2024年12月30日月曜日

 コラム406 <叱るついでに・・・> 


 先入観なのか怒る(おこる/いかる)よりも叱(しか)るの方がやわらかい印象がある。童謡に『叱られて』という歌があった。これが『怒られて』では童謡の感じが出ない。

 秋田に住んでいる姉は83才になった今も合唱団に所属しているというから、『叱られて』の歌詞を送ってもらった。


  1. 叱られて叱られて

   あの子は町までお使いに

   この子は坊やねんねしな

   夕べさみしい村はずれ

   コンときつねがなきゃせぬか

      (清水かつら作詞 弘田龍太郎作曲)


一番のみ記したが、大正9年作曲とある。同じ作曲家の『金魚の昼寝』の歌詞も添えられてきた。


  1.  赤いべべ着たかわいい金魚

   おめめさませばご馳走するぞ

  2. 赤い金魚はあぶくを一つ

   昼寝うとうと夢からさめた

       (鹿島鳴秋作詞 弘田龍太郎作曲)


ついでに私の好きな『ドングリコロコロ』の歌詞も書いておこう。


  1.どんぐりころころドンブリコ

   お池にはまってさあ大変

   どじょうが出て来てこんにちは

   坊ちゃん一緒に遊びましょう

  2.どんぐりころころよろこんで

   しばらく一緒に遊んだが

   やっぱりお山が恋しいと

   泣いてはどじょうをこまらせた

       (青木存義作詞 梁田貞作曲)





77才にして私でもいまだに口ずさめる。これを読んだだけでも人間の心の素朴ないい時代であったろうと思う。今の日本にはこんな純朴な歌が生まれる土壌も背景もない。

 現代には童謡というものがあるのかなあ・・・?


2024年12月23日月曜日

 コラム405 <子供叱るな来た道だ・・・> 


 〝子供叱るな来た道だ

   年寄り叱るな行く道だ〟


 誰でも知っている言葉かもしれないが、私自身はいつ、どこで、誰から聞いた言葉であったか覚えていない。それでも言葉だけはず~っと覚えている。全くその通りだ、と思ったからである。


 通りや駅のコンコースなどでしばしば見かけるのは、若い母親が幼子を激しく怒っている寒々とした光景である。手をグィッと引っ張ったり、〝置いていくわよ‼〟と怒鳴ったりして、子供はギャーギャーと泣き叫んでいる。置き去りにされるのは子供には怖(こわ)いことだからである。

 こんな怒り方をされながら育って、温かい情緒を持った人間に育っていくのだろうか。子供を怒る前に、すでに苛立っている親自身を怒らなければならない。日中子連れは母親が多いから、父親も家の中で同様なのかもしれないと思ったりする。子供を躾けることは大事なことだが、子供だけでは済まぬ世相である。親の躾は誰がするのだろうか。


 人間個々のあり方が世相を作るのであろうから、この苛立った日常の心はどこから来ているのかと考えなければならない。

 『論語』の中に「吾日(われひ)に吾が身を三省す」という言葉がある。曾子(そうし)の言葉のようだが日に三回反省する、というよりも我が身を省みて、たびたび反省するというような意味だろう。反省ばかりして実践に結びつかなければ意味がないというものだが。40年以上家づくりに携(たずさわ)わってきて感じるのは、住宅や住まいのあり方がこの苛立ちに与える影響の大きさである。小さくてもいいから、自分たちのフィーリングに合った住生活をつくり、それこそ自分達のフィーリングに合った住生活をつくり出すことである。この方が『論語』よりも楽しく取り組めるし、容易というものである。それさえ出来ないというのであれば、私にはもう何も言うことはありません。

  



2024年12月16日月曜日

 コラム404 <有井日出子さんの座右の銘> 


 古美術商 有井日出子さんとは古美術骨董品を通じて長い間交流させてもらった。私が脳出血で倒れるまでは、ほぼ毎月伺った。住まい塾の大阪本部は豊中市服部にあるし、有井さんは宝塚市の売布であったから、阪急宝塚線一本で30分程の距離というのも幸いした。

 美術館と古美術商との違いは美術的価値においてグレードの差こそあれ、一方は手に取って触って観ることができないのに対して、古美術骨董店では基本的に手に取って、その感触を確かめられるところが違う。ガラス越しに見るのと、手に取って観るのとでは大違いなのである。美術館で茶碗などの見込を見たく、頭をせり出し、大きなガラスに頭をぶつけてゴ~ンと会場内に音を鳴り響かせ、隅に座っている見張り番に睨(にら)まれたことは二度や三度ではない。有井さんのところは自宅兼であったから余計に気楽であった。

 

 一見世話好きの浪花のおばちゃんのように見えるが、私より一廻り以上年上であったし、戦中戦後を通り抜けた苦労人でもあったから気遣いも心配りも細やかであった。骨董・古美術品を見せてもらうだけでなく、人間的なことに関しても多く教えられた。そのひとつが有井さんが座右の銘にしているという次の言葉である。


 〝受けた恩は石に刻み、かけた情は水に流す〟


 人間関係も豊富であった有井さんは、これまでどれほどかけた情を水に流してきたことか。






2024年12月9日月曜日

 コラム403 <しなやかに、しなやかに・・・>


 頑固もしなやかに

  固いだけじゃあ頑迷だ


 筋を通すもしなやかに

  筋張っちゃあ煮ても焼いても食えないよ


 木造住宅も丈夫にとばかりに金物だらけにしちゃあおしまいだ。強靭(きょうじん)という中には必ずしなやかさが必要だ。精神と同(おんな)じだ。


 私は若い時分陸上競技に明け暮れたから、知っている。名選手の筋肉というのは驚く程しなやかだ。瞬発力の源はこの鍛えられたしなやかさにある。






2024年12月2日月曜日

 コラム402 <幸せは愚痴嫌い> 


 愚痴は幸せを遠ざける

 愚痴は幸運を遠ざける

 グチでいいのは魚だけ


 凡庸な人間曰く

 〝判っちゃいるけど止められない〟


 寅さん曰く

 〝それを言っちゃあ おしめえよ〟(8月の心寒い日に記す)







2024年11月25日月曜日

 コラム401 <私の文章について> 


 私の文章は十中八九、直感・インスピレーションによっている。私のこれまで書いた文章はブログ以外にも本や雑誌、新聞等を合わせると決して少なくない。しかし研究者や学者即ち専門家や哲学者や思想家のように、考えつめて書いたような、論理的な文章は殆(ほとん)ど無いと云っていい。


 なぜそうかと言えば、学者や研究者の書いた文に興趣(きょうしゅ)を感じたことがあまり無いということによる。あるいはいつ頃からか直感・インスピレーションの中にこそ自分らしさが表れると思うようになったからである。


 専門的な知識や研究の成果を扱う一群の人達は当然研究した幅の広さや知識の豊富さを披歴(ひれき)するものが多く、感心することもあるが、私はといえば、そういう方向に興味を感じない性格上の問題がある。


 私が読んできた本の中に哲学書や思想書よりはるかに宗教書や信仰書、民族学その他茶の湯を通じての日本人の道の心得や、実際に苦難の中を生きた人間の体験談や心の記録などが多いのはそのためであろうと思われる。


 器の美への興味なども別次元のことのように思われるが、あるいは直感やインスピレーションの範疇(はんちゅう)に入るのかもしれない。


 大学助手時代、早々に自分は学者や研究者には向かないことを悟った。自然に、心の趣(おもむ)くままに、自由勝手に、我がままに生きてきたと、今自分が歩んできた人生を振り返ってそう思う。





2024年11月18日月曜日

 コラム400 <金の滴・銀の滴> 


 ある日雨上がりに太陽が西に傾きかけた頃、樹間から橙色の光が一筋差し込んできた。葉先に残っていた無数の滴(しずく)が、まるでダイヤモンドのように一斉に輝き始めた。その光景を眺めながら私はすぐに知里幸恵さんが遺した『アイヌ神謡集』のあの一節を思い浮かべた。


 〝金の滴(しずく)降る降るまわりに・・・〟


 それから二週間程経ったある日、太陽が雲間から出たり入ったりして青空と白い雲が空を分け会っていた時、私はデッキに出て椅子に座って空を眺めていた。上方には白樺の小さな葉が風にそよいで揺れていた。そのうち風が少し強くなり木の葉が銀色に輝きはじめ、風と共にすべての葉がさざ波のように一斉に、銀色の葉に変わった。その時もあの一節が思い浮かんだ。

 

 〝銀の滴(しずく)降る降るまわりに・・・〟


 アイヌ人が目にし、その感動を言葉に残して言い伝えてきた光景と、私は今同じものを見ているのだと、思った。写真に残したかったが、無念にも左腕が動かない。しかしあの輝きの残像は、しっかりと脳裡(のうり)に刻まれた。(8月上旬記す)





2024年11月11日月曜日

 コラム399 <ボールペンはどこ?> 


 毎日使っているボールペンが見当たらなくなり、ヘルパーさんに買ってきてもらいました。ボールペンって、ボールのようにコロコロころがるからボールペン、って言うの?





2024年11月4日月曜日

コラム398 <ああせいこうせいと、云うばかりなり厚生省> 


 介護保険を利用するようになってから、もう6年になる。介護の世界で働く人達の不自由さと窮屈さを見たり聞いたりするようになって、改めなければならない点が数多くある、と思い始めた。

 それはケアマネージャーやヘルパーさん達の処遇改善の問題ばかりではない。


 ・行った先でトイレを借りてはいけない。(そんなもの、いつ急に催すかわからないではないか!)

 ・お茶やお菓子を出されても頂いてはならない。勿論、感謝の気持のものであっても、

  もらい物をしてはならない。

 ・たまには一緒に食事を・・・などということなど以(もっ)ての外。  (まるで教師の家庭訪問のようだな!)

 ・頼まれた買物は一旦その家に着いてから、改めて行く。(来る途中にスーパーマーケットやその他の店があるというのに、この無駄加減、時間の浪費!)

 ・少し時間が余ったからと汚れに気付いたガラス窓を拭くのもダメ。

 ・こうしたことにまつわる人間関係のもつれ。


等々・・・それと、ケアマネージャーと看護師さんの月一回の訪問の義務付けは少なくとも私には無意味・不要である。必要な人のところにだけ行けばいい。それでなくともケアマネージャーは多忙を極めているのだから・・・。

 しまりのない状態にならないように、一定の規則や基準を示すまではいいが、自由の余地も残しておかないと、やる方は窮屈でたまらない。時間が余ったからとやってやりたいこともあるのに、やれないのだから・・・気の利(き)く人にとっては特にそうだ。


 この窮屈な世界に嫌気がさして辞(や)めたヘルパーさんは沢山いるに違いない。私自身も幾人か知っている。それを国も国民の大方も、報酬の少なさが定着率の悪さの原因だとばかり思っている。

 そういう人もいるだろうが、元々介護の仕事につこうとする人は生活する上で困難な事情をかかえている人を手助けしたいと思って、この領域の職につく人が多いと私は感じる。人間関係他何かと難しい問題を抱(かか)えながらも、少ない報酬でがんばっている人が多いと私は思う。

 それをどういう人々がどういう形で審議し、出されているものやら厚生省からの細々とした指示・規則の中には、余計かつ不必要かつ異常と思われることが随分ある。

 最大の問題は審議委員の中に現場で実際に働いている人間が不在であることである。現場から離れた高位(少なくとも彼らはそう思っている)の人間達でものごとが決定され指示されていく、という点にある。だから現場の経験と生の声が反映されず、活かされない結果となるのである。

 そこで私が思い付いたのが、川柳くずれの上記タイトルである。


 〝ああせいこうせいと、云うばかりなり厚生省〟

 


 




 

 


2024年10月28日月曜日

 コラム397 <対立②> 


 約100年前、あるアイヌの少女が一冊の本を残して世を去りました。その名は知里幸恵(ちりゆきえ)、19才。本の名は『アイヌ神謡集』。文字を持たなかったアイヌの少女が一冊の本に仕立てるには大変な苦労だったでしょう。その本の始まりは次の一文で始まります。


 〝その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。〟


そして『神謡集』そのもののはじまりは次の文で始まります。


 〝銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに・・・〟


何と美しい言葉でしょう。


 日本の歴史を振り返るだけでも争いをしないという決心の元でなら、相互いに助け合って、相入れない考えだって学び合うことによって認め合うことができます。互いの世界観を学び合うことによって成長することができます。これまで地球上に送り出された人間の命はいか程になるのでしょう。それでもうり二つの人間は存在しないのです。

 この事実からしても違いに意味を見い出すことこそ、宇宙の意志に適うというものではないでしょうか?それを神の意志と呼ぼうが、自然の意志と呼ぼうが、仏の意志と呼ぼうが、違い故に対立するなど、その意志に全く叛(そむ)くことになるとは思いませんか?






2024年10月21日月曜日

 コラム396 <対立①> 


 神や仏が何であるかを言い争ってみて、何になるのですか?言い争ってみて明確に判るのですか?存在するのしないの、形があるの無いのと何千年、いやそれよりはるかに長い言い争いの歴史の中で神学者や仏教学者にそれが判ったのですか?そうした果てしない議論はよしましょう。


 宇宙を司る何か、エネルギーのような意志が遍在していることは確かなのですから・・・それで十分ではありませんか。その存在を信じるかどうかはその人の責任を伴う自由というものです。私は学んで、人と出会い、経験して信じるようになりましたが、宗教上の対立、信仰上の、果ては殺し合いにまで発展する果てしない対立程、宇宙と言ってもいい、自然と言ってもいい、その意志に背(そむ)くことは無いのではありませんか?


 民族の違いによる対立もそうです。その大きな意志によって、さまざまな民族が生まれ出たのですから・・・。大民族だろうが、少数民族だろうが、不要な民族などひとつもないのです。


 〝我々日本人は単一民族だ〟などと未だ平気で主張する人々がいます。しかし我々は日本の先住民族アイヌを抑圧し、差別し、同化政策によって言葉を失わしめ、和名に変えさせたた歴史を背負っています。西へ北へと追いやったのです。

 長い間アイヌ問題に取り組んでこられた北海道新聞の深尾加那さんと一緒にアイヌの家族に招かれた夕食の席で、少し酒がまわり始めた頃、私は〝我々日本人は〟と言いかけた途端、その家の長に〝あなた方は日本人ではない。本当の日本人は我々で、あなた方は(我々を侵略した)和人である〟と面と向かって言われたことがあります。





2024年10月14日月曜日

 コラム395 <医師は何を診るか:『医者ともあろうものが』現代版> 


 最近の医師は病を見て、人を見ない。

 最近の医師はパソコンを見て、人を見ない。


 これなど最初の頃は〝おいおい、患者はこっちだよ!〟と言いたくなったものだが、最近はどこでもそうだからもう慣れっこになって、何とも感じなくなった。それでも時々人の話題に登るところをみると、まだ違和感を感じている人は私をはじめ少なくないということなのだろう。


 整形外科に行く場合はどこかが痛くて行く場合が多いだろうが、医師は検査をレントゲン・CT・MRIなどの機械にまかせて出てきた画像を見て、人を見ることもなく、身体に触るでもなく、画像に特別問題が無ければ、薬を出して終わりだ。少なくとも私は整形外科で医師に触れられたことが無い。先端医療技術が問題だというのではない。相手は患者という一人一人違った人間なのだということが見逃されているところが問題だと思うのだ。


 医療の技術的進歩は誰も疑わないだろう。現代のこのような傾向で失われたものはないのか、と私のようなタイプの人間は疑念を持つ。

 私の親しかった名棟梁は足場に胸を打って、ついでに診てもらったら小さなガンが見つかった。まだまだ現役バリバリの棟梁だったが、手術時どこかの神経を切ってしまったらしく、生涯仕事が出来なくなった。その後も月一度の我々の勉強会や見学会には必ずと言っていい程出席し、あれ程好きだった酒も一滴も飲まずに、復帰を念ったがついにその夢はかなわずに亡くなった。医師がこの人が名棟梁だと知っていたら手術のやり方も違っていたかもしれない。失われたものは人間らしさ、人間っぽさ、人間を観る眼だ。


 昔懐かしく思われる胸やお腹に手を当てて甲をトントンやるあれは何だったのか。聴診器を首から下げているお医者さんに出会うと未だにホッとする。当ててくれたりすると私の身体を看てくれているようでうれしい気分になる。患者の目や顔の色艶、表情から読み取れるものはないのか。そうしたものに、病は表れないものだろうか?

 

 いかに高度な検査機械の時代となっても、生前何度かお会いしたことのある見川鯛山先生のような町医者は、もう出番がないのだろうか。時々はああいう人間っぽいお医者さんにいて欲しいものだと思われる。

 

 そもそも患者を看るの「看」という字は手と目で成り立っているではないか。そんなことは気のせいだ、と言う人がいるかもしれない。しかし、私のように体が不自由になった身にはこの「気」こそが殊の外大切なのだ。

 人間はいずれ必ず死を迎えることを考えれば、人間的な医師の元で、人間的な医療を受けて死期を迎えたいものだと思う。それが今回のタイトルを『医者ともあろうものが』現代版とした理由である。








2024年10月7日月曜日

 コラム394 <見川鯛山作『医者ともあろうものが』> 


 学生時代、見川鯛山氏作の『医者ともあろうものが』を読みながら笑いが止まらなくなり、途中で電車から飛び出したことがある。そのあともNHKのテレビ番組で森繁久彌氏による朗読がなされた。これがまた相性がぴったりで、後に世界文化社から録音テープが発売された。まわりの録音エンジニア達も笑いを抑えきれなかったらしく、その様子さえ録音されている。自然描写の見事さといい、人生のおかしみの表現の巧みさといい、これ以来、私にとって忘れられない一冊になった。


 それから15年程経って、私は住まい塾運動をスタートした。ある日、中年の女性が本部を訪ねて来られた。出身は那須高原の湯元温泉だという。見川鯛山氏も那須湯元温泉で開業医をしていたはずだから、私はすかさず聞いた。


 〝湯元温泉には面白い作家のお医者さんがいるでしょう?見川鯛山さんという・・・〟


その女性は即座に答えた。


 〝います、います、ヘンな人がね・・・それ、私の父です〟


さすがに私もびっくりした。縁というのは不思議なものだ。以来、見川氏の長女家族と次女家族の二軒の家を住まい塾で設計することになった。

 当然見川鯛山氏にも幾度かお会いする機会に恵まれた。だいぶ古民家が御好きなようで、設計着手前から大きな蔵戸や、もらい受ける古民家が決まっていて、実測に伺ったり、この大戸をどこに有効に使おうかと頭をひねったりして想い出深い、楽しい仕事となった。


 本の内容から想像する作家像とは大分違って、本人はいたってまじめで実直かつ几帳面な方なのだろう。10冊程の自作の著書すべてにきっちりとサインして私に下さった。

 今もどこかの文庫に収まっているかもしれないし(一時期はたしか集英社文庫に収められていた)新本が手に入らなかったらぜひ中古本でも探して読まれるといい。この暗い時代にユーモアたっぷりの平和な傑作集を遺(のこ)してくれて、見川先生、ありがとう!と今でも思っている。






2024年9月30日月曜日

 コラム393 <山梨県北杜市の太陽光発電に物申す Ⅱ > 


 土台我々の現在の文明生活を改めることなくこのまま続けて地球環境改善を実現することは無理だということだ。やれることはやった方がいいに決まっているが、いかな技術革新を進めても、いかに電気自動車を大量生産し、現在の主流・ガソリン車を転換したとしても同じ問題がつきまとう。蓄電池には、多くのレアメタルが必要だ。産出国も限られている。我々の見えないその陰では、レアメタルの奪い合いによって広大な環境が破壊されているだろう。原子力発電は巨大な発電力を誇るし、CO2の排出も少ないなどと言う人達がいるが、ウラン採掘のためにどれだけの人間が犠牲になっているか、また自然環境の破壊、チェルノブイリや福島原発で経験したように巨大な危険が常についてまわることに違いはない。


 世界のあちこちには巨大な砂漠が存在する。その多くは元々砂漠だった訳ではなく、緑を失って保水力を失い砂漠化していったのだという。この事実を我々は身に迫った問題として真剣に知るべきなのだ。


 地球の保有する地下水も年々その総量を減らしているという。経済のあり方、産業のあり方、我々の生活のあり方を大きく方向転換しなければ、いかにジタバタしても地球は破滅、滅亡に向かう流れをくい止めることはできないことは目に見えている。


 地球上の食糧生産量も人類の食糧必要量をはるかに下回って、人類の食糧自給が困難を迎える日がやがて来ると叫ばれている。既に地球上のさまざまな事象がそれを示しているのに、文明国はそれを気にもとめずに、のうのうと今までの生活を改めようともしない。未だ(いまだ)にどこか遠いところの他人事だ。

 破滅は徐々にやって来るのではなく、急激に、突然やってくるものだということを我々は知りたくはないだろうが、長い歴史が物語っているのだから知らなければならない。知らざるを得ない時を必ずや迎えることになるのだから・・・。


 私の住む茅野市の八ヶ岳西麓玉川、泉野地区でも森の大量伐採、太陽光発電の計画が進められている。さすがに住民達の反対にあって、道路の片側エリアだけは太陽光パネルがすでに設置済みだが、もう片側のエリアは大量の樹木が伐採されたまま放置状態になっている。今や暑い時期には別天地とも呼ばれる地帯においてすら無自覚にも北杜市と同じ過ちを重ねようとしている。(2024年8月初旬に記す。写真は後日撮影予定。


2024年9月23日月曜日

 コラム392 <敬老の日> 


   敬老日 親はパートで子は休み、

   

   これも世相の反映か

        

          (2024.9.16 敬老の日に記す)





2024年9月16日月曜日

コラム391 <山梨県北杜市の太陽光発電に物申す Ⅰ > 


 山梨県北杜(ほくと)市は清里・小渕沢を含む八ヶ岳東南麓5町3村が合併した比較的新しい市だ。標高が高く、緑豊かな美しいエリアだ。市長は自然エネルギー(と云っても太陽光発電のことだが)推進を政治公約に掲げて当選し、正確には知らないが、もう何期目かを迎えている。

 自然エネルギー推進は時流にも適って、その方針に異を唱(とな)えるものではないが、その後の姿を見ていると、あちこちで山林が大規模に伐採され、広大な森林を失わしめて、太陽光パネルによって豊かな自然環境に傷を残し続けている。

 この自然環境破壊のみならず、景観破壊に反対する市民も多いと聞くが、自由主義経済の元では民間のプロジェクト申請を退ける術(すべ)を持たないのだろう。やろうと思えば条例などで規制するなどいくらでも可能なのだが、何せ市の方針が推進ときているのだから規制などする訳が無い。

 自然エネルギーと云えば聞こえはいいが、森林を広大に皆伐しての太陽光発電パネルの設置には、私も大いに疑問を持つ。疑問どころではない、SDGs対策を総合的に考えての判断かと、この本末転倒の施策には憤りすら感じる。樹々の果たす役割にはCO2の吸収や酸素の供給ばかりでなく、気温に果たす役割もきわめて大きいからである。

 私の山小屋は標高1600メートル付近にあるから、涼しいのは当然だと皆思っているだろう。しかしそうではない。同じ別荘地内でも樹々を皆伐した区画などに入ると気温が急上昇する。標高1100メートル~1200メートル位に開発された大きなマーケット、さらには1000メートル地帯の街まで下がると、もう都会と変わらぬ猛烈な暑さだ。これは7年程前に、一人で実測して歩いて実証済みだ。その結果はコラム103 (2017年8月21日)に載せてあるが、私の山小屋の室温が窓を閉めた状態で24度の時、街は36~7度にも達していた。考えてみれば都市に限らず街というのは、表現を変えれば元々あった緑を人間達がすっかり無くしてしまった地帯だと言える。

 このような例を待つまでもなく、大規模な森の消失は地域気温の急激な上昇をもたらす。のみならず、太陽光パネルの製造にも、設置工事にも、はたまた寿命が来て廃棄時期が来たらこの処分にも大量のエネルギーを消費するだろう。設置されたあるところでは周辺の人々はもう住めないとまで言っていた。北杜市の最大の魅力、宝は何であるのかを市長をはじめもっと総合的に見つめ直してもらいたいものだ。(2024年8月初旬に記す)




2024年9月9日月曜日

 コラム390 <若い時分からの私の人生目標②> 


 これも私の学生の頃か白井研究所に入りたての頃に思ったことだ。その頃は吉野屋の牛丼が大はやりで、よく食べた。その思ったことというのも妙なことだ。


 〝将来えらくなって吉野屋に入るのに抵抗を感じるようになったら、私の人生は終わりだ!〟


というものだった。新橋駅前の吉野屋に入った時に思ったことだった。だからという訳ではないが、今でも時々食べる。当時のことが想い出されて懐かしくなる、というよりも単純にうまいからだ。住まい塾を始めた頃、縁のあった高級料亭で、高級ブランド牛のスライス肉がのせられた牛丼ランチ(当時の値段で一杯1800円か2000円だったと記憶している)をご馳走になったことがあったが、やっぱり牛丼は、クズ肉のようなもので作られたものの方がうまい。今でもそう思う。


 人生目標という程の大げさなことではないが、若い時には若い時なりにおもしろいことを本気で思うものだ。そこに自分らしい大事な種が隠されているかもしれない。