2021年6月28日月曜日

 コラム223 <野鳥達の朝>

  久々に山小屋に来た。まもなくひと月が経つ。野鳥達は新緑の森の中で毎日朝の訪れを喜んで爽やかに囀(さえず)る。オオルリ、コルリ、ミソサザイ、シジュウカラ、ヤマガラ、それにホトトギス……。
 しかし人間達は朝の訪れの喜びを忘れ、朝が今日一日の命の始まりであることも忘れてしまった。おはよう!と野鳥達に声をかけながら残っていた古米を共に食(は)む朝。命の始まりを改めて思う朝である。




2021年6月21日月曜日

 

コラム222 <脳出血から3年4カ月経った者の心境>

 

右脚(あし)さん 自分の方だけでも 大変なのに

  左脚の足りないところ補ってくれて、ありがとう。

 左脚さん 脳からの指令がうまく届かないのに

  私の身体を支えようとして懸命にがんばってくれて、ありがとう。



 

2021年6月14日月曜日

 コラム221 <古美術屋さんが泣いている>

  売れない、さっぱり売れない。そりゃあ、そうだと思う。古美術の似合う家が無いからだ。昨今主流のビニールクロスボックスをサイディングで包(くる)んだような家では、古美術を楽しもうにもそういう気分にならないであろうし、そのような空間に長く身を置いて暮らしていれば、古美術に関心を寄せる感性すら育たないに違いない。それ故欲しがらない、結果売れもしないということになっているのだろう。

  私の若い頃には長く骨董・古美術ブームが続いた。ある時期には古伊万里ブームがあった。金が無くとも江戸時代の蕎麦猪口を随分買い集めた。味わい深い染付の大皿・中皿・豆皿(小さい皿のこと)、他鉢類なども多く求めた。ブームが去り、売れない、買わない時代となって値崩れを起こした今日から見れば、随分高値で買ったものだが、その分楽しみも多かった。物そのものも勿論楽しかったが、それ以上に古美術屋さんとの交流や、同様の趣味を持つ仲間達との骨董談議が楽しかった。
 骨董・古美術店に限らず、今手工芸品の店も泣いている。その裏では住生活に直結している木工家や陶芸家・漆芸家・ガラス工芸家達も辛い思いをしていることだろう。画家の絵もまた売れない。左官壁のようであって左官壁ではないビニールクロスの壁、貼りものの合板床、塩ビシートに木目プリントのドア及び天井板等、外部にあってはタイルや石のようであってそうではないサイディング……このような家では優れた古美術品など優品であればある程似合わないだろう。こうして骨董・古美術屋さん達が泣いているのだ。貴重な古美術品の多い日本で長い歴史を生き抜いてきたそれらは使われず、生かされず、これからどういう運命をたどっていくのだろうか。住宅の持つ影響力の大きさを忘れず住生活の充実、延(ひ)いては精神生活の安定のためにも、歴史と共に歩める家を仲間達と共に今後も作り続けたいと願っている。



2021年6月7日月曜日

 コラム220 <乾いた心>

  ふと誰かが言った。

 〝ドライにできるって、心が乾いているからドライにできるんだよ。〟
なるほど。心と心の直接の交流が少なくなって、徐々に乾いた心の人が多くなってきているのかもしれない。

  建築木材にドライビームというものがある。人工的に極度に乾燥させているから、割れない、歪まない、伸び縮みしないはいいけれども、確実に木の魅力を失う。樹脂分までが飛んで木のもつしっとり感を失い、しなやかさも失う。構造強度も確実に落ちていると思う。この性質をわかりやすく例えれば、枯木により近い状態になっているということだ。この点我々の賛助会員でもあり、都内有数の林業・製材・材木店である浜中材木店の浜中さんも同意見だ。

 人間と同じで長所・欠点を併せ持って健全な状態というものだ。人間の心もあまりに湿っぽ過ぎるのも問題だが、あまりにドライ過ぎるのも問題だ。人間の心の総合力を昔から知・情・意というではないか。胆力を含めてバランスのとれた心を持っているかどうか———それをその人の「人間力」と呼んできたのだ。直に人間を相手にしないリモート・テレワークの類は今後益々拡がりを見せていくだろう。それがいかに安全であろうと便利であろうと、会議等の情報交換の手段としてならまだいいが、それによって人間の関係は深まらないし、知・情・意も鍛えられない。即ち「人間力」が鍛えられず、ドライビームのような人間がどんどん増えていくことになりやしないかと心配だ。

 以前牛殺しで名を馳せた極真空手の大山倍達前館長の演武を生で一度だけ見たことがある。代々木体育館だったか武道館だったか忘れたがスタッフの一人が極真空手の有段者だったから誘われて一緒に見に行ったのである。我々の席は会場の最上段であったから大山倍達とはかなり距離があり下の方に小さく見えるだけだったが、並々ならぬ気迫が我々のところにまでストレートに伝わってきて〝すごい!〟と圧倒されたものだった。その姿が後日TVで放映された。鬼気迫るあの気迫はブラウン管のガラス一枚を通ることですっかり消えていた。テレワークなどもあれと同じではないか。ガラス一枚によって消えるのは気迫、情熱、迫力、鬼気、胆力———そうしたものが、見事に損われる。真に人間を鍛えるためには、直接に人間と対峙することの大切さをいつの時代になっても失ってはならないとつくづく思ったのである。