2016年12月26日月曜日

コラム 69  体の栄養/心の栄養  

我々は毎日食事をします。
だからしばしば〝腹がへったァ!〟などといいます。
しかし、心の食べものの方はよく忘れます。
〝心がへったァ!〟などとは、まずいいません。 

体の糧を摂らなければやがて死んでしまうように、心の糧も摂らなければ、我々の心はやがて死んでしまいます。死なないまでも栄養失調に陥ります。このことに我々は明確に気づく機会がありません。体より先に心が死ぬということは、大いにあり得るのに・・・・・。 


心の死とはどういうことを言うのでしょうか?
それは〝幸せ、不幸せの原因は心です〟(―マハトマ ガンディ―)という真理を放棄することであり、世俗的なことばかりをいかに満たしても生の充実はやってこない、という内なるささやきに耳を傾けることを止めることです。 

毎日忘れずに食事を摂るように、心の方にも毎日栄養を与えたいものです。

2016年12月19日月曜日

コラム 68  忘れられない一篇の詩  

ふと、ある詩が思い出された。 

みづの たたへの ふかければ
おもてに さわぐ なみもなし
ひとも なげきの ふかければ
いよよ おもてぞ しづかなる 

高橋元吉の詩である。
どんな形で知ったかよく覚えていないが、前橋の書店煥乎堂の主人であり、その煥乎堂を私の師白井晟一が設計しているから、白井晟一からこの詩を知らされたことは間違いない。あまり詩を暗誦することなどない私が、40年も前に一度接して以来忘れられずに思い出しては口ずさむ詩である。 

『高橋元吉の人間』の序に彫刻家高田博厚が文を寄せていて、〝高橋元吉は私の一生の友であった。〟に始まる。
そこには次のように書かれている。 

〝それにしても、彼は郷里前橋に住みつづけ、私は東京、年に一度会うぐらいで、会えばばかばなしばかりしていた。・・・・・(中略)・・・・・しかも私は、大人になる年頃に日本を去り、それからほとんど30年彼に会えなかった。この年月の間に世界と日本は大動乱に陥った。
「フランスが自分を大人にしてくれた」という自覚を持って、久方ぶりに日本に帰って来ると、高橋と私の友情は全く変わっていなかった。若い頃からの旧友をもう昔のようには見れなかったのが多かったのに・・・・・。
これはなんだろう?気質、精神の同一?思想の共通?生き方も歩き方も二人はずいぶんちがっていた。しかし、自我の内部が命令するもの、精神の秩序、この点で二人は全く一つであった。出世間とか名声とか評判などは寸時も私たちを動揺させたことはなかった。・・・・・・・・・〟

このような人の詩である。 
 

どんな人でも皆苦しみを持っている。
高橋元吉のようになげきを持っている。
だから皆にこの詩を知らせたかったのである。
特にこの理不尽なことの多い世の中であるから・・・・・。
つぶされそうになった時、口ずさんでみるといい。不思議にも心が落ちつくのである。そして気を取り直して、また歩み始めてほしいのである。

2016年12月12日月曜日

コラム 67  天のささやき  

〝お前にはまだやることがある
 やるべきことが残っている
 天は我に、さらに今日一日を与えたもう〟 


天のささやきに、耳を傾けよう
澄んだ声が、聞こえてくる
我はその声に、応えよう。 

朝目覚めるのは
〝さあ、起きて今日のつとめを果たそう!〟
という、天のささやきなり 

我々は目覚し時計以上に、起こしてくれた母親以上に、自然に感謝しなきゃならないんだ。
今日、この朝に目覚めるとは限らないのだから・・・・・。

2016年12月5日月曜日

コラム 66  晩秋  

枯葉が地表を覆い、その上にしとしとと雨が降る。
朝、カーテンを開ける・・・・・それはわかっていた。
朝陽に輝く晩秋の、えも言われぬ美しさ・・・・・
私は見惚れ、思わず溜息をもらした。
それは紅葉の華々しさとは違う、
やがて深い雪の下に踏みしだかれる枯葉達の最後の一瞬。 


見る見る内に、深い霧が辺りを充たした。霧が枯葉に嫉妬して、降りてきたのだ。水滴だけの私だって負けてはいない・・・・と。霧は色んなエッセンスを運んでやってくる。だからその香りも独特だ。
乳白の世界に、小さな小屋がボーッと浮かぶ。
鹿の親子連れが、淡い光の中をゆっくりと横切ってゆく。

2016年11月28日月曜日

コラム 65  文明生活を支えるもの  

この便利で潤沢な文明生活を底辺で支えているものはなんであるか・・・即ちこれが無くなれば我々の文明生活はガクンといくものとは何であるか――その第一はおそらく電気であろう。
電気が停まる。灯りが点かない/エアコンが使えない/電話もダメだ/TV、オーディオ関係もだめだから音楽が聴けない/その他冷蔵庫がストップするから、特に貯蔵してある冷凍物は全滅だ。電子レンジなんか当然使えないぞ、電気炊飯器だってそうだ。IHクッキング・・・・当り前だろう!そんなものしか知らなければ、米を炊いたり冷えたものを温めたりすることさえできない、洗濯もどうする?! 

今は停電というものがめったに無いから、都市近郊に住む者達はそんなことに気付く機会も無いが、私のように山中でしばしば停電を経験していると、山中生活においてすら何と多く電気の恩恵に浴しているものかと思い知らされる。
マイナス20度にもなる冬期の主たる暖房機・石油クリーンヒーターも、電気が停まっては使えないし、給水管に巻きつけてある凍結防止ヒーターもストップするから、停電後30分で水道管の破裂が始まる。その上水抜栓は便利にも電気式のワンタッチときているから水抜さえままならない。ボイラーつかず、便器もコンプレッサーによる圧縮エアー併用の超節水型便器だから、トイレも流せない。 

山中生活といえば、文明生活から縁遠くあるように思われるが、マタギや登山者の生活とは訳が違って、所詮文明生活の中でのこと。電気という基を欠いてはほとんど成立できないものだ。
文明生活とは本当は怖ろしい事態なのだ。
もう慣れっこになって、こんな生活を特にありがたいとも、異状な事態だとも誰も思わない――これこそが怖ろしい事態なのだ。 

・水が出ないなら、山水でも飲んで凌げば何とかなるだろう。
・灯りはランプ・ローソクがあるから、しばらくは大丈夫だ。
・暖房は薪の暖炉で凌げるだろう。炭、焚き付けも外にある。マッチもある・・・・・
・マイナス20度をこえるような夜も、経験上布団と毛布、それに厚いくつ下があればなんとかなる。
 ・車が使えず下山できなくなったら歩いて降りればいい。20年程前、三日間で2メートル近く雪が積もって、三週間以上脱出不能となったことがあったが、幸い山小屋にスキーがあったから、いざとなればそれで滑り降りると覚悟を決めていた。(私は雪国生まれで、スキーのベテランなのである)
 ・トイレは外でOK・・・・・しかし凍傷の危険性あり。南極では立小便をすると、放った先から凍結して、パリパリプツッと瞬時に放物線の氷となるなどと言うが、あれはウソだろう(当方マイナス30度まで経験あり)。土に穴を掘るといっても1メートル以上凍土となっているから、穴などとても掘れない。

こんなことを考えてみると、いざという時役に立つのは文明から遠く離れた原始に近い形のものばかりだ。 

ここに挙げたことだけでも、都市生活はもう電気なしではやっていけないことがよく判る。林立するオフィスビル、特に超高層ビルなど、どうなるのだろう。摩天楼が廃墟となる、というのもSFの世界の話とはすでに言えなくなっている。
荷馬車・荷車・リヤカー・人力車というのはさほど古い時代の話ではないが、文明に漬かり切った日本人は、もうそんな生活に戻れはしないだろう。石油と電気にどっぷりと漬かり切った近代文明国家、危うし!

2016年11月21日月曜日


コラム 64  情報  

外から取り入れるばかりが情報ではないと気付かされたのは、山中生活においてだ。 

TV、新聞、雑誌――勿論パソコンも無いし、インターネットの恩恵にあずかることも無い。困りませんか?とよく聞かれるが、あれば便利な時があるだけで、困ることなど何も無い。それでなくとも外から押し寄せる情報の多さに辟易しているのだ。これ以上増えたら、私の身体は拒絶反応を起こすに決まっている。 


気付かなければならないのは、情報源は常に外にあって、取り入れるものとばかり思い込んでいるその誤謬についてである。
外からの情報もあれば、内からの情報というものもある。さらに外からの情報が増せば増す程、内からの情報が少なくなっていく。

きっと誰にでも、泉の如く湧き出ずる内なる情報源というものがある。インスピレーションの類だ。それはこの身体を通して、どこからか直接的にやってくる。
我々はこれまで、食べること、摂取すること、取り入れることにばかり関心を向け過ぎてきた。もうそろそろ、身体内から湧き出ずる内なる声に耳を傾けるべき時だ。
取り入れることにばかり懸命の、辟易満腹の身体、消化不良の身体を考えてみるがいい。
人間はそのストレスでさらに食らい、取り入れると言う。

2016年11月14日月曜日


コラム 63  落葉松  

雪の舞いかと思いきや、
落葉松の落葉でした。
夕陽に照らされながらハラハラと舞う細身の葉は黄金色に輝いて、
最後の命の燃焼のようにも見えます。 

 
翌朝、今日はどんよりと雪まじり・・・・・
凍てつく中、誰にも見とられず雪の下にうずもれていく落葉松の葉・・・・・
天空の摂理からすれば、しかしそんなことは大したことではないに違いありません。
 
 

2016年11月7日月曜日

コラム 62 < 都会の雑踏  


夏の一日、都心に帰った。その日一日だけで、三度見た。
すれ違いざま人と肩がぶつかって、
憮然とした表情で睨みつけていく者、
舌打ちしながら、時には〝バカヤロー!〟と言い放って去っていく者、
つい先頃も〝ナニー、コノヤローッ!〟と言い返されて、ケンカしている者もいた。 

最近少なくなったのが、おだやかに〝ごめんなさい・・・・・〟と振り返る人。
急に増えたのは、スマホ片手に画面から目も離さずに、無反応で通り過ぎてゆく人である。
人間はさまざまなれど、人間社会が平和に向かうのはどんなあり方なのだろう。
あの〝バカヤロー〟と言って去った人も常日頃のうっぷんをそれで晴らしたつもりだったろうが、結果はさらにうっぷんを募らせただけに違いない。 

〝人間いかなる時でも、あるべきようにあれ〟とは、古(いにしえ)からのいましめである。
山中から久々に降りて行った者の眼には、東京の異状進行中がよく見える。
人間崩壊の兆しあり。


2016年10月31日月曜日


コラム 61  枯れ枝
 

枯れ枝も

止まり木ぐらいには なれるもの

小鳥も安心、みんな安心

2016年10月24日月曜日


コラム 60  熊が出た!  

『熊に注意!』のお触れが回った。2009年のことである。それまで八ヶ岳山麓西北面には熊はいないと言われていた。その前年に、別荘地に熊が出たとの噂が立った。その時には〝熊みたいな男に出会ったんじゃないの?〟などと冗談を言っていたが、その後標高の少し下がった農場で二頭の足跡が確認された。 

秋田生まれの私には鉄砲打ちの叔父がいて、熊を仕留めたなどという話を耳にしながら育ったから、そんなに大騒ぎすることもないのに、と思っていた。
そんな私を心配してのことか
〝タカハシさん 熊、本当に出たらしいですよ、
野菜なんか外に出しておかない方がいいですよ〟
とか
〝夜行性も強いから夜は出歩かない方がいいですよ〟
と注意してくれる。
まだ出会っていない私はそれでも、その時にはちゃんとあいさつしておきゃあ大丈夫!・・・・・出会ったらね、〝あっ、お元気ですか?〟それでも通じない時には〝Nice to meet you!〟とかね・・・・・などとまだ冗談の域を出ない。それに、この辺でしばしば出会う日本カモシカの後姿は熊にそっくりだから、これを熊と見間違えた人もいたに違いない。 

出合ったら死んだふりをするのがいいと、その振りをしたら、あの熊手でゴロゴロとやられたという人がいた。その後どうなったかは詳しく聞かなかったが、本人がまだ生きているところを見ると大丈夫だったのだろう。それにしても生きた心地がしなかったに違いない。
鉄砲打ちの叔父から蝮(まむし)に噛まれた時の対処法は聞かされていた。二股の枝を切り、それで首根っこをぎゅんと押さえつけて首を切り、生皮をべりべりと剥いでその肉をその場で喰う、というものであった。
だがこんな知識も耳学問ではどうにもならず、咄嗟に役立つのは経験である。 

熊に襲われたあの主。ゴロゴロのあとどうなったのか今一度聞いてみたいものだが、大山倍達のような訳にはいかなかったようだ。死んだふりをして片目を開けたら、熊がまだそこに居たという。それ以上話したがらないところを見ると、あまりかっこいい退散劇ではなかったのだろう。  (写真は日本カモシカ)

2016年10月17日月曜日


コラム 59  大スズメバチ 大発生  

今年はスズメバチの当り年である。
トイレでしゃがんでハチに刺された、という人がいる。おならをした途端にやられたというからおかしい。フタの裏でまどろんででもいたのだろう。本人も驚いただろうが、ハチだってさぞかし驚いたに違いないのだ。 

窓を開けていると大スズメバチが毎日5~6匹は入ってくる。机の上に飛んで来たり、ガラス窓でもがいたりしていると至近距離で言葉を交わすことになる。もう友情を感じる程だ。
近くに来ても何事も無いかのようにゆったりと構えていればどうってことはないし、自然界の仲間のように感じれば、殺気立つこともない。だがこちらが驚いて手で払ったり、大声を上げて騒いだりすれば刺されること必定である。 


これは、対人間においても同じである。養蜂家の中には手袋もせず、網もかぶらずに平気な人がいる。ああいう人は刺されても平気なのだと思っていたが、そうではなくハチの方が刺さないものらしい。(時には刺されますよ、と言ってはいたが、そんな時でも手加減するらしい。)なぜそうなのか?これはきっとハチの心を苛立たせる邪気というものが少ないからなのだろう。この事実には学ぶことが多い。 

〝何もしなければ刺されない〟と聞いていたから何もしなかったのに、刺されたという人が時々いる。私が思うに、表立っては何もしなかったが心の中では大いにしてしまっているのではないか。〝寄って来るんじゃない!〟〝ヒェ~ コワ~イ!〟〝向こうに行け~ッ!〟こんな感情がきっと向こうに伝わるのである。野生動物の邪気を瞬時に感じ取る能力にはきわめて鋭いものがある。手にエサをのせて伸ばせば、リスも野鳥も安心してやって来る人を私は知っている。この人の表情を見ていてもそう思う。悠然と構える者に、この邪気は立たないのである。
  山中での会議中、作務衣の左袖からスズメバチが侵入した。それを見た人が〝あぁ、ハチ ハチ!〟と言ったが、その内背中に回ってモソモソ動いている。私は部屋の外に出て上着を脱いで逃がそうとしたが、その前に右袖から出て行った。こんなものである。

2016年10月10日月曜日


コラム 58  野の花  

野の花は見る人に安らぎを与えます。それは自己主張が無いからです。
野の花は〝きれいだねえ〟というと〝そう?〟と、そ知らぬ顔をしています。
野の花は化粧したりしないから、〝ワタシ キレイデショ?〟などとは言いません。
摂理に従って咲いているだけ。おまかせの自然体。 


人間が人を疲れさせるのは、自己主張があるからです。
相手が理解しないとなると・・・・・野の花と、何と違うことでしょう。 

〝「活ける」花は自己主張が大きくて相手を、疲れさせます。
花を材料として私の妄想を表現しようとしているのですから。花を通して相手の自己主張と、盲想におつきあいせねばなりませんから疲れてしまいます。花展でくたびれるのは、それです。〟
尼僧 青山俊董さんの言葉です。 

今は自己主張の世界――みんなそれをよしとしています。そしてみんな疲れています。
いつの日か、野に咲く花のような存在になりたいものです。