コラム197 <気力はどこから出てくるものか②>
発症後あと二か月足らずで、三年になる。やっと、やる気という意味での気力が甦りつつある。私にとっての本当の自主トレーニングはこれからだ、と思えるようになってきた。発症後半年経過したら、以後大きな回復は望めないなどという医学界の常識に捉われずに、73才になった私は淡々と自主トレを続けるだろう。そして発症後5年後にはどこまで恢復しているか改めて報告したいと思う。息巻いていた割に恢復していないという結果になるかもしれないが、生きるとはそのプロセスだから……結果は天のみぞ知る、である。
自主トレの自分なりにの組立を考えるに、若い頃やっていたスポーツ(陸上競技やスキー)が大いに役立っていることは確かだ。病院では入院中も退院後も転ばないように、転ばないようにと再三注意を受けたが、転んで起き上がるのも経験の内だろう。特に退院後はこれまで幾度も転んだし、笹ヤブの坂を滑り落ちて大きな石に頭をぶつけ、血を流したこともあるが、大したケガもなく済んでいるのは、若い時分、柔道をやっていたおかげであると思う。転び方がうまいのである。セラピスト達はトレーニング中にケガでもされると責任問題となるから、チャレンジャブルなトレーニングをどうしても控え気味になる。だから私は最初から宣言した。
〝トレーニング中に転んでケガしようが、私は病院の責任など決して問いませんから……〟
こうしてセラピストとの気も合って思いっきりのいいトレーニングを随分させてもらった。
1階のリハビリルームから病室のある
4階までの階段を許可もなく登ったこともある。挑戦しなきゃ、楽しくないよ。
気力とは、気質にもよる。気質とは生まれた時に身についてくるもののようであるから、簡単には鍛えられない。熱き胸(思い)と、力の入らぬ丹田では、気力はどうにもならないのである。志(胸)と気(丹田)はどこかでつながっているものかもしれない。
もっと日常的な気分でいえば、
Ⓐ・今日の体調は最悪であるし、ベッドに横になったまま休んでいたい……
・ああ、腿(モモ)の筋肉がもう限界である。こんな調子では歩けそうにない……
・風も強いし、空は暗いし、今日は歩きに出かけるのはよそう……
Ⓑ・そんなことはどうでも、よ~し、一丁やったるか……!
ⒷマイナスⒶがプラスとして残れば行動が起こせる。気力があるとは、このプラス部分が残ってこそはじめて言えるのである。自分との闘い、気力との闘いとはこういうことである。
Ⓐに勝るⒷということである。