2023年12月25日月曜日

 コラム353 <愚痴を零(こぼ)すまい>


 愚痴を快く聞く者はいない。自分のことでも、他人のことでも。個人、夫婦、家庭、仕事場、心優しい人間の集団であるはずの病院や介護の世界においてすら、そうである。ゴータマブッダが人間の三毒とされた貪(トン)・瞋(ジン)・癡(チ)については以前記したが、愚痴はこの三つ(貪欲/怒り・憎しみ/無明)に跨(また)がって発生するものである。だから快く響かないのは尤(もっと)もなことである。いかなる場合でも愚癡は快く響かない。それはなぜかというと人間の心の幸せと逆行するからである。心して愚癡を言葉にするまい。言葉となる前にすでに心の中で愚癡の渦が立っているからである。 





2023年12月18日月曜日

 コラム352 <出版文化の衰退②──人間が人間らしくあるために> 


 私は出版文化の急激な衰えを憂えています。40年近く交流を続けてきた八ヶ岳山麓の今井書店もこの三月でとうとう店を閉じました。どの位衰えているのかは私には判りません。しかし本が読まれなくなり売れなくなって、町場の書店がどんどん消えていっていることだけは事実です。


 私が学生だった頃は月刊の建築雑誌を3冊も4冊も定期購読したものですが、今は建築科の学生ですらそんな定期購読者は激減していると聞きます。金額的に見ると、その分スマホに消えている計算になります。


 住まい塾では住宅の「設計者養成塾」を長年続けていますが、その養成塾で私が冗談まじりに〝一流の住宅設計者を目指そうというんなら、ユニクロパンツなどはいているんじゃないぞ!〟と言ったら〝タカハシさんは何をはいているんですか?〟と質問が出た。私はこれも冗談まじりにですが

  〝KENZOよ〟と答えたら返ってきた言葉が

  〝えっ、丹下健三さんって、パンツのデザインもしているんですか?〟

世代の差とはいえ、開いた口が塞がらないとはこういうことを云うのでしょう。

 私は先般新型コロナウイルスで亡くなられた国際的なファッションデザイナー高田賢三さんのことを言ったつもりでしたが、今の建築科の学生は建築についても、他分野についても全く関心も勉強も足りません。4年間何をしてきたの?と唖然とすることが少なくないのです。

 こうした現象と出版文化の衰えとはどこかで通底していると感じるのは私だけでしょうか。


 出版界の名門岩波書店も存続の危機をささやかれた時期がありました。あまり大衆受けしないような価値ある映画を、それでも観て欲しいと上映し続けた「岩波ホール」も閉館しました。東中野にもそのような映画館がありましたが、今はどうなっているでしょう。


 我々は何を得、何を失っているのでしょうか?それこそどうでもいいことを沢山得て、失ってはならないものを失い続けているように思えてならないのです。

 地球壊滅は人間解体と歩調を合わせてやってきます。人間が何を養い育てるべきかは、胸に手を当てて考えれば、皆すでに判っています。人間であること、人間らしくあることを人生の中で深めること──それ以上に大切なことが、どこにあるというのですか?この地球上に生まれ出た意味と価値が、無知・執着、物欲にあるなどと教えた時代がどこにあったでしょうか。





 


2023年12月11日月曜日

 コラム351 <出版文化の衰退①──よき本をもっと読みましょう>


 本の時代は過ぎ去りつつあります。日本の書物は昔は毛筆書きの和綴(わと)じであったし、同内容のものを手元に置くには所有している人から借りて、写本をするしかなかったのです。その苦労によって、身につくことも大きかったでしょうし、受けた影響も深かったに違いないのです。

 しかし大量に機械印刷され、本も安価に手に入り、気軽に読めるようになった分、得たものも大きかった代わりに、それ以上に失われたものもきっと深かったに違いないのです。そして今日、本が売れない時代となりました。多くの人が本を読まなくなったからです。必然多くの出版社が苦境に立たされています。出版文化の衰退は、人間精神の衰退に直結します。


 今多くの人が相手にする「Amazon」も巨大な本屋さんのひとつだという人もいますが、町場の大型書店とも違うし、本がこよなく好きで書店を始め、長い時をかけてやっと大きくなった大型書店とも性格を異にします。

 新刊本に限らず中古本・古書なども、だいたいが即検索できて、しかも家に居ながらにして数日内には届くというのですから、便利この上ないとも云えますが、こんなことで本当にいいのか、と私は思います。こうした便利によって足を掬(すく)われて失われたものも沢山あったことに、我々は気づいていません。

 これを流通改革の勝利などと呼んでいいものかどうか、他の世界と同様、地道に積み上げてきた町の本屋さんをどんどん駆逐(くちく)していく姿にITの勝利などと拍手を送る気持には私は到底なれません。小規模な町の本屋さんと市井(しせい)の人々との素朴なふれあいの寸断。私が40年近く親しくしてきた信州八ヶ岳山麓の本屋さんも、ついにこの三月で閉店に追い込まれました。さまざまに工夫し、努力してきた本屋さんだっただけに、私の思いは時代の流れというだけでは片付けられない憤りにも似た思いが入り混じって複雑です。


 古くから人間が人間として成長するのに果たしてきた大きな力は価値ある本にあったからです。それは人間と人間の出会いに近かったのです。よき本を読みましょう。価値ある本を読みましょう、そして人と人との出会いを大切にしましょう。そうした場を大切にしましょう。


 私の訴えはきわめてシンプルです。部屋に居ながらにして翌日には届くのがそれ程ありがたいことですか?そんなこと、どうってことないじゃありませんか。人と人との関係を大切にしながら、よき本をもっとじっくり読みましょう。





2023年12月4日月曜日

 コラム350 <読んで知ること、と身につくこと> 


 私はこれまで仏教関係の本や、キリスト教関係の本、その他人間の生き方に関する本を随分読んできた。教えられることも多かったが、今にして痛感するのは「学び・知る」ことと「身につく」こととの違いである。


 「身につく」とは日常生活の中で自然な形で実践できるようになることである。「知ること」は学び、研究すれば、程度の差こそあれ誰にでもできることだが、自然な形で実践できるようになるまでに「身につく」となると、これは容易なことではない。専門学者の中に知識人多くして、実践者が少ないのはそのためである。その時、知は「痴」となる。痴は癡とも書くが、知は古(いにしえ)から知る病、疑う病に陥(おちい)りやすい、との認識がどこかにあったのであろう。


 仏教では人間の三毒を貪(とん=貪欲)、瞋(じん=怒り・憎しみ)、癡(ち=無明:ものをありのままに正しく理解しないこと)と云い、その中でも最も根本的なものは「癡」であると云うから、無明を克服するとはそれ程むずかしいことなのだろう。凡庸(ぼんよう)なる人間にはなおさらのこと、しかし与えられた人生の中で、焦らずとも一歩ずつ、この無明脱出のために歩みを進めたいものだ。


 人間としてのあるべき真理を学ぶと云っても、辞典を調べて理解できる程簡単ではなく、多くの書物を読破したところで得られるといったものでもない。実体験を重ねてこそ、やっとその一端が見えてくる類のものだ。このことは、病を得て6年間苦しみと共に歩んできた中で、今身に沁みて感じていることである。

 人間の一生涯に一定の長さが与えられているのはそのためであろうとも思われる。


 私の生家は仏教(道元を開祖とする禅宗:曹洞宗)であったし、母は万教一致を説く谷口雅春氏の「生長の家」の会員でもあった。又、私自身はキリスト教会に通っていた時期もある。ある地域の支部長などをまかされた関係で、その間に得られた経験と心の友は、今も得がたい人生上の宝となっている。為すべき使命を与えられて、せっかく地球上に生まれ出た命なのだから、求めるべきものを求め続け、為すべきことを淡々と為し続けてこの人生を生き切るのだ、と己に言い聞かせている。