2022年3月28日月曜日

 コラム262 <山小屋のエサ台に集まる野鳥達>

 

 野鳥達がエサ台に最も多く集まってくるのは冬だ。逆に一番少ないのは青虫等の生エサの多い新緑の季節と、樹々がさまざまな実をつける秋だ。

 私の山小屋のエサ台に通年集まって来るのはヒガラ、コガラ、ヤマガラ、シジュウカラ、ゴジュウカラ等のカラ類、それにキジバトだ。冬になって一面雪におおわれる頃になると、アトリ、ウソ、オオマシコなどの冬鳥が飛来し、にぎやかだ。留鳥とされているカワラヒワも、この辺では圧倒的に冬に多い。

 古代ローマの闘士を思わせる風貌のシメや、睨(にら)みのきいた顔つきのカケスなども時々姿を見せて、冬の山中は多彩な顔ぶれだ。

 しかし人が多くなるにつれ、姿を見せなくなった鳥達も多い。辛うじて昼にはウグイスが鳴き、カッコウが鳴き、夕闇迫って寂しげに、ホトトギスが泣きながら飛び去ってゆく。




2022年3月21日月曜日

 コラム261 <野鳥もメタボ?>

 

 都会では、飼い主に連れられて太った犬がヨチヨチ・ヨタヨタと散歩している姿をしばしば見かけるようになった。昔には見かけなかった姿である。これも物質的に豊かになった時代のひとつの証なのだろう。

 運動不足ということもあろうが、それ以前にかわいさ余ってうまいもののやり過ぎが第一原因と思われる。過食プラス運動不足である。

  過日、麓のホームセンターまで野鳥のエサを買いに出かけた。何か企画があったのだろう。売場に「野鳥の会」のメンバーが来ていて、少し話を聞くことが出来た。

 最近は野鳥にエサを与える人が多くなり、野鳥達が栄養過多となって短命になっているという。この日まで私もヒマワリの種ばかりを与えていた。最も好んで食べるからである。その分栄養価が高く、カロリーも高いのだろう。

 その日からヒエとヒマワリを半々に混ぜてやるようにした。しかしヒマワリから先に食べるから、まずヒマワリが無くなる。かわいさ余って次々に足してやると、ヒマワリばかりが無くなってヒエは残る一方だ。ここが辛抱どころだ。ヒマワリの種が無くなっても、しばらく放っておくと、やがてヒエも食べるようになる。

 人間の身体に雑穀米がいいと言われるのと同じなんだな。かわいいからといって、好んで食べるものをどんどんやる。結果それが野鳥達を短命にしている、とその人は言うのだった。

 それでも別荘地に人が来る期間は限られているから幸いだ、と思ったが、常住組やレストラン等も年々増えて、そうとばかりも言っていられない状況になっている。〝野鳥もメタボの時代?〟と、ふと頭を過(よぎ)った。

  コロナウィルスの蔓延(まんえん)がきっかけとなって、自然の中で暮らす人が増えていると聞く。人間が多くなると碌(ろく)なことはない。移り住むのは結構だが、自然界のバランスを崩さないよう心掛けたいものだ。






2022年3月14日月曜日

 コラム260 <「診る」は「見る」のか?>

  一時間、ひどい時には数時間待って、診察は23分。大学病院や総合病院などでは特にそうだ。初診ならまだしも、予約していてこうであれば予約の意味はどこにあるのだろうか。これはしばしば話題にのぼるから、大きな病院では常態化していると見て間違いはないだろう。 

 さらにこの診察の23分についてである。人を見るならまだしも、パソコンを見るだけを診察と言うのだろうか。電子カルテになり、データを正確に打込まなければならない事情は理解しても、患者達が抱くこの異和感は消えない。中には患者の容態を一瞬にして見抜く神がかり的名医もいないとも限らないが、そんな医師が数多くいるとは到底思えない。 

 同様の状態が何年も続く。患者の側はそんなものだと感覚マヒを起こして、誰も文句を言わないし、病院側にも改善の兆しが無い。こうした状態を恒常的に生んでしまっている根本原因はどこにあるのか。
 患者にメスを入れる外科はあっても、改善もされないまま続く病院のあり方にメスを入れる外科は無い。医師の方も感覚マヒを起こして大きな問題だと思っている人は少ないようだが、容態の思わしくない患者は、待つのに疲れてさらに具合が悪くなって帰ってくる———何とかしなきゃならないんじゃないの?とその都度思う。




2022年3月7日月曜日

 コラム259 <価値ある本は何遍も読むべし >

  いい本は何度も読んで、学ぶべき内容を自分の心にすり込んでいくようでなければ、身につくものではない……などと思っているうちに、以下のようなことに気がついた。
 大事なことを他人から一度言われて身につく人がいるだろうか?何度も何度も言われて、やっと身につくかどうか……。それと同じことだ、とハッと気づかされた。

 私が今病院からもらっている軟膏に、こう書いてあった。
  〝できるだけ薄く、よくすり込んで下さい。一度に厚く塗っても効果が上がるものではありません。〟
 これと同(おんな)じだ。

 反省も同様だ。
 一度反省した位では、なかなか身につくものではない。価値ある話も、余程頭のいい人なら一度聞いて覚え込むことは可能だろうが、それは身についたこととは訳が違う。
 次々と新しいものを読む。学者や研究者ならいざ知らず、素人は人間をつくるためにこそ学び、知るのだ。それなのに、知ったことを身についたと錯覚しがちである。特に知識偏重の人間は厳重な注意が必要だ。