コラム210 <「専門家」と「素人」と>
70才を過ぎて、脳出血で倒れ、さまざまな病院に出入りしているうちに自ずと思われてくるのは、医師は病については知っているのだろうが、一患者たる人間について知っているだろうかという疑問であった。患者の方を見ずに、パソコンの方を向いて、たまに患者を横目で見ながら話を聞きながら診察する姿など最初の頃は異常に思え、〝患者はパソコンじゃない。こっちだよ!〟と言いたくなったものだが、今はそんな姿が普通になった。医師でも、建築家でも、弁護士でもいい。専門家が素人よりその分野についてよく知っているのは当然である。ここまではいいのだが、ここから先が問題だ。
私の専門は住宅だが、住宅について専門家として年期を積めば色々な場面で経験を積んで成長していくだろうが、これが心掛けを誤ると、専門分野以外についても他者即ち建主(クライアント)より優れていると錯覚しはじめるところに危険がある。そんな保障はどこにもない。人間性に優れているか?美的感覚において優れているか?生活センスにおいて優れているか?特に人間の徳性においてどうか?品性においてどうか?多くの専門家達は、ここで大きな過ちを犯す。自分を人間的に鍛えぬまま、〝先生〟などと呼ばれるのがわざわいの原因のひとつとなる。何が先生であるか!明らかな誤びゅうであり、錯覚である。こうして、ごうまんという罪を犯すことになる。
『住宅建築』の創刊者であり、敬愛する建築ジャーナリスト平良敬一氏は昨年お亡くなりになったが、その創刊の辞に、「一軒の家は断じて一建築家の作品などと呼んではならないものだ」と心の底から叫んでいる。私もそう思う。だからこそ、専門家達は人間として謙虚たれ。特に人間としての徳性において豊かであれ、と心のうちで訴えているのである。これはすべての専門家達に対して言えることである。りっぱな方々もいるにはいる。だが人間社会を総体で見るに専門家達は人間を磨くことを忘れている。これは専門家達だけではないかもしれない。素人達も専門家達も人間を磨くことを深く忘れている。
最近読んだ三浦綾子さんの『言葉の花束』という本の中に、「吉田兼好は健康な者を友に選ばなかった。病んだことのない者は憐みの情が薄いと思ったのだろう。」と書かれていた。人間はそれこそさまざまだが、脳出血で倒れて三年余りのうちに私もそのように思うようになった。他人の病の苦しみを分かち合ったり、理解したりすることはできないが、苦しみを察することは多少できるようになった気がする。
先日病院の廊下ですれ違った車椅子の人は右ヒジから下が無く、トレーナーの袖がそよそよとゆれていた。次に会った時には、ヒジから下とばかり思っていたら肩から腕全体が無いのだった。表情も挫折寸前の感があった。どんな思いで毎日を送っていることか……。これから先の生涯に一筋の光でも見い出せればいいのだが……と祈っていたが、まもなく退院していかれた。