コラム182 <器の扱いについて教えられたこと>
脳出血以来、器がうまく扱えなくなって、改めてこれまで器の扱いについて教えられたことがらを思い出さざるを得なくなった。左手及び指の動きが思うようにいかないので細心の注意を払わないと落としたり、滑らせたり、器どうしぶつけたりして、器を損じることが多くなったからである。器の扱いという面では、自分を自分で躾けてきたようなところがあるだけに余計にくやしいのである。
第一に思い出されるのは、魯山人の教えである。おそらく『星岡茶寮』における従業員達へ心得として説いたものであろうと思われるが、器と器を重ねる際には間に必ず紙を敷き込んでいたという話である。器にキズをつけたり、欠き損じることの防止という意味ばかりでなく、特に陶器類は水分を吸うから高台周辺へのカビ防止にも役立ったことだろう。
この話を聞いて以来、私自身もこれを実生活に取り入れてきた。年々古い時代の貴重な器を使うようになったということもあるが、それだけではない。器を大切に扱うこと、特に長年生きてきた器を大切に扱うことは、器に対する礼儀というものであろう。私にとっては、これが器の扱いへの目ざめと呼んでいいものだった。これによって私の器の扱いは一歩成長した。
思い出したことの第二は、かつて渋谷神谷町にあった料亭『くねん坊』の女将から教えられたことである。この頃にはすでに家庭での躾もままならぬようになって塗りもの(漆器)を金タワシで洗われてなげく鰻屋の亭主がいたり、輪島塗の座卓の上をざらついた食器を擦って卓をキズだらけにされたりする例がめずらしくなくなっていた。自然陶磁器などもよく割る時代になっていたのである。茶道が男のものでなくなり、女性の茶道人口もめっきり減ったことも一因であったかもしれない。くねん坊の女将は〝最近は器をよく欠く時代になったわねえ……〟となげきつつ、〝厨房で洗う際にも器に心を残しながら扱わないのが原因ね。他人と話しながら洗ったり、早く済まそうと気が別のところに行ってしまったような状態で扱ったりするのも一因ね〟と、器に心を残して扱うという意味での「残心」という心得をここで教えられた。以来、私はほとんど器を欠き損じることがなくなったように思う。
食及び食器文化のきわめて高い日本であればこそ、もう一度器の扱いを見直したいものである。