2022年10月31日月曜日

 コラム293 <本好きについて>

 読みたい本は山程ある。 

 しかし読める本には限りがある。

 読みたい本を心の趣(おもむ)くままに買い求めていると、あふれんばかりの量になる。

 それが今の私の結果である。


 だが、身体が不自由となっては、半地下の書庫にも、中二階のロフトにも取りに行けない。

 よく、読めるだけ買えばいいじゃないか、と言う人がいるがそんな理性的な考えどうりにはいかない。特にエネルギ―がある時には、古美術・骨董などに魅かれていくのに似て、そんな整然とした合理的理性などどこかにけし飛んで、情熱の方がはるかに勝(まさ)ってしまうのである。


 書物は量読めばいいというものでは決してない。それよりも価値ある本を、間を置いて幾度も読み返してみる方がどれ程身に沁みて益になるかしれない。

 そうは判っているが、私の書斎は本であふれ返った。〝どうにも止まらない~♪〟という歌が流行したことがあったが、あれである。「向学心」と云えば聞こえはいいが、それよりも「向読心」の為せることと思って諦めるしかない。単なる本好きじゃないか、と言われても致し方ない。本好きとはそういうものである。




 読み切れない本を前に、それを眺めながら出版界に多少の貢献が出来たか、と自らを慰めている。

 しかしそんな中から、今読みたい本を探して集中的に読む、というのも買ってすぐ読むのとは違ってちょっといい気分のものだ。本が書棚で熟成する訳はないが、こちらの人間が多少熟成して、年月を経たブランデーを飲む気分になるからである。


2022年10月24日月曜日

 コラム292 <自分の本分を全うする努力こそ・・・>


 一を言われて一を為す者───これを指示待ち人間と云う。初期のロボットの如き人間なり。

 一を言われて二、三を為す者───これを一流に向かう人間と云う。知らず知らずのうちに成長するからである。

 一を言われて二、三はおろか一をも為さぬ者───これを、打てど響かぬ鐘の如き人間なりと云う。やがて打ち捨てられてしまうであろうからである。

 

 言われずとも自ら為す者───これを一流という。真に成長するからである。

 言われてはじめて為す者───これを二流という。なかなか身につかぬからである。

 幾度言われても為さぬ者───これを三流という。流されてゆくだけだからである。


 この類のことはこれまでさまざまな場面で言われてきた。しかし人はさまざま。一流ばかりともいかず、三流ばかりともいかない。野に咲く花の如く、自らの本分を全(まっと)うしてみんな力を合わせてこそ、一人一人が理想社会の礎(いしずえ)になる、と考える方が自然である。しかし自分らしく咲くためには不断の努力がいる。不断の努力を怠りながら自分らしくありたい、とだけ望んでいるのは、虫が良すぎるというものである。





2022年10月17日月曜日

 コラム291 <生(しょう)を愛すべし>


 〝生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや〟

 『徒然草』第九十三段にある言葉である。

 今日一日の存命を喜んで過ごそうが、悲しんで過ごそうが、自然は同じように時を刻み、一日一日が過ぎてゆく。

 そんな刹那(せつな)の人生をいかに生きていくべきか、倒れてからのこの5年近くを、自らに問いながら生きてきた。あまりに多くの人の世話にならなければ、不自由な身体は生活していけないからである。

 答えを求めているのではない。感じる手掛かりを求めながら歩み続けている、と言った方がいいかもしれない。


 上掲の『徒然草』の文の枕には〝人、死を憎まば・・・〟とあるのだが、憎む前に存命を悲しんでいては、その人の生はすでに死んでいると言っていい。高齢化社会というだけでなく、病に沈んで生きる意欲を失っている人や、先に何ら希望を見い出せぬまま一日一日の朝を迎えている人々は、辛く悲しいことだが日々に死を重ねるのである。

 

 喜びと感謝は同じコインの裏表。ちょっとしたことで表情にサ~ッと光が差すのを入院生活中に幾度も目にしてきた。言葉を交わすことで、一人でないことを知るのかもしれない。生(しょう)・老・病・死を人間の四苦と呼んだりするが、生のみが喜びの対象で、死は悲しみの対象だというのでは人生の辻褄が合わない。これらはどう見ても一体のものだからである。そのように心得て、一日一日の存命としっかり向き合っていこうと思う。




2022年10月10日月曜日

 コラム290 <〝先生(センセイ)〟その②──今は世の中先生(センセイ)だらけ>

 学校の先生、お医者さんはともかく、作家も工芸家、弁護士、建築士、税理士、会計士まで今は皆先生だ。これに小ぶりの政治家達も仲間入りして、人間の薄い者が大半だから、〝センセイ〟と呼ばれて炙(あぶ)られたスルメのようにそっくり返っている者の何と多いことか。若いうちからセンセイと呼ばれてうれしがっているのは若年性認知症だが、過日ショートステイで世話になった「老健(正式名称は「老人保健施設」)でも〝センセイ〟と呼ばれているうちは機嫌がいいが、〇〇さん、▢▢さんと名前で呼ばれでもすると途端に機嫌が悪くなる人がいると聞いて、若年性認知症のまま老人になったんだな、と思った。


 
 本気かどうかは知らないが、この私だって時々先生と呼ばれることがある。本を書いたり、文を書いたりしているからだろうが、かといっていちいち〝先生と呼ばないで・・・〟などと言うのもどこか白(しら)っ茶けた感じで、後味がよくない。

 私の友人の画家に〝先生〟と呼ばれると怒り出す人がいる。〝センセイ〟などと呼ばれていい気になっている世の中の画家たちが余程癪(しゃく)にさわっているのだろう。画家と呼ばれる位はいいだろうと思うが、本人は〝俺は絵描きだ〟と言ってきかない。これは本気である。一度、先生、先生と二度呼ばれて、ケンカになりかけたことがある位だ。止(や)めてと言ったのに、又呼んだからである。


 一方、私の書いた本や住まい塾の特集雑誌などを見て共感し、スタッフになった者もいる。来た当初は〝先生〟などと呼んでいたのに、〝そのセンセイは止めた方がいい〟と言った途端、即〝センセイ〟は引っ込めて〝タカハシさん〟となったのには、これまた一抹の寂しさを感じるものである。が、やはり心底そう思うのならともかく、〝やたらセンセイ〟はやめた方がいいと思う。


 ある司法書士事務所に〝〇〇さんいらっしゃいますか?〟と電話したら所員が〝あの~、センセイですか?〟には参った。〝所長ですか?〟位ならまだしも、この常識っぱずれめ!──最近はこんな具合である。


2022年10月3日月曜日

 コラム289 <〝先生(センセイ)〟その①──瀬戸内寂聴さんのインタビュー番組を見て>

 

 確かNHK番組だったと思うが、入院中に病室で見たのである。インタビュアが最初から最後まで寂聴さんを、〝センセイは・・・〟〝先生は・・・〟と頻繁に呼ぶ。あれほど頻繁に使われると、〝先生(センセイ)〟もいやな響きがしてくる。

 聞いているうちに

 〝センセイ(先生)って言葉、いやだねえ・・・〟と感じられてきた。


 いい響きの時もあるけれど、何ともいやな響きに聞こえる時がある。これは寂聴さんが先生と呼ばれるにふさわしい人かどうかとは、ほとんど関係が無いように思われる。これは単に〝過ぎたるは云々〟の問題なのか。


 インタビューしている人は寂聴さんを尊敬しているに違いないのだけれど、これはいったい何なのだろうと考えさせられた。

 〝センセイ〟が世に多くなりすぎたせいなのか。媚(こ)びた響きの時もあれば、極めて自然に響く時もある。でもやはり、やたらに〝先生〟〝センセイ〟と呼ぶのは、いやだねえ。

 私は直接寂聴さんにお会いしたことはないけれど、仮にそういう機会に恵まれていたなら、〝瀬戸内さん〟より〝寂聴さん〟と呼んでいただろうな、と思う。それが一番よく似合うし、自然に感じられるからである。


 特に初対面の時など、どう呼ぼうかと考える場合がある。迷ったその時点ですでに、この先生(センセイ)はいやな性質を帯びた言葉になるのだろうと思う。水の流れの如く、であればまだいいけれど、姓でもいいし名でもいい、〝〇〇さん〟これが一番いい。最も自然だし、飾り気がなくていい。第一余計なことを考えなくていいところがいい。

 


 因み(ちなみ)に私は人からどう呼ばれているかといえば、小さい時はよっぽどかわいかったらしく、

 きょうだい、親戚からは75才になった今でも〝修(しゅう)ちゃん〟

 真心の知れた親しい人からは〝修(しゅう)さん〟

 最も多いのはやはり〝高橋さん〟かな。

 〝先生〟と呼ばれる時もあるにはあるけれど、それでも違和感を覚える時もあれば、そうでない時もある。この違和感は真情と関係していることと思う。

 

 どう呼ばれようと大した問題ではないけれど、素直な心で、自然に呼び合うのがやはり一番だ。気楽だしね。