2024年4月22日月曜日

 コラム370 <差別用語②> 


 「馬鹿」という言葉ひとつとっても、そのニュアンスの巾は広い。そもそも馬と鹿に失礼ではないか!などと言い始めたら収拾がつかなくなる。(因みに「馬鹿」は語源に諸説あってよく判らないが、愚かしいという意を含むインドサンスクリット語(moha)に始まり、やがて中国に仏教と共に伝わって「莫迦」と音写され、その後さらに日本に渡って馬鹿と音写(当て字)された、というのがだいたいのところらしい。だから馬や鹿に全く無関係。)

 

 だいぶ前になるが朝日新聞の記者が社内で配られた小型の手帳を見せてくれた、その中にこの差別用語と言い換え例が記されていた。明らかな差別用語ならともかく、これはおかしいよと思われることが散見された。例えば〝男らしい〟〝女らしい〟は共に差別用語。言い換え例として示されていたのが〝人間らしい〟であった。差別云々の前に日本語としてのニュアンスが全く違うではないか。男女差別を無くそうとの考えからなのだろうが、こういう類(たぐい)のことは頭で考えすぎると限りなくヘンなことが生じてくる。凛々(りり)しい女性がいて一向に構わないと思うが、私など逆に凛々しい男が少なくなったことを嘆かわしく思っている方である。〝「ハゲ天」という天ぷら屋には絶対に行かない。私の心が傷ついたから・・・〟などと言っていないで、ハゲのまま堂々と「ハゲ天」で天ぷらを食ってりゃいいじゃないか───その方が世の中、よっぽどおもしろいというものである。





2024年4月15日月曜日

 コラム369 <差別用語①> 


 昔は「認知症」などとは言わなかった。「耄碌(モーロク)」。今でも私にはこの方がリアリティがある。「惚(ぼ)ける」とも言った。「ぼけ老人」。こちらも差別用語の対象になったものやら最近はあまり聞かない。言葉使いには気を付けなければならないが、差別とは心の状態と相俟って言うのであって言葉そのものに差別があるのではない。


 しばしばおかしいと思う時があるこの差別用語。新聞社はもとより出版社もTV局も神経を尖(とが)らせる。この手の事柄に対して抗議するのを趣味にしているような人までいて、NHKなどには即抗議の電話がかかってくる、と聞いた。どこでどんな人達が集まって決めたことやら。そんなことを言っていたら「聖書」など差別用語だらけになるではないか。「仏典」だって同様だ。本音を聞くと、〝私も同感だよ〟と云う人も多いが、それでもお国の決めたことだからと従っている。おかしなことだ。







2024年4月8日月曜日

 コラム368 <すっかりモーロクしております> 


 昔は認知症などとスマートな言葉は使わなかった。耄碌(モーロク)。育ちの上品な人は、モーロクしても上品だ。こういう人と出会うと、かつて住まい塾で家を造った元男爵の家のことを想い出す。

 ここの奥様はある日私にこう言うのだ。


  〝ワタクシ、人間ってどうなっているのか判らなくなりましたわ。

   あんなに上品だったおとなりの奥様が、最近私と顔を合わせると

  〝このバ・カ!〟なんて言うんでございますのよ。〟


だから私は冗談まじりに言った。


  〝モーロクする前に一度言いたかったんじゃないですか?〟


 以来私は人生に無理は禁物と思い定めた。相手が上品だからおとなりさんはそうざあますか式にさぞかし気を使って暮らしてきたに違いない、と思われたからである。


 自分らしく、無手勝流に、丸腰で、これが一番。無理して生きていくとモーロクした時が怖いぞ。


 




2024年4月1日月曜日

 コラム367 <天道虫(てんとうむし)> 


 入院先の病室で、寝不足が祟(たた)って机に向かっているうちに椅子からもんどりころげ落ちた。側頭部とマヒ側の腰、肘(ひじ)を強打した。

 

 床はクッションフロアー張りとは云え、その下はコンクリートだから衝撃は大きかった。なかなか起き上がれないでいると、目の前に赤い地に黒い斑紋の天道虫がやってきた。羽根をぱっと広げて、飛んで行ってはすぐ目の前に戻ってくる。床に横になりながら〝この寒い冬に、君はいったいどこから入って来たんだい?″などと話を交わしているうちに、天道虫(これまで私は転倒虫だとばかり思っていた)に何だか励まされているような気分になってきた。一瞬目の前から姿が消えた。

 

 床から起き上がって机の椅子にやっと腰かけ直したら机上に立てかけてあった岩波新書『ブッダが説いた幸せな生き方』の背に止まっていた。これを再読するように、とのことのようだ。それを伝え終えたら、固めの羽根をさっと広げてまたどこかに消えた。






2024年3月25日月曜日

 コラム366 <恩> 


 これまで沢山の人々の恩を山程受けてきた。よく通った宝塚の古美術屋さん『昔々庵』の有井日出子さんもその一人である。随分長いことお世話になった。骨董・古美術 ─── 器、茶道具、掛軸、等々色々見せてもらい、手で、眼で、触れさせてもらった。毎日新聞社系の広告会社に居た頃から好きで買い集めたというだけあって、知り合った初期には通称古伊万里の名品を数多く持っておられた。ほぼ毎月、大阪に行く度に伺って、楽しかった。訪ねる度に必ず食事を準備してくれていた。食事時間を避けて伺ってもそれは変わらなかった。あのように世話好きで面倒見のいい人はもう浪花(なにわ)のあの年代にしか残っていないと思われた。交際範囲の広い方だったから、家を造りたいという人を住まい塾に幾人も紹介してくれた。おもしろい話、益になる話、諭される話を随分聞いた。想い出に色濃く残る方であった。すぐに想い出すのは次の言葉である。


  〝受けた恩は石に刻み、

   かけた恩は水に流せ〟


 これは有井さんが座右の銘にしてきた言葉だそうである。

 現代はこれが逆転してしまっている人の何と多いことか。





2024年3月18日月曜日

 コラム365 <頑固もしなやかに> 


 時には頑固も必要だ。だがしなやかに、しなやかに・・・。ただ固いだけならそれを頑迷と云う。

 木造住宅と同(おんな)じだ。堅牢(けんろう)かつしなやかであってこそ真の丈夫さというものだ。


 時代と共に頑迷な人間が増えてやしないか?年のせいばかりではない。運動不足によって身体が固くなるように、心が固くなるのも、同じく心の運動不足だ。感動、感激、喜怒哀楽の感情の動きが不足している結果だ。その好例が愚痴である。痴は以前にも書いたが癡とも書く。知る病、疑う病。それに加えて愚(おろか)の字まで付いているのだ。

 他人の話を聞かない、聞こうとしない。耳では聞こえはするが心で聞こうとしない。故に心に響かない。心の運動不足、心がしなやかさを失っている証拠だ。

 いろんな意味で美しいもの、ことに触れること、思いやること、笑顔(へらへらはダメだぜ)等々、心の運動はいっぱいあるじゃないか。


 振り返ってみると、仕事の上でも、人間としても成長していない人間に限って愚痴が多い印象だ。だから愚痴が多くなったら、自分は成長していないんだな、と思って間違いない。





2024年3月11日月曜日

 コラム364 <下さい、に御用心> 


 この「下さい」は語調によってはきつく響く時がしばしばある。

 ほとんどの人がこの言葉を丁寧語だと思っているが、基本は命令形だ。だから口調、語調には要注意を!乗せる心の問題でもあるが・・・。





2024年3月4日月曜日

 コラム363 <街の野鳥> 


 街の野鳥は早朝から騒音に近い。特に多いのがムクドリだ。ギャア、ギャア、ギャア、ギャア、鳴く。駅前広場の樹木に夜大量に群れてギャア、ギャア・ポタ、ポタやっているのがムクドリだ。いつ頃からか、こんな風になったのは・・・。

 最近ではこれにカラスが加わった。しかも昔のようなカァ~、カァ~、カァ~、ではなく、グヮッ、グヮッ、グヮッ、グヮッ、とせわしない。これも世相の反映か。


 久々にシジュウカラが来て囀った。帰塾して4日目の朝だ。明かり障子の外で何かの実をついばんでいるようだ。八ヶ岳山中から3日もかけて追いかけてきたのかなぁ・・・。

 春になればこの辺でもウグイスが鳴き始める。しかしなぜだろう・・・山中ではよく聞くウグイスの谷渡りというものを、街では聞かない。谷がないから当然か・・・。枝から枝へ飛び移るときも鳴くというが、飛び移るだけの樹間も無いしね。





2024年2月26日月曜日

 コラム362 <ユーモア>


 ある高僧に死期が迫っていた。床に横たわる高僧に、弟子の一人が問う。


  〝最後に我々弟子に言い残すことは・・・?〟


まわりの人々は耳を澄ました。一瞬沈黙の時間のあと返ってきた言葉は


  〝死にとうない・・・〟


高僧がそんなことを言うはずがない、何か聞き違えたか、ともう一度聞いた。


  〝我々に言い残したいことは・・・?〟


少しの間を置いて返ってきた言葉はやはり


  〝死にとうない・・・〟


であったと云う。この話を私は何かの仏教関係の本で読んだ。笑い話のようでもあり、本音と受け取る向きもあるようだが、悟りに近くある高僧のことだ。死期に及んでユーモアとしてこのように言ったのだとすれば、さすが高僧だ、と私は思う。死ぬまでユーモアを忘れず、死んでもユーモアを忘れず、あの世までユーモアで充たせたらさぞかし愉快なことだろう。






2024年2月19日月曜日

 コラム361 <眼醒め> 


心は真理に触れた時に眼醒(めざ)める。

インスピレーションよ、静寂の風に乗って真理を運んでくれ。


 



2024年2月12日月曜日

 コラム360 <目覚め>


八ヶ岳の山小屋では、野鳥の囀(さえず)りに目が覚め

毎冬リハビリ入院する上田市山中の鹿教湯病院では山寺の鐘の音に目が覚め

町に帰れば車の騒音に目が覚める。 





2024年2月5日月曜日

 コラム359 <白井晟一 照子夫人の言葉──偉くなることと、りっぱになることとは全く違うことなのよ──> 


 白井晟一が関西出張で不在になることが多かったから、リビングルームで照子夫人と話す機会が多くなった。普段は日常的な雑談に過ぎないが、ある日の話が忘れられない。

 いつ頃のことであるか、若かりし頃は仕事にも恵まれず、随分貧しい生活を送られたようだ。秋田での講演をきっかけに秋田での仕事の依頼が増えた頃も、行く汽車賃に事欠き、その度に自分の持っていた着物を質に入れて、交通費を捻出(ねんしゅつ)していた話なども聞いた。後に白井晟一は芸術院賞の候補に幾度か上がったが、私が入ってからの中期頃であったか、芸術院賞を受賞された。建築家では村野藤吾氏に次ぐ二人目であったと記憶する。私が学生の頃にはすでにファンの多い有名人であったが、さらにさらに偉い人になっていったのである。夫人はこれまでの人生を振り返って、


  〝貧しくて、軒の下で七輪でごはんを炊いていた頃が一番充実していたように思えるわ〟と云い

  〝懸命に生きている時が幸せな時だと思わなきゃだめよ・・・〟


と諭された。さらに


  〝人間偉くなることと、りっぱになることとは全くちがうことなのよ。若い内はこの二つを同じことのように考えがちだけど、これは違うのよ。偉くなったらかえってりっぱになれないかもしれないわ。あなたもりっぱな人間におなんなさいよ〟


この言葉は胸に深く刻まれて生涯忘れられない言葉になった。





 


2024年1月29日月曜日

 コラム358 <白井晟一の言葉④ ── うちは無給だ、ありがたいと思いなさい ──> 


 白井晟一には熱烈なファンが多かった。だが会うことすらなかなか適(かな)わないというのがもっぱらの評判であった。会ってくれるまで帰らない、と門の前でハンガーストライキをやる人間までいたようだ。私は運が良かった。そんなことをしてまで会ってもらっても仕方がない、と直球勝負で手紙を認(したた)めた。

 まもなく、〝いついつ来なさい〟という返事を戴いた。思いが通じたと思われてうれしかった。弟子入り志願をする時には学生時代の図面を持って行くのが、その頃の慣(なら)わしであった。私は図学や設計製図だけは優秀であった。私を助手に迎えてくれた井口洋佑助教授(当時:現在は名誉教授)は図学や設計製図の担当教授でもあったから、この学生は相当優秀だときっと勘違いしたに違いない。後に教授会で私を助手に推薦した時に判ったことのようだが〝君は優秀な科目はきわめて優秀だが、他は大したことないんだね〟と言われたからだ。そりゃあそうだ。大して興味も湧かぬ科目はからっきし勉強しなかったのだから・・・。

 数年がかりでも、と腹をくくっていた私の望みは大した困難もなくすんなり適った。その時何を話したかはほとんど憶えていないが、〝君の建築に対する思いと、私とは似たところがある〟と言われたことだけは憶えている。





 私が研究所に入ってしばらくしてからは志願者との第一面接は私がやるようになった。その頃は手紙で志願する者が殆(ほとん)どだったから、白井晟一がその手紙を読んで可能性のありそうな者が選ばれて第一面接となるのである。それでも私が居た十年間で私が会った志願者は3~4人しか居なかったから、返事ももらえず、会うこともできなかった人達は沢山いたに違いない。白井晟一が私に〝ちょっと会ってみてくれ〟という者は文面と書体から瞬時に判るものである。第一関門を突破して、彼ならやれるんじゃないですか、と報告すると初めて白井晟一との面接となる。その時の言葉である。


  〝来てみたらいいよ。ただしうちは無給だぞ〟

  〝君らはこれまで、高い入学金や授業料を払って大して役にも立たない大学で何年も

   学んできたんだろう?うちに来て無給とはありがたい、と思いなさい〟


さらに


  〝使いものにならないのに昨今は大学を出たら一人前に生活できるだけの給料が

   保証されるのが当然とばかりに考える。こうした感覚はどこから来たのかね・・・〟


 ものづくりの世界にはまだ内弟子といった感覚が残っていたが、合点のいく話であった。道理に適っている・・・なるほど・・・。そこには白井晟一の自負と自信、現代教育に対する不信もあった。時給、日給、月給、最低賃金制度等々。職人達を育てられなくなった社会の根底にはこうした問題が横たわっている。

 お金とはある価値あること、ものを相手に与えて、その代価として得られるものである。これは以前秋田市の出版社から出た本にも詳しく書いたことである。本のタイトルは忘れた。 

2024年1月22日月曜日

 コラム357 <白井晟一の言葉③ ── ローコストでなければ建築とは言えないよ ──> 


 私が白井研究所に入った時には代表作親和銀行の第Ⅰ期と第Ⅱ期はすでに完成していた。私が所員として研究所にいたのは第Ⅲ期の「懐霄館」の頃である。

 メインの担当は先輩の柿沼守利さんであったが、私が入って数年経った頃であったから、図面の一部や佐世保本店のゴルフクラブの建物に泊まり込んで、時にはゴルフをやったりしながらしばらく手伝った時期もあった。ゴルフなど初めてであったから地面ばかりを叩き、あちこちモグラの穴のようにして、それを自分で直す常識もなかったから、頭取が私が傷つけた穴を修復して歩いている姿を見て、ああするのが当然のマナーなのだと知ったほどの為体(ていたらく)ぶりであった。


 「懐霄館」の外壁は窯場の多かった地方故に当初、廃窯やつくり替えられた窯場などから出た味わい深い大判の焼過ぎ古レンガを使うのが白井晟一の最初のイメージだった。工事担当の竹中工務店ではその線で検討したが、数が数だけにとても集められないし、仮に集められたとしても非常に高価なものになるとの結論に達して、その方針は断念された。最終的には諫早(いさはや)砂岩の野面(のづら)仕上となったのだが、どこかを車で走っていた時に車窓から見えた擁壁に〝あれはどこの石だ?〟というところから始まったらしい。調べて判ったのは長崎出島のグラバー邸にも使われている諫早の砂岩だと知って急遽(きゅうきょ)その可能性が浮上したのであった。その時の会話も忘れられない。何せ11階建ての建物であるから、工事所長の高尾さんが即言った。

  

  〝あれを11階まで積み上げろ、と言われたら死人が出ますよ!〟


白井晟一は悩むでも迷うでもなく、即言った。

  

  〝出てもかまわん‼〟〝その時は私(わし)も死ぬ!〟

  (後半の言葉はこう言ったかどうか定かではない)



 

 今なら問題になりそうな発言であるが、私には冗談半分で言っているようには思われなかった。考えてみれば西洋の歴史に遺(のこ)る石造建築などは工事中に命を落とした人は少なからずいたに違いない。そういう認識のもとに衝(つ)いて出た言葉であったろうが、鬼気迫るものがあった。分厚い野面石を地震国である日本で11階まで積み上げることなど出来ない。バラけないように個々の石を金属のダボでつなぎながら、そのダボをさらに躯体に格子状に張りめぐらされた鉄筋に引き寄せ、積み上げるとも、貼り巡らすともいえるような構法で裏込め接着モルタルを詰めながらこの難工事は完了したのである。

 途中私は石を半分の厚さにしたら荷重も減りその分コストも下がるのではないか、と思ったのだが、厚さを半分にする方がはるかに高くなることを知った。なぜなら石の場合、二枚に切断加工する加工賃の方が原石のボリュームの値をはるかに上まわることを知ったからである。石切場で分厚く素朴に野面仕上げされたままを使う──これも白井晟一にとっては、ローコスト対策のひとつであった。この上なくハイコスト建築と思われがちな白井晟一の建築は、自身が語る通り


  〝ローコストでなければ建築ではない〟


という信念に裏付けられているのである。


  〝大きく構成しろよ、大きく・・・〟


十年間のうちに幾度もこの言葉を聞いた。これも美的観点からばかりでなく、ローコスト化への意識と経験に裏付けられての言葉であったに相違ない。

 


2024年1月15日月曜日

 コラム356 <白井晟一の言葉② ── ローコストでなければ建築とは言えないよ ── > 


 ある時白井晟一は


  〝君、ローコストでなければ、建築とは言えないよ〟


と言われた。

 白井晟一の建築を知っている人達にはこれは意外な言葉に思われるかもしれない。しかし10年間歩みを共にした私にはよく判る。


 木造の小住宅においてすら白井晟一が設計する開口部は大きい。それにつれて建て込まれる建具寸法も大きくなる。例えば間口2間(約3.6m)の引違い開口部なら4枚の建具を入れて納めるのが通例である。ところが白井晟一はこれを2枚で納める。好みやバランス上のこともあったに違いないが白井晟一はこれをローコスト対策だと言うのである。確かに巾3尺(約90cm)の建具を4枚入れるより、巾6尺(約1.8m)の建具を2枚で納める方が安くなる。冷静に計算すれば建具金物、職人の制作手間も少なくなるし、加えてアミ戸、雨戸なども含め考えると総合的にはかなり安くなるのであるが、通常はこのようには考えない。通常ローコスト住宅(建築)という時には安価な住宅(建築) ─── 具体的には坪単価が安いものという風に受け取られているから、この話をすると、まわりからは

  〝白井先生のところでローコストはないでしょう!〟

などとよく言われたものである。事実坪単価にして見た場合、その時代の一般的な住宅より低いということはなかったに違いない。しかし質を上げればコストが高くなるのは当然のように思えるが、それをいかに創意工夫してローコスト化できるか──これも建築家としての力量の大事なひとつである、と言うのである。後に私が住まい塾を始めてから「真のローコスト化」と呼んでいたものは、後(のち)に気付いたことであるが白井晟一のコストに対する考えが根底にあったことは間違いない。






2024年1月8日月曜日

 コラム355 <白井晟一の言葉① ── 建築表現の中で最も難しいのは何か?> 


  研究所に居た10年間のうち後半は、私は白井晟一の自宅「虚白庵」に付属するアトリエに移ったから、白井晟一や照子夫人と直接話す機会が自然に増えた。その中で想い出に残っているいくつかをここに記しておこうと思う。


 ある日、リビングルームの大きなテーブルに座っていた時、白井晟一が私にこう聞かれた。


  〝建築表現の中で最も難しいのは何だと思うか?〟


私はすぐに返答できなくて黙していたら


  〝品だよ、品(品格と言われたかもしれない)〟

 

この言葉を私は生涯忘れない。確かに白井晟一と他の建築家達の設計との際立った違いは、この品格にあると思えたからである。

 それは建築表現について語られたものだったが、人間だって人格、風格、風貌(ぼう)等さまざまに表現するが、その中で最も出にくく、努力しても出るものでないのは、品、品性、品格といったものである。なぜならそれらは一人の人間の中でさまざまな要素が総合されて浸み出てくるものだからである。その場に及んで力んで見ても、努力してみても、こればっかりは出せるものではない。

 建築家なのだから美的感覚を磨くことも大事だが、品性となると、人間の精神を磨いてそれにふさわしい人間になる以外方法はないのである。品格のない人間が品格のある空間を生み出すなどということは絶対といっていい程無い、と私は思う。

 

 以来白井晟一が言われた言葉の中で、これは最も忘れ難い言葉のひとつとなった。

 






2024年1月1日月曜日

 コラム354 <白井晟一建築研究所での想い出 再び> 


 私が白井晟一研究所に居た10年間のうち、前半は通称「高山アトリエ」と呼ばれている木造平屋のアトリエの方に居た。白井晟一の設計には違いないのだが、それがどうして「高山アトリエ」と呼ばれるようになったかのいきさつについては、私は詳しく知らない。元は高山さんという画家の住居兼アトリエとして建てられたものだったらしいことまでは確かだ。事の事情を聞いたこともあるように思うが、関心が無かったから私の記憶に留(とど)まってはいない。


 そのアトリエは、切妻屋根がシンメトリーに両翼を広げたシンプルでのびやかな美しいシルエットの建物であった。全体の1/3程が住居になっていて、そこに白井晟一の長男彪介さん家族が住み、残りの広間と納戸のようなところを我々がアトリエとして使っていたのである。目白通りの一本裏手の道に面していたこともあって古い時計がゆったりと時を刻み、空間そのものの性質と相俟(あいま)って静寂であった。前庭にはめずらしく、かなり大きくなったオリーブの樹が生えていた。


 彪介さんの長男・原太君がまだ幼かったから、ドア一枚で通じているアトリエにしばしば入ってきて、彪介さんに〝仕事中には入ってきちゃいけません〟とおしかりを受けていたのが懐かしい。そんなことを言われてもわきまえの出来る年令でもなかったので、夫人が出掛けた時などは、ちょこちょこ出てくる。

 ある日彪介さんが〝ちょっと寝かせてきます〟と言って原太君を連れて自宅に入って行った。しばらくしたら、アレッ?原太君が一人でアトリエに入ってきた。

  〝お父さんはどうしたの?〟

  〝お父さんはおねんね・・・〟

子を寝かせつけている内に、自分が寝ついてしまったらしい。こんなユーモラスな出来事も懐かしく想い出される。

 

 彪介さんは情の篤(あつ)い人であったから皆に好かれた。原太君は〝おっちゃん〟〝おっちゃん〟と言って私によく懐(なつ)いてくれた。先日、訪ねてきてくれて約40年振りに再会したが、好青年に成長していた。彪介さんはかなり以前に父親の白井晟一とも私とも同じ脳出血で倒れ、長く闘病生活を続けながら仕事も続けられたようだが、その事実をかなりの年数が経ってから人づてに知ったので、不義理この上ないことをしたと悔やんでいる。その後亡くなられたことを原太君から聞いた。


 彪介夫人は長い看病生活で体調を崩されたようで、それでも電話では明るい声で〝おっちゃん⁉〟と呼んでくれたのが涙が出るほどうれしかった。色々な事情が重なって研究所とはしばらく疎遠になっていたからである。