2022年1月31日月曜日

 コラム254 <勝蔵叔父の想い出———③>

 近藤家の茶の間にはガラスの扉越しに何丁もの鉄砲が常に立て掛けられていた。時には熊を仕止めたといって、さばくところまでは見たことはないが熊の皮が広げられていることもあった。
 闘鶏用のシャモを飼っていることもあった。叔父は鉄砲の名手だったらしく、キジやヤマドリその他の剥製(はくせい)も珍しくなかった。

  山菜(ワラビやゼンマイ)採りにも度々連れていってくれた。叔父の長男である従兄弟(いとこ)と一緒に行っても、踏んだ場数(ばかず)が違って私の収穫量は彼の半分にも満たなかった。そんな環境の中、私は自然に茸(きのこ)狩りが好きになり、一人で野超え、山越え、奥山まで行って、山中帰り道に迷わぬように赤い布切れを腰にぶら下げて、時々枝に結びつけながら進んだりする知恵も叔父から教わった。

脳出血で歩くのが不自由になるまで私は、毎年秋になると山中生活中は茸狩りに忙しかった。箱にクッション代わりに熊笹の緑の葉をふんわりと敷きつめ、その間に山採りの茸を美しく詰めて、親しい人に送ったり、土産にしたりするのも楽しみのひとつだった。
茸は図鑑などを見ても食毒不明のものが多い。だから疑わしきは食べてみるしかない。そんなことだからこれまで5回程毒キノコに当っている。猛毒と疑わしきは食べないから生命に別状はない。
 ベテラン茸採りに言わせると、〝昔はそんな気の利いた図鑑などは無かったから皆、そうして食毒を覚えていったもんだ。一回は必ず食える〟などと呑気なことを言うのだった。 

 かつて住まい塾で家を作り、その後も交流の深かったOさんは、ある日『信州毒きのこ百選』という図鑑本を送ってくれた。それには〝高橋さんには必要ないと思われますが……〟と添え書きがしてあった。こうした楽しい連がりも元を辿れば勝蔵叔父に行き着くのである。



2022年1月24日月曜日

 

コラム253 <勝蔵叔父の想い出———②>

 

 私は近藤家の勝蔵叔父が大好きであった。
 冬山に鉄砲撃ちに連れていってもらったり、闘犬(土佐犬)の試合に幾度か連れて行ってもらったりした。横綱クラスともなると、耳を喰いちぎられそうになっても鳴かぬものだった。勝敗にどんな基準があるのか詳しくは知らないが、かまれて〝キャ~ン〟などと声を出したら一声で勝負ありだった。うなり声はよかったようだが、負け声というものがあるのだろう。迫力があった。
 闘いに慣れていない若い犬などは、闘場となる檻(おり)に放たれて、相手との差があり過ぎてこれは勝ち目がないとわかった瞬間に、飼い主はタオルを投げ入れて両犬をすぐ引き離すのだった。
 最初はなぜもっと闘わせないのか、もっとやらせればいいのに、と不思議に思われたが、まだ若くて力が無い状態で、徹底的にやられてしまうと、負けぐせがついて、強くなれないのだという。だから力の近い犬と闘わせて徐々に力をつけていくのだといったようなことも勝蔵叔父に教わった。 

 近藤家には土佐犬がいることもあった。
 今でも忘れられないのは土佐犬を散歩させている途中で、普通の犬と違い、リードを引っ張って〝おい、そっちじゃない、こっちだ!〟などとやっていると犬は強くならないとも聞いた。人間が犬を自分の意志に従わせながらではなく、犬の行きたい方へ、犬の意志に人間が従っていくように散歩しなければ強い犬に育っていかないというのだ。
当時は〝へェ~〟と思って聞いていたが、今にして思えば男の子と親の関係にも似て、教育ママ風に親の意に添わせようと躍起(やっき)になって育てていると、男の子は強く育たないということに通じるのではないかと思ったりする。
 最近一体に男が弱くなっている印象があるのは、勝蔵叔父のあの教えと関係があるのではないかと思うようになった。

犬と人間とは違うとは言っても、動物として共通する原理というものもあるだろう。

2022年1月17日月曜日

 

コラム252 <勝蔵叔父の想い出———①>

 

 私の父方は高橋家、母方は近藤家という。
 高橋家の方は先祖に日本画家や寺社建築の彫り師などがいて、その作品は少ないながら今も遺っているが、私が生まれた頃には本家は写真館であった。
 父の兄に当たる本家の伯父と私の父とがその写真館を営んでいた。加えて本家の伯母と私の母はとても仲のよい姉妹であった。常に弟子と女中さんがいて、皆仲がよかった。小学校3年の時に父が独立して隣り町に写真館を作ったから、私も同時に転居・転校しているが、その頃本家に居たお弟子さんや女中さんのことは親しみをもって今でもよく覚えている。その後の交流も親密であったからなのであろう。
 今振り返れば高橋家の方は概して知性的な人が多く、世にいう優秀な人が多かったように思う。

   一方、近藤家の方は高橋家とはだいぶ毛色が違って、極めて個性派、野生派揃いであって、家督は長男へ、とすんなりとはいかなかったようで、一番年下の勝蔵叔父が家督を継いだ。

 その叔父は酒の一升瓶を空にしてそれを枕にしないと眠れないんだなどと言っていたことがあった。真偽のほどは判らないが、豪快な酒飲みであったことは間違いない。しかも酒に強かった。50才位のことであったろうか。さすがに内蔵をあちこちいためてドクターストップがかかったが、酒をやめて長生きなどしても無駄だとばかりに酒を飲み続けて、長生きした。

高橋家も近藤家も共に本家は秋田県湯沢市内にあって、両家はそう遠くない。それ故私はどちらの家にもよく遊びに行き、いとこ達ともまるで実のきょうだいのようにして育った。おじやおば達にもかわいがられ、かなりの年令に達するまで親戚における私の呼ばれ方は〝修坊〟〝修ちゃん〟であった。

 姉たちも親戚も74才になった今も未だにそう呼ぶ人が多い。小さい頃はこの私も余程かわいかったのであろう。きっとその残像が、今もそう呼ばせているのである。



2022年1月10日月曜日

 コラム251 <ダライラマ十四世の人気の秘密>

    〝大きくなった家  小さくなった家族
    高まった利便性  なくなったゆとり
    増えた薬     損なわれた健康
    伸びた利益    薄まった絆
    これが私たちの時代だ〟
            ———ダライラマ十四世:「現代の矛盾」より———

  大きな社会問題を軽々と言葉にして、しかもどこかユーモラスだ。ユーモアとは心の余裕である。この辺がダライラマ十四世の人気の秘密なのだろう。
 併せて、あの人懐(ひとなつ)っこい風貌は私だって親しくなれそうな印象だ。
 個人的にはもうすでに亡くなられたが、職人の粋というものを色濃く身につけていた北澤建設の元会長(住まい塾の賛助会会長も務められた)北澤一丸(かずまる)さんにどこか似ていることもこのように感じさせる一要因になっている。 

 いかに深刻な問題を抱えていようと、我々にもそれを躱(かわ)せるユーモアがないとね。
 しかめっ面してるだけじゃ、何も解決しないしね。
 我々にできることは徹底してやる。まかせるところは天におまかせして、気軽にいこうぜ、共感の人の輪を楽しみながら……。
 世の中、苦しいことばかりじゃないし、気分の悪いことばかりじゃ決してないのだから……。



2022年1月3日月曜日

 コラム250 <仕事を通じての私の念い>

  私は自分の創り出す住空間を通じて、縁ある人々に幸せを与えたいという思いで仕事をしてきた。そのためにこそ住空間は人々を豊かな気分にするものでなければならない。
 しかしこの思いはいつでも成功するとは限らない。人間の相性、求める価値観、感性においても、めざす志においても重なるものが無ければ成功しない。
 それを私は人間どうしの共感関係と呼んできたのである。
 さまざまな人間の集合体がやることだから、時に行き違いがあったり、住まい塾の仕事は職人の手技によるところ大だから、出来、不出来の問題も生じる。自然素材を使えばその時々の天候状態の影響も受ける。

  上に記したような共感関係に強いものが無ければ、生じた問題に対して皆で力を合わせてどう解決していこうか、というよりも即クレームあるいはトラブルに発展する。
 最も無念に思われる瞬間である。住宅がクレーム産業などとしばしば揶揄(やゆ)される所以(ゆえん)である。
 共感関係の深さと同時にお互いに人間としての徳性及び寛容さが求められるのである。一言でいえば、人間が試される一瞬である。

  幸せに影響を与える住空間とは、勿論万全ではないにしても、住む人に与える影響には想像以上に大きいものがる。
 共感関係なくしてものづくりは始まりもしないし、成立もしない。仕事として割り切ったり、いわんや商行為としてのみ考えたりする間柄では、早々に関係を解消した方が身のためである。これは当初より私の徹底した思いであり、死ぬまで続くであろう思いである。死んでから後のことは、判らないよ。