2023年7月31日月曜日

 コラム332 <平穏と環境> 


 今年は色々と用事があって、例年より半月程遅れて八ヶ岳にやって来た。


 都市のバスや車、夜半けたたましい音を立てて走り回るバイク集団などの交通騒音から解放されて、静寂の中に迎えられたか?

 野鳥たちの囀りと新緑の森に迎えられて、平穏な日々がやってきたか?

  会議や打合せ、その他の雑事から解放されて平安な日々がやってきたか?

 否・否・否である。私の心に去来するものが同じだからである。


 環境が変わり、自分の時間が取り戻せたから、比較すれば勿論、心は静寂さを取り戻しつつあります。それでも心は環境を変えた位で、すぐに平穏を取り戻せる訳ではありません。次々とやって来るさまざまな思い、病から来る苦しみ、介護の人達との打合せ、来客等々・・・。


 ここに来て気付かされるのは、自分の平穏と心の平和は自分の内にしかないもの、外の条件をいくら変えても心のざわめきは鎮められない、ということである。

 不機嫌、不安、不穏の気分をどうしたらまわりに与えずに済むようになれるか、最も愛する人をさえ、暗い気分にさせてしまうのである。これが私の現在の最大の課題と言っていい。


 自分が平安でなければ、まわりの人々に平安を与えることはできません。これは偏(ひとえ)に自分自身の心の問題です。苦しみも含めて今日一日の命に感謝しながら、平和でありますように、平穏な心でいられますように祈ります。そのためには、自分はほんとうに優しいのか、人間としてどこまで出来ているのか、と問うところから始めなければなりません。理想郷を創りたければ、まわりにではなく、自分自身の中につくり上げるしかないからです。心のざわめきは尽きることがありません。





2023年7月24日月曜日

 コラム331 <白井晟一について>

      ───黄金のみが輝くものではない───


 私が38才の時に『悠』1985年6月号に書いたものである。よく書けているので再録する。


 うけた知識を貯金していれば今頃かなりの博識になっていたにちがいない。だが落とした通帳もあれば満期を待たずして途中解約したものもあって、通帳の額面ははなはだ心もとない。もともと私は自身に対して知識のつめ込みを疎(うと)んじてきたから気にもせずにきた。

 師白井晟一は晩年「知識が邪魔になる・・・」としきりに言っていた。金だってありあまれば困ったことになるのだ。ごもっとも・・・と思ったがその深意を汲めぬのは私に邪魔になる程の知識がないからにちがいない。

 

 師はまた実践しようという心がまえがないまま学ぶことを叱責した。自己改善のためというよりも、試験のため、成績のため、はては知識そのもののためと見当違いの学び方をしてきた戦後世代は、これではだめだとわかってもなかなか身についた性癖が改まらない。マスメディアと教育のおかげでいっぱしのことを言えるようにはなったが、いかにも足腰が立たない。行動がないのだ。知識と行動がこれほどバランスを欠いた時代がかつてあったのだろうか。

 

 学ぶだけで行動しないというのは便秘のようなものだ。辛いばかりでいきおい活力がなくなる。知識をつめ込むだけで行動に還元されないなら人間は程度の悪い辞典に等しいではないか。行動なきところ、おおむねその一挙一動を打算によって換算しないと動けぬようになっている。だが、しかし、結局人は安住の地を得られずにうさばらしをする。「金はすべてにまさる力なり」では満足しないのだ。知識偏重の時代。改革のエネルギーとは無縁の不平不満症候群。

 時代の風潮を憂えてのことであったか、師は依頼された親和銀行本店の正面入口頂部に、ラテン語で「黄金のみが輝くものではない」と刻んだ。師の思いの表出であった。共鳴するものは多かったが理解するものの少なかった孤独な心のうちを思うと私は今切ない思いにかられる。10年以上生活を共にした私も共鳴者の一人を出ることはできなかった。結局、一合の枡をもって一升の水を汲むわけにはいかないのだ。人はやはり人間としての完成を求めて充足する。人間を人間足らしめようとする先人の孤独にみちた教訓を汲み上げたい。


2023年7月17日月曜日

コラム330 <白井晟一の想い出 ⑩>        ───竹中工務店の設計部員とのやり取り───


 他のプロジェクトの時はそんなことはなかったから、あれはノアビルの時であったろうと思う。

 ノアビルは実は当初竹中工務店が直接設計・施工で請け負った建物であったが、クライアントがその設計が気に入らなかったのであろう。途中で設計は白井晟一に頼みたいと言い出して急遽設計者が変更となった建築であった。

 事の子細については私は知らないが、竹中工務店の設計部員が数人、私の居た白井晟一の自宅の付属アトリエ(その頃私は高山アトリエからこちらに移っていた)に詰めて、図面を描いていた時期があった。ノアビルの完成が1974年だから私が研究所に入ってまだ間もない頃のことである。工期が限られていて早く図面を仕上げなければならないといった事情があったのかもしれない。ランドマーク状の建築として白井晟一の作品ということになっているが、テナントビルという性格上内部に関しては、あまり深い関与はされなかったように思う。


 竹中工務店のスタッフは日曜・祝祭日も無い白井研究所の生活に多少不満があったのであろう。ある時冗談まじりに白井晟一に向かって、〝労働基準法では週休二日ってことに・・・〟と言いかけた途端の白井晟一の反応がおもしろかった。


  〝労働?・・・君にとって建築の設計は労働なのかい?リクリエーションだよ、リクリエーション!〟


ついでに


   〝画家や彫刻家が週休二日制などと言い始めたらどうなるかね、そもそも建築の設計は週に二日も休まなきゃつとまらない仕事かい?〟

  

 竹中の所員達は1/4程の苦笑いを浮かべながら、呆気にとられた顔で聞いていた。






2023年7月10日月曜日

 コラム329 <白井晟一の想い出 ⑨>         ───税務署からの電話───


  〝君達は建築家という職業は建築の専門書だけで

   成り立っていると思っているのかね⁉〟


 白井晟一の書籍には建築関係の本以上に美術書などの豪華本が多かったに違いない。ブラジリアンローズの扉の中にあったから詳しくは知らないが、一度何かの豪華本を見せてくれたことがあった。


  〝手を洗ってから見ろよ〟


 ガンダーラ彫刻などもしばしば目にした。美術品も多かった。そうしたものを身のまわりに置いて、自分の感覚を磨き上げていたのだろう。そのすべてが建築家白井晟一に結びついていた。思想書も多かった。しかし、税務署としてはそうした類のものは経費としては認められない、ということのようだった。それに対して上記の言葉となったのだ。私は白井晟一の主張に共感しながら聞いていた。


  〝日本て、寂しい国だねえ・・・〟


と最後に一言付け加えたかったに違いない。

  

  〝君といくら話しても無駄だ!〟

 

溜息まじりのこの言葉で税務署との電話は終わった。





 東京港区の神谷町交差点に建ったランドマーク的建築ノアビルのファサードが一部勝手に造り変えられた時も、〝建築に著作権はないのか〟と主張し、新聞でも取り上げられたが、新聞社も関心が深かったとは言えなかった。この時も白井晟一は寂しい思いをしたに違いない。勿論ごく一部の、という意味だけれど。建築がもし芸術、もしくは美術のひとつと考えられるなら、自分の所有物とはいえ、勝手に変更は加えられないのが原則だ。建築と美の関りについて関心が極めて薄い国、日本。新聞などでまれに建築が取り上げられる時でも、設計した建築家の名は殆ど記されることがない。記者になぜかと問うたことがあるが、〝偏って宣伝になりかねない、というのが新聞社の通念だ〟と云う。何という寂しい感覚なのだろう。

 73才でこの世を去った白井晟一は「孤高の建築家」などと呼ばれたりしたが、こういう面での寂しさを抱きながら生涯を終えた人であったことに違いはないだろう。






2023年7月3日月曜日

 コラム328 <白井晟一の想い出 ⑧>        ───熱が出た?・・・だからどうするんだ⁉───

 

 白井研究所は普通の設計事務所とは大分趣が違っていて出勤(というにはピタリとこないが)は昼の12時、帰りは終電がなくなりますから帰りま~す、といった調子のところだった。私は最初から板橋区の高島平団地から中野区の研究所まで、自転車通いであった。どれ位の距離があったものやら小一時間はかかっていたように思う。

 

 冷たい雨の寒い夜だった。雨に濡れながら帰り、夜中1時半から朝方6時までの肉体労働のアルバイトをこなして帰宅。入浴、仮眠2時間といった生活をしていたら、さすがに39度を超える熱を出した。単なる風邪であったかインフルエンザであったかは判らない。研究所に電話したら白井晟一が直接出られた。

  

  〝熱が出た?・・・だからどうするんだ!来るのか来ないのか!〟

  

 30才位の時だからこう言われては〝休みます〟とも言えず、腹も立つはで

  〝これから行きます‼〟

と言ってしまった。

  

  〝クソッ、風邪の熱位で休むことは以後絶対にしない!〟


 その時の腹立ちまぎれの決心である。決心とは不思議なもので以来、76才の今日まで風邪は引いてもそれで寝込んだりしたことは一度も無い。研究所に着いてから白井晟一に懇々(こんこん)と説教された。

  

  〝君達は腹が痛い、熱が出た・・・だから休むのは当然だと思っている〟


 その翌日から白井晟一は高熱を出して寝込んだ。〝ざまあみろ!〟とは思わなかったが、30才前後のことでもあるし、あるいは多少思ったかもしれない。以来この件に関して白井晟一と話し合ったことはない。