2016年4月25日月曜日


コラム 34 <定期健診> 

今年も町から「定期健診」の知らせが届いた。恵まれた世の中になったものだ。
だが、私はこの健診をこれまで一度も受けたことがない。その必要を感じないからである。そんなことを言っているから突然大病を患って他人に迷惑をかけることになるんだ・・・・・などと脅す人もいるが、それでも私はめげない。いずれ死ぬことは判っているし、それに定期健診を受けたところで、その分他人への迷惑を減ずる保証などどこにも無い。それでなくてもこれまでどれ程他人に迷惑をかけて生きてきたか位の多少の自覚は私にはある。人の御蔭を蒙ってきたと言い換えてもいい。
もっと大きな自然界から見れば、人間の存在そのものが傍迷惑だってこともある。公害、原発、自然破壊――自ら破滅に追い込みながら生物多様性の問題などを討議している。人間とは勝手なものだ。まるで一部の人はゴミを捨て、一部の人はゴミを拾っているようなものではないか。 

定期健診をうっかり定期点検と書くところだった。
ほとんどの人が長生きしたいと思うのだろう、この定期健診も人間ドッグも、思えば肉体のことばかりである。肉体の健康はたしかに大事には違いないが、今日最も重要かつ重大事なのは心の健康の方である。こう考えれば、定期健診で診てくれるお医者さんも同様の問題をかかえていることになる。 

 
信仰を持つ者が少なくなったから大騒ぎにはならないが、死後も永遠に残り、生き続けるのは魂ばかりであることを思えば、心の不健康は重大事なのである。〝私は信ずる〟とか〝信じない〟とか言っても宇宙の原則・真理はひとつであるから、死後の世界が無いならいいがあったらどうするのか?
「心」とは「魂」を動かす中心部分を指すというが、定義はともかくも人間であることから次第次第に離れていく印象を受ける現代人は、肉体の健康以上に心の健康というものにも関心を向ける必要があるのではないか。
有限である肉体の健診と、無限であるかもしれない心の健診と・・・・・。この行き過ぎた物質社会の中でいかに成功をおさめても、地獄行きの人の何と多いことかを思えばなおさらである。

2016年4月18日月曜日


コラム 33 <人の道 その① 

今はインターネットで何でも買えるような時代になった。便利な時代になったものである。本も本屋さんに行かずとも、CDもレコード屋さんに行かずとも、中古品も品切・絶版品も、安いものを居ながらにさがすことができる。 

私には決めていることがある。一例を挙げよう。小学館愛読者係(以下S社)から定期的にりっぱなパンフレットと共に書物等の案内が送られてくる。その中に欲しい本が見つかった時、いい情報をくれてありがとう・・・・・でも買うのはもっと安い別のルートで・・・・・とするかどうかという問題だ。品切や絶版ならば致し方ないが、見るところ今こういうことが平気な時代になっている。私にはこうした姿は人の道・節操の問題に見えてくる。

以前<The CD Club>というものがあった。会員には毎月、新譜や推薦盤の紹介、他さまざまな特集記事が組まれた冊子が送られてきて、なかなか楽しい内容のものだった。
この冊子製作には云うまでもなく労力と時間とお金がかかっているのだが、送られた方は〝いい情報をありがとうよ!〟とばかりに買うのは他のネット等で、という人が急激に増えていったようで、プログラムに少々手を加えてはクラブオリジナル企画盤などを出して対抗策を講じたが、こうした趨勢には勝てずまもなく幕を閉じた。 

どうして経済的に成り立つのか、その仕組がよく判らないのが無料でダウンロード出来るあの世界だ。製作する方は売り上げも収入もがた落ちと聞くから、音源があるうちはいいがそのうちアホらしくて皆手を引いてしまうのではないか。手を引いてしまったら音源をつくる人がいなくなる。そうなるとこの世界はどういうことになるのだろう?
この仕組が判らないのは私ばかりではないようだ。尋ねても明確に答えられる人はほとんどいない。聴く方はそれでいいかもしれないが、製作する方はたまらない。余程好きでやっている人ならともかく〝これじゃあアホらしくてやっていられない〟とやるせない心境になるのはごく自然なことである。 

秋田市内に後藤酒店という老舗の酒屋がある。自分の足と舌で確かめて普通にはなかなか手に入らない地酒にその評を添えて情報を送ってくれる。だがその情報がすぐにネットに流れて、後藤さん本人は苦境に立たされることになるらしい。酒蔵は売れればそれでいい、飲む人も安く買えればそれでいい、というのならともかく、何か見えないところで人間関係が、人の人たる道が崩れていく。 

このように思うから、私はそこで案内されたものはそこで買うのを私の原則にしている。人のつながりだって楽しいではないか。人の関係もなしに、安けりゃいいってものでもない。
 
今回も戦さのことを考えている内に、だいぶ前のS社の案内に戦争の歴史に関する本があったな、と思い出して保存してあったパンフレットを捜し出した。『戦争の世界史大図鑑』――発行元は河出書房新社であるから小学館とは関係が無い(こんな連携事業をしないと、出版社はなかなか成り立ちにくい時代になっているのだろう)。5年も前の案内だ。もう扱っていないかもしれないと思いつつ電話を入れてみた。まだ入手可能だという。私はすぐにS社に注文した。
アホクサッ!という人があるかもしれない。もう中古市場にも出ているであろうし、もっと安く買えるルートだってあるだろう。しかし私はS社愛読者係が案内してくれたことでこの本を知ったのだ。相手が期待もしていない義理でもあろうが、相手がそのことを知って快く感じることは人の道に適っていると私は思うのである。

2016年4月11日月曜日


コラム 32 <音楽と人との出会い>  

一口にいい音楽と云っても聴く状況により違ってくるのは当然である。一人で聴く場合と大勢の場合とでは異なるし、二人・三人の場合でも相手によってまた違ってくる。
その点、自分一人で聴く場合には自分の気分・好み・感覚に素直に従えばいいのであって、その分選択の巾も自由で広いように思われる。
だが人と出会って自分だけでは知り得なかった分野の音楽に出会うことがある。こうした経験は貴重なものであって私などこれまでどれ程その恩恵に浴してきたか判らない。

振り返れば白井晟一研究所にいた10年間はバロックからクラシックが専門であったし、それまでも聴いてはいたが、住まい塾を現在の志木市に移してからはジャズ喫茶BUNCA(バンカ)の影響が大きく専らJAZZ浸しとなった。
座間こどもの家保育園の園長小島良之さんは私とは全く違う分野の音楽にも興味を持っていて、アルヴォ・ペルト〈Arvo Pärt〉やキムカシュカシャン〈Kim KashKashian〉の音楽など、小島さんとの出会いがなければ生涯聴くことも出会うこともなかっただろう。
特にアルヴォ・ペルトの音楽との出会いは、小むずかしいばかりでさっぱり胸に響かないといった現代音楽への偏見から抜け出ることを助けた。この作曲家を通じて現代には現代にしか生まれ得ない音楽世界があることを知った。
エストニア生まれというアルヴォ・ペルト。私が最初に紹介されたのは『タブラ・ラサ(TABURARASA)』というアルバムであった。この演奏にはギドンクレーメル(vn)とキース・ジャレット(pf) が参加している。
 
 
久々に聴いた。
アルヴォ・ペルトの『タブラ・ラサ』
キムカシュカシャン(ヴィオラ) 演奏の『ユリシーズの瞳』『エレジー』
やはりいい。いずれも小島さんが最初に聴かせてくれた音楽だ。

2016年4月4日月曜日


コラム 31 <ヒーちゃんの巣づくり> 

ヒーちゃんの巣づくりが始まった。ヒーちゃんとはこの辺で見られる最も小さな野鳥・ヒガラのことである。体長(クチばしの先から尾羽の先まで)11センチ。しばしば冠羽を立ててさえずる姿がなんともかわいらしい。
 
 

希望に満ちたさえずりである
 
厳しい冬を越えたうれしそうな声である
 
近くに来てあいさつする目も輝いている