2019年11月25日月曜日


コラム140 <鹿教湯(温泉)病院>

 新しく転院した鹿教湯病院での3ヶ月間のリハビリは私にとってかけがえのないものとなった。
 松戸リハでは理学療法士(PT)Aさんを中心にしたチームで、感謝の言葉もない程懸命に取り組んでくれたが、途中急性胆のう炎を起こして「新東京病院」に転院を余儀なくされ、これでリハビリスケジュールとしては三週間程の狂いを生じた。順調に回復基調にあっただけに残念なことであった。あまりがまんし過ぎて胃に穴が開いたかのような激痛で、〝もう一日経っていたら敗血症になっていたところでしたよ。がまんも程々に!〟と注意された。
 松戸リハを転院する頃には介助者付きという条件で一本杖で100メートルか150メートル(勿論足に装具を付けて)歩くのがやっとだったように思う。Aさんも三週間の予定外の転院を残念がっていたのがよく判った。もっといい状態で転院させたかったのであろう。
ここでは4階の病室と一階のリハビリルームの往き来は私の回復程度では安全のため担当セラピストが車椅子で送迎するのが定まりだった。だから私は病室で迎えに来てくれるのを待っていればよかったし、帰りも車椅子で送られるだけだった。終わりの頃には4階エレベーターから自分の部屋までは〝自分で帰れますよ〟といって自走したりもしたが……。

 鹿教湯病院に転院して〝地獄の鹿教湯〟と呼ばれている意味を実感することになる。トレーニングがハードなんだろうな 位にしか思っていなかったが、入院した翌日のリハビリからびっくりした。私の病室は4階、リハビリルームは1階であるのは前病院と同じだったが(松戸リハではエレベーターを出るとすぐ目の前がリハ室だった)、大きく違ったのは内容だった。何せ60年の間に増築に増築を重ねてきたという古い病院だからエレベーターを出てからリハ室まで歩かなければならない。
しかも 〝4階の病室から1階のリハビリルームまでは自分で歩いて来て下さい〟
〝ハァ?車椅子でなくて、杖ついて、一人で、ですか?〟
〝勿論!大丈夫!出来ますよ!〟
おそるおそるエレベーターで一階まで降り、リハ室までまだ不安の残る一本杖で歩いていくのです。初日からですよ。
おそらく同じ日の午後だったと思うが、理学療法士(PT)Sさんが
〝杖なしで歩いてみましょう〟
〝ハァ?杖なしで、ですか?〟
しかも右手に八分目位水の入ったガラスコップを持たされてこぼさないように……それで歩けというんだから やるしかない。
〝酒なら違うんだけどなぁ…〟 などと冗談を言いながら歩いたら、それが不思議に出来たのです。ヨタヨタ しながらも水もこぼさずに……。リハ室内の事務室ワンブロックを一廻りしたのですから距離にして5~60メートルはあったでしょう。驚いたのはむこうじゃなくてこっちだ。
 午前の少しの時間でベテランのセラピストはどの程度までできるか見抜いているんですね。こうして理学療法士のSさんと作業療法士のNさんを中心にしたリハビリが始まり、以後ここでの3ヶ月間は私にとって忘れ難いものとなりました。

 
 つくりこそ古く、病室もいい部屋とは言い難いものでしたが豊かな自然環境に恵まれ、朝には野鳥たちのさえずりに目ざめ、毎朝七時には近くの山寺の鐘が ゴ~ン ゴ~ン と山中に響き、職員達も皆素朴で親切でした。ハードなトレーニングながらも良好な人間関係が築かれ、厳しい中にも充実したリハビリ生活が続きました。この間、患者にとって、いや人間にとって何が一番大切なものか、改めて考えさせられました。
 退院の日には涙がこみ上げ、食卓仲間達も皆別れのあいさつに来てくれました。こうして鹿教湯は私にとって第二の故郷と呼ぶべきところとなったのです。

 

2019年11月18日月曜日


コラム139 <2つ目のリハビリテーション病院>

 松戸リハビリテーション病院での約3ヶ月半のリハビリを終え、信州上田市の山中にある鹿教湯(かけゆ)病院に転院する決心をした。ここは鹿教湯温泉郷内にあり、歴史も古く、リハビリ病院としては定評のあるところである。元々第一の希望だったが、しかし身体がまるで動けない状態で、しかも看病者のことを考えると一気にそこに入院する訳にはいかなかった。決心したのはいいが県外の人間が入院するのも難しく、入院するまでの厄介な交渉や手続きに新しい連れ合いが苦労を重ねてくれた。前病院のソーシャルワーカーYさんも転院にあたって協力的に両病院のかけ橋となって力になってくれた。また長野市に住む長姉は長野と松戸をほとんど毎週のように往復して元気づけてくれた。
 これは鹿教湯病院を退院するまで続き、さらに現在まで続いている。連れ合いと姉は現役で仕事をしているのでうまく連携をとりながら親身に尽くしてくれている。秋田市に住む下の姉は幼い頃から股関節脱臼を患い、数年前に両足の手術をしたので遠出は無理とあって電話で秋田訛の言葉で 〝私はそっちまで見舞いに行けないけれど、朝に夕に御先祖さん達に一日も早く病気をよくしてやって下さいと拝んでいるから…〟 と言われた時には思わず涙が滲み出た。すでに電話口で姉の方が涙ぐんでいるのだから…。
小さい時はよく喧嘩したものだが姉弟仲よく育て上げてくれた親に深く感謝した。仲がいいというのは平和の象徴なのだから。





2019年11月11日月曜日


コラム138 <急性期(救急)病院からリハビリテーション病院へ>

発症から一日も早くリハビリを始めた方がよいとはよく言われることだが、急性期病院でもリハビリはしてくれるが、元々の役割が違うし割り当てられる時間も短い。それでも一歩足を出すにも困難な状態で二人の女性セラピストが汗だくになりながら懸命に取り組んでくれた。
太もものつけ根までロボコップのような装具をつけてかかえられながら車椅子からやっと立ち上がり、手摺づたいに ヨッチラヨッチラ 歩くのである。寄り添ってくれた二人の懸命さは忘れがたいものであった。

その後の転院先のリハビリテーション病院をさがし、決めるまでが大変だ。まず第一になかなか空きがない。看病する側にとって立地の問題も重要だ。友人たちも色々な病院の情報をくれた。病院のソーシャルワーカーも各病院と連絡をとり、調整してくれた。そんな中から病院の経営ポリシーからして少々日数を待ってでも、ここがいいと直感したのが千葉県の「松戸リハビリテーション病院」であった。後に別れた妻も早く入れるようにこの病院に日参してかけ合ってくれたらしい。こうしてやっと転院先と転院日が決まった。
この病院は新しく建った分きれいで、病室も広く快適であった。ベッドの他にソファ、デスク、収納家具、デスクスタンドが備えられ、壁には複製画であることは致し方ないとしても絵も掛けられていた。家具のレイアウトは患者が自由に変えていいというので看護士さん達の手を借りて自分流に変えた。これだけで部屋の雰囲気は大きく変化し、息子が準備してくれたCDプレイヤーとCDでほとんどの時間静かなジャズを流していたから、それに白々とした蛍光灯の大きなシーリングライトは消して唯一電球色であったテーブルスタンドのみを点けていたから、特に夜入ってくる看護士さん達は
〝ここに来ると気持ちが落ち着きますよ〟とか
〝他と同じ病室とは思えませんね〟とか
〝疲れた時、時々来ていいですか?〟
などという人まで現れてしばし音楽を聴いて帰る人もいた。冗談まじりに、
 〝こんどコーヒーでも持ってきて休ませ      てもらおう〟
などという人もいて、チェットベーカーやスタンゲッツなどのファンになった人もいるに違いない。
それからというもの、どれだけ多くの人と音楽や住宅の話をしたか分からない。部屋には私の書いた本や住宅建築の特集号を置いてあったから、借りていく人もいたし、皆住宅に大きな関心を持っているものだと改めて認識させられた。

 




 この頃は新刊本(平凡社)の校正の最終段階に入っていたから車椅子に腰かけながら辛い思いで作業を続けていた。宝塚から見舞いに来てくれた住まい塾OBの医師Sさんが自分の経験からして、これがいいですよ と早速ジェルクッションを送ってくれた。このおかげで校正作業がどれ程助けられたかわからない。
この病院の職員たちは皆親切で優しく、不快な思いを一度もしたことがない。みごとだと思った。
職業がらただ一つだけ気になったことがあった。
病室のエアコンが集中管理方式になっているためエアコンのONOFFを自動的に繰り返す度に天井吹出口付近の金属が収縮を繰り返すのだろう。これが皆寝静まった夜中に ピチッピチッピチッ と音がして気になってなかなか寝付けない。脳神経の病だから余計に敏感であったのかもしれないが、この時も新しい病院ができたら経営者も医師も看護師もどんな問題があるのか、入院患者となって寝泊りしてみるといいと思われた。もしこれが住宅のベッドルームならきっとクレームの対象になる。志高い病院であればある程、病院(特に長期入院を余儀なくされる病室)にはもっと住宅の感覚を取り入れる必要があると痛感した。

2019年11月4日月曜日


コラム137 <救急病棟から一般病棟へ>

一般病棟は階が上の方だったのだろう。窓から見えるのどかな田園風景が唯一のなぐさめとなった。遠くに木立が見え、その中にピンク色の桃の花が咲いていた。

畑の中に建っているから、風当たりも強い。個室であったが、天井の隅あたりを ブ~ンブ~ン と羽音とも風切り音ともつかぬ音がする。最初スズメ蜂でも入り込んでいるのではないかと思われたが、私は建築の仕事をしているから換気扇の羽根が強風にあおられて逆回転を起こしているのではないか―それが夜半ともなると病棟・病室が静かになる分、その音が気になって眠れない。
看護士さんにその旨を訴えると〝この部屋に入った患者さんから時々そう言われるんですよ〟と言う。時々言われているのなら原因をつきとめて改善すればいいじゃないか!と思うが返ってきた言葉に驚いた。
〝建物がこうできているんですから仕方ないですよ!〟看護士の役割の範疇ではないことは重々承知しているが担当部署の方にお伝え願いたいといっても〝元々の設計がこうなっているんだから仕方ないですよ〟の一点張りであった。そんなにむずかしいことではない。こちらは身体も気力も萎えているから怒る元気もない。あの調子では、あれから一年半以上経った今もあのままだろう。
急性期病院の看護士さん達は本当に忙しい。救急患者が運ばれてくれば夜中でも呼び出される。多忙過ぎて気の毒にも思う。「忙」とは心を亡ぼすの意、それが多くてかつ過ぎるのだから、苛立つのも無理はない。病院体制の改革も勿論必要だろうが、それを職業に選んだプロなのだからとくに精神的にそれを乗り越える術を身につけて欲しいものだと思う。超多忙は病院とは病人のためにあることを忘れさせてしまう。ナースコールを何度押しても来ない。多忙が限界を超えて文字通り心を亡ぼしかけている人が多い。一人ではトイレに行けない、一人で行くことを禁じられている状態でナースコールを押してからやっと来てくれたのは、ある時は40分後であった。来ないから何度も押す。来た時には〝一度押せば判ります!〟と看護士も苛立っている。中には気の強い患者もいて〝何度押しても来ねえから何度も押すんじゃねえか‼〟とどなり返しているのもいた。〝おめえみてえなヤツは嫁のもらい手がいねえぞ!〟などと余計なことをいう患者までいた。悪循環である。
おむつをしているから大丈夫かといえば量の多い人は二重にパットをしていても間に合わない人もある。そういう人のことを裏方では大口さんと呼んでいることも知った。おむつがとれて尿ビンになる時期が来る。ある時いやにでかいものを持ってきたことがある。〝俺は馬じゃねえぞ!〟と笑い合ったこともあるが、今思えばあれは大口さん用だったのかもしれない。
「病気を経験しなければ病人の気持ちは分からない」とは真実のことだと思うが、専門医・看護士がすべてその病気になってみる訳にはいかないし、それでも改善できることは沢山あると思う。住宅の仕事も大変だが病院の仕事も大変だなあ、私などは同情半分の気持ちで見つめていた。