2025年2月17日月曜日

 コラム413 <溜(た)まって汚くなるのは金(カネ)と灰皿 ── その②> 


 今日も道路のあちこちに設置されている拡声器から注意勧告が流れている。


 〝こちらは朝霧警察署です。市内の沢山の家庭に市役所員と名乗る男の声で、還付金がありますから・・・という電話が沢山かかってきています。そういう電話がかかってきたら、すぐに110番通報してください。〟


 こうしたことが度々だ。手口が年々巧妙になっているから、判っていても引っ掛かってしまうらしい。今は高齢化社会だから余計だ。


 聖書には〝神と金に同時に仕えることはできない〟とあるし、仏教では因果律を説く。因果応報・・・〝現世でこの法が適わなくても魂の長い歴史の中で、必ず辻褄(つじつま)が合うようになっている〟と説く。しかし現代社会ではそんな言葉を聞いてもどこ吹く風である。その罪を背負うのは、人類であるというのに・・・。

 紀元前から教えられ続けてきた人間としての基本的な心構えを未だに実践できていないとは、人間とはあさましいものである。

 しかしいつの時代にも天から遣わされた心美しき人間、美しき魂の人間は身近に必ず居るものである。ただ我々の心のアンテナが歪んでいるから発見できないだけである。あさましきは人間、心美しきは人間、というところか。





2025年2月10日月曜日

 コラム412 <溜(た)まって汚くなるのは金(カネ)と灰皿 ── その①>


 地球上で年間生み出される総利潤を数パーセントの人間が独占しているという。貧しい国や人々が山ほどいるというのに、何と歪(いびつ)な資本主義社会になったものか。


  〝溜まって汚くなるのは、金と灰皿〟

とはよく言ったものだ。


 抱え込めぬ程の膨大な利益を上げているのは多くは時勢からしてIT企業だが、今日のTVニュースでやっていた。今度はそうしたIT企業による原発そのものの囲い込みが始まっているという。直接関係はなさそうに思っていたが、どうしてどうしてIT関連の大企業は大きくなればなる程手前の原発を要する程膨大な電力を必要とするらしい。


 灰皿は灰を捨てて洗えば染みついて取れない臭いや付着して取れない汚れさえ気にしなければ、一応きれいになるが、カネの方はそうはいかない。溜まっても溜まっても捨てる人がいない。もっと、もっと、もっと、もっと、と際限が無い。汚くなるのは欲の世界から抜け出せなくなるからである。昔の事業家、特に財を成した創業者の中には志を持って世のため、人のため即ち社会還元して、溜まったカネをきれいに使った人が少なからずいたが、今の日本は欲にまみれた人間だらけで、人間そのものの劣化を思わせる。


 〝オレオレ詐欺(さぎ)″ などと言われるようになってから久しいが、少なくなるどころか年々組織的かつ巧妙化してして、取り締まる方も知恵が追い付いていけない。これなども人を馳してでも金を、という根性が根を張っているからである。余程の志を持たぬ限り、金の汚れは取れない。

  


2025年2月3日月曜日

 
コラム411 <病の効用> 



  〝人間は病気であればあるほど人間である〟


 トマスマンの『魔の山』にはこのような言葉があるらしい。


 病いが人間的成長に大きな役割を持つことが描かれている。親戚の高見浩夫さんが見舞い方々持って来てくれた本『臨床の知とは何か』(中村雄二郎著)の岩波新書版の中にも同様のことが書かれていた。

 高見さんはこれまで自分が読んだ本の中で最も多くの回数を読んだ本だとして持って来てくれたのだが、中村雄二郎さんといえば、私が学生の頃すでに名を知られた哲学者であった。哲学者の本であるからよくもまあこういう本を幾度も読んだものだと感心しながら読み進めたが、途中「死の考察」あたりから興味深く読み進んだ。哲学者の考察であるから宗教的側面からの考察が殆どないのが残念であったが、これも分野違いというものであろうか。しかし命の問題は哲学者にとっても心理学者にとっても医学者・宗教学者にとっても共通した問題であるはずなのに、あるいは考察して結論を見い出せる類のものでないのかもしれない。永遠に一つの結論には達し得ない問題なのだろう。






 この本の中に他にも印象深い言葉があった。


  〝あまりに健康な人は病人に対してばかりでなく、一般に他人に対して思いやりがない、と言われる〟


 トマスマンと同様のことが語られている。人間はきわめて複雑にできているが、古今東西繰り返し語られる言葉の中には真理が含まれていると云っていいように思う。上記の言葉は病に倒れる前の私自身であった。