2020年7月27日月曜日


コラム175 幸福のパンデミック

 世界が平和であるなら、毎年投じ続けられてきた各国の巨額の軍事費は不要となって、それを平和構築のために有効に使えるようになったら、世界は何千年も人類が夢見続けてきた平和なユートピア世界に、現実にどれ程近づくことでしょう。平和な活動など考え出したらいくらでもあります。
 自分達の手では対策の立てようもない貧困な人々の救済もそのひとつでしょう。「戦争」というものがあるからこそ人々は「平和」ということを考えるようになるのだ、などと論理学から抜け出してきたようなことを言う人もいるし、そんなことは夢物語りだと主張する人々も多いでしょう。これまでの何千年、何万年、いやそれ以上の歴史の中で、戦さが止んだことが一度でもあったか?!と反論されれば確かにその通りで、軍事力、防衛力の不足から、力の論理であっけなく侵略されたりした例も多く、絶望的に思えますが、だからといって未来永劫不可能だという論拠にはならないものでしょう。全世界に平和構築への決意と実践が無かったのです。もう時代は変わったのです。


 平和は小さな単位でならいくらでもあったのです。人間の集団単位が大きくなって力を持つようになれば、欲に歯止めがかからなくなるのです。自由主義経済とはいえ、限りなき欲望の渦に巻き込まれていく現代の資本主義経済を見ればよく判ります。ちょっと前までは
   〝溜(たま)って汚くなるのは 金と灰皿〟
などと、のんきなことを言っていたものですが、このまま放置すればこの中に人類そのものも入ることになるかもしれません。
 愚かな者が沢山いる一方で、人類には賢人が沢山いるのですから、今はそうした人々の知恵を結集して世界が「幸福のパンデミック」に向かうまたとないチャンスではないかと思えるのです。

2020年7月20日月曜日


コラム174 「幸福のクラスター」づくりへ ②

 小さな単位であっても、いい仲間達とのよきつながりや共感関係の拡がり、あるいは近代文明が未発達の小さな村社会の平和などは「幸福のクラスター」と呼んでいいものではないかと思う。
 「幸福のクラスター」と呼べるような、この小さなクラスターの芽をどんどん拡げて、「幸福のパンデミック」を作り出す方法はないものか。

 〝よき仲間とつき合え〟とは孔子(BC351479)の教えだが、2500年以上前に教えられたこの教えさえ、なかなか実現がむずかしい。色々な人がいるからである。(同様の言葉が釈迦(BC67世紀頃)の教えの中にもあったように思う。)しかし、このことに全世界がはっきり気づき、決意して、実践の輪を拡げていくならば、「幸福のクラスター」はあちこちにつくられていくのではないか。ソクラテスに師事したといわれる古代ギリシャの哲学者プラトン(BC427347)も人類のユートピア建設を夢見た一人だ。

 現在、最も必要なことは言葉でいえば簡単だ。世界中の皆がむずかしいことを言い合わず、もっと仲よく、協力的に、互いを信頼し合いながら助け合うこと。新型コロナウィルスとは逆に、「幸福のクラスター」を拡げると決意し、そのためには何をどうしなければならないかを考え出し、全世界でそれを実践に向けて行動を起こすことだ。人類はこれまでの数千年の歴史の中に数多くの賢人を輩出してきた。それでさえも、実現し得なかった「幸福のパンデミック」をこれからの人類の知恵の総力をもってすれば、可能となる日が必ずやってくると、私は確信する。そのためには、それでなくとも当てにならない国におまかせでなく、まずあなた自身が、私が、我々が「幸福のクラスター」の種火となり、決意し、実践することだ。


2020年7月13日月曜日


コラム173 「幸福のクラスター」づくりへ①

 全世界に猛威をふるっている今回の新型コロナウィルスでは「クラスター」とか「パンデミック」とか、これまで耳にしたことのない言葉を、どれ程聞かされたことか。その度に、ウィルスとは逆の「幸福のクラスター」とか「幸福のパンデミック」といったものは起きないものか、人類の知恵をもって起こせないものか、と思わせられた。「幸福とは何ぞや?」などと難しいことを聞かれても私には答えようもないし、哲学者や思想家たちがこれまで書き遺した『幸福論』などを読破してみても、おそらく 幸福とは何か といった問いへの確信に到ることはできないであろうし、最後は結局、自分の胸に聞くしかないということになるであろうと思う。人間にはそれがどういう状態をいうのか、ある程度までは判っているからである。「愛とは何か」と問われるのと同様である。

 逆に残虐な戦争の繰り返しを幸福だと思う人はいないであろうし、啀(いが)み合いの中に幸福を感じる人はないであろうと思う。



2020年7月6日月曜日


コラム172 <知ること>と<身につくこと>———知識と実践②

 知ることは身につくことの始まりだというけれど、孔子も釈迦も「知ってやらない」ことを「知らずにやらない」ことよりも下に置く。おそらく、キリスト教でも同じように教えるのではないか。知って終わりでは知らぬと同然、ほとんど意味を為さない。このことを皆はどう考えるだろうか?
 知らないよりはましだと考える人もいるだろう。だが、孔子も釈迦もキリストも、なぜこれを逆転して教えたのか。数千年前からの教えである。知っていることをどれ程多く実践できないままできたか、と考えると愕然とするが、元々「知る」という行為は実践するために、学び、知り、反省する———その繰り返しの上にはじめて、じわりじわりと身についていくのである。自分の経験からしても生半可な覚悟では成らぬものだと知った。反省に反省を加え、さらに反省、反省、反省を100回繰り返してもまだ身につかぬ。気性、性格、さらに人間の出来具合ともなると、これはもう覚悟を伴った修行・精進の域である。溜息が出ても、なお諦めずにチャレンジする。「諦観の念」とは、〝あ~あ、もうや~めた!〟といった簡単な境地ではなく、諦めてもなお、明らめるところまで諦めないでいく。そのプロセスを悟りへの境地に近づいていくことになるのだそうだ。繰り返し、繰り返し、あきらめずに、繰り返す——つまり反省によって知り得たことを身につけていく人生。
 これが最上の人生というものではないだろうか。