〟と言ったら、

〝わたしもその後をついていくわ〟と言う。

 私の歩く速度の方が速く、折り返してきたら、又会った。

〝お互いがんばりましょう!〟と言いかけて止めた。そのおばあさんが

〝歩けていいねえ。私みたいに脚が無かったらがんばりようがない・・・〟と言ったからである。トレーナーかパジャマをはいていたから判らなかったのだ。左ヒザ上10センチあたりから下が切断されて失われているのだった。その部分が左ももの上に折りたたまれていた。

〝もう年だから死にたいんだけれど、なかなか死なせてくれなんだ・・・切ないねえ・・・〟

〝切ないですねえ・・・がんばると言っても、もうすでにがんばって来たんですものねえ・・・〟

おばあさんは目に涙を浮かべた。

 毎冬、12月末から3月上旬までの70日間リハビリ入院を5年続けてきたが、いつから入院したのか会うのは今日が初めてだった。これからは廊下で出会ったら言葉を交わすことができる、表情を交わすことができる。それだけでも病に苦しんでいる人にはささやかななぐさめなのだ。だから私はがんばっている風を見せず、あまり苦しそうな顔もしないでいようと思った。だが、それがなかなかむずかしい。


 


苦しみや辛さというものは人それぞれに固有のものだ。だから他人と比較することができない。右腕を失った人は、すでに切り落とされているのにあるように感じられて、その気持ち悪さがたまらなく苦しいという。〝殺してくれ!〟と叫びたい程だという。私にできることと言えば苦しんでいる人々の辛さが、心の苦しみと共に少しでも和らぎますように・・・と食事の度ごとに祈る位しかない。






2023年3月27日月曜日

 コラム314 <穏やかに、穏やかに・・・>


 朝、洗面室で頭上のステンレスバーからタオルを取ろうとして

    〝グラッ!〟

 洗面が終わって再びタオルを掛けようとして

    〝グラッ!〟


 〝グラグラするんじゃない!!〟

 と自分に言ってから、鏡の自分に云い聞かせる。

 〝怒るんじゃない、腹を立てるんじゃない、穏やかに、穏やかに・・・〟


 残念ながら、俺の人間の出来具合は、今のところこんな程度のものだなあ・・・。




2023年3月20日月曜日

 コラム313 <ストレス社会>

 いかに静寂な音楽でも、騒々しく聞こえる時がある。静かで心地よい音楽といったものは、それが単独にあるのではなく、こちらの心の状態との相関の上に成り立っているものだということが判る。イライラした心を音楽が癒してくれるということも、勿論あるだろう。これも同様に音楽と人間の心との相関関係の上に成り立つ話である。


 ストレスは、著しく免疫機能を落としめるという。

 ということはストレス社会は多くの病を生ぜしめる、ということでもある。

 裏返せば、病を少なく生ぜしめるには、ストレスを軽減する方法を身につけ、免疫力を高めておかなければならないということである。しかし、いかに医学が科学的に進歩しても、そのスピードをはるかに越えてひどいストレス社会となっていく現代では、この課題を克服していくのは容易なことではない。新型コロナのパンデミック以前に、ストレスのパンデミックが生じていたのに、我々は関心を怠ったのである。



       

 ストレスが限りなく蔓延していくその遠因を現代社会の構造と、我々の生活スタイル、及び人間としての価値観の中に求め、学び、気づき、実践していくことで、心の安定をはかっていく以外その道は無いように思われる。

 本草学者であり、儒学者でもあった江戸前期の貝原益軒(かいばらえきけん:1630~1714)の『養生訓』にはすでに以下のように記されている。

 

 〝養生の術は先ず心気を養うべし。心を和にし、気を平らかにし、怒りと慾とを抑え、憂ひ、思ひを少なくし、心を苦しめず、気を損なはず、是心気を養う要道なり〟(健康を守るうえで最も大事なのは心を穏やかにして平常心を保つことである、ということらしい。) ──『免疫と「病の科学」』より──

 

 上記の本は毎冬入院リハビリを続けている鹿教湯病院の最初の担当セラピスト須江慶太さんが今冬私にプレゼントしてくれたものである。彼は専門家としてだけでなく人間としても名セラピストである。




2023年3月13日月曜日

 コラム312 <太宰治の『人間失格』を50年振りに再読す──その②> 

 この本の本文はともかく、感慨をもって読ませられたのは末尾に書かれている解説である。因みにそのタイトルと解説者の顔触れを掲げておこう。

   ①太宰治──人と文学:檀一雄

   ②作品解説───── :磯田光一

   ③滅亡の民───── :河盛好蔵

 ③の最後には(昭和23年9月号『改造』)と記されている。

 昭和23年といえば戦争の余韻冷めやらぬ頃で、私が生まれた年の翌年である。この解説と解説者の顔触れを見ると、錚々(そうそう)たるメンバーが顔を連ねていて、本が幸せであった時代を思わせる。戦後まもなくのこの頃の、文学に対するほとばしるような熱情と期待、信頼。同時に、それどころではなかったはずの戦後復興期のエネルギーが感じられてうらやましくさえ思われるのである。命を懸けて懸命に生き、書いている時代であった。それにひきかえ、我々が生きているこの物質的に豊かになり、精神が貧困になった時代の寂しさを思わせられるのである。

 最近の読むもの、書かれるものといえば、文学ばかりでなく、何だか人間そのものが薄っぺらで、底が透けて見えるようで、読んでいてつまらないものが殆どである。厳しい社会状況こそがかえって名作を生む土壌となりうるということなのだろうか。『人間失格』は人間失格の自覚のない時代に生きている我々に改めてそのことを問いかけるのである。



2023年3月6日月曜日

 コラム311 <太宰治の『人間失格』を50年振りに再読す──その①> 

 大学に入りたての頃に読んだきり、書棚に眠っていたのを取り出し、山に持参した。10日余りのショートステイのため「老健」の部屋に持ち込んで読み始めた。

 以前読んだ時は、なんでこれが注目を浴びてベストセラーになっているのか、とそんな程度にしか思わなかった。それは当時の私には、人間失格などという自覚は微塵(みじん)もなかったからに違いない。

 高校時代はスポーツに明け暮れ、県の大会で優勝し、東北六県の大会でも優勝し、インターハイ、国体に出たりしてアドレナリン全開のような時代を生きていたから、それから数年後のこと、〝人間失格〟などという感覚は、自分には縁遠いものであったのだろう。


 書棚でどれ程陽に焼かれたものか、ページを捲(めく)ると周囲1センチ程が茶褐色に変色している。

 奥付(おくづけ)を見ると

   昭和25年10月20日  初版発行

     42年   9月20日  54版発行 

     43年12月30日  改版3版発行

          『人間失格・桜桃』(角川文庫)

とある。

 75才になった今読み返してみると、当時の印象とはまるで違う。

 第一の手記の一節に次のようにある。

 

  〝自分は空腹ということを知りませんでした。

   いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、

   自分には「空腹」という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。

   ヘンな言い方ですが、おなかが空いていても、自分でそれに気がつかないのです。〟


 私にもそういう傾向があって事実、断食は何日位続けられるものかと4日間の完全断食を試みたことがあります。通常の生活をしながらでしたから、3日目までは大した影響はなく、4日目になってさすが冷や汗のようなものが出て、巣鴨の駅で初めて水を飲んだ記憶があります。25才頃のことではなかったか、あんなことをしたのも、この本の影響ではなかったかと、今にして思われます。



 時代の影響ということも大きかったに違いなく、しかしこれ程までに多く読まれたのは何故であったか、現在もロングセラーを続けているというのも、50年振りに再読してみて初めてうなづけるものがあります。 私は評論家でも解説者でもありませんから、つべこべ書くことはよしますが、やはり〝人間失格〟という自覚を多少でも持っているなら、という条件付きですが、感じるところが多い本に違いはありません。学生時代にどんな感想をもって読んだかも思い出せませんが、病の後遺症に苦しみながら、人間失格を身に沁みて感じ続けた五年間でしたから、若い時分とは全く違った感想をもって読んだことは確かなことです。そして、これが太宰治38才か39才の作であることに驚くのです。(スマホだのパソコンだのをいじくりまわしている時代には全く無理というものです。)その感性は今の私には痛々しくさえ感じられます。それを読んでいると、老成とも早成ともつかぬ妙な印象を持ちます。しかもどこかで自分と重なっている───いや自分ばかりでなく、人間という人間誰しもが重なっている───それを若くして自覚されたところに、早成とも老成ともつかぬ痛々しさを感じさせられるのです。書き終えた同年6月13日深更、山崎富栄と共に玉川上水に入水し、世を去ったのでした。




2023年2月27日月曜日

 コラム310 <漢字に遊ぶ その⑤:察する、擦る>

 身体の痛さや辛さ、心や思いなどを「察」する、と云います。それに手を添えると、「擦(さす)」るという字になります。そっと擦る ── これが強い指圧やマッサージより、意外に効果があるのです。思いがこもっているからでしょうか。


 小さい時に怪我だの捻挫(ねんざ)だのした時に母がよく〝イタイトコ、イタイトコ、飛んでけ~〟と脚を擦ってくれたのを想い出します。姉達も同じようにしてもらったらしく、先日その想い出話をしたところです。

 ほんものの母親の愛情と云うのは他の何にも代えがたいものがあります。完全な形で無償の愛ですから・・・。


 住まい塾の活動以前から最も長く付き合ってきた名棟梁・高橋勉さんを、ガンで亡くなる数日前だったか、前日だったか病室に見舞い、骨と皮だけになった足を擦ってやったら、〝気持ちいい・・・〟とにっこり笑ってくれました。何もしてやれなかった私の、せめてものなぐさめとなりました。勉さんも天で〝あれは気持ちよかったよ〟と言ってくれているような気がしています。 



2023年2月20日月曜日

 コラム309 <ありがとう・・・> 


 尿が出て・・・ありがとう。

 便が出て・・・ありがとう。

 順調に作動する便器に向かってさえ・・・ありがとう。

 不自由な左腕よ、辛いのによくがんばってくれて、ありがとう。

 不自由な左脚よ、辛いのによく耐えてくれて、ありがとう。


 動く右腕よ、よく支えてくれて、ありがとう。

 動く右脚よ、よく支えてくれて、ありがとう。

 脳も臓器も、みんな支えてくれて、ありがとう。

 私のこの命あるのはみんなのおかげだ。


 気がつけば、感謝の対象には、限りがない。

 気がつけば、命を支えてくれている対象には、限りがない。


 だから感謝こそすれ、

 イライラするのはよそう。

 辛い、苦しいと言うのもよそう。

 み~んながんばってくれているのだから・・・。


 みんな、ありがとう。