2022年2月28日月曜日

 コラム258 <信じるに力弱くなった時代 >

 

 信じるに弱くなった時代よ、人間よ。人が徹底して人を信じることの少なくなった時代よ。

 疑うことが頭のいい人間の証でもあるとお思いか?
 〝疑心暗鬼〟という言葉を待つまでもなく、
  〝疑心は疑心を生んで限りなし〟という。
 こんな人間が、徐々に徐々に増えていく社会に真の幸せや人生の充実がやってくるとは思えない。人としての道を誤っているからである。

 気をつけよう。そんな社会に生きることを誰も望みはしないのだから
  心掛けよう。親切で優しい、慈しみの心で人と接することを。
  それが人間を信じることに通じていくのだから……。
  それが何よりも真に人間らしいということだから……。
  それが人間であるために最も必要とされることなのだから……。
  名ばかりの高学歴社会は多くのうすら物知りを生み、大きな弊害を生んだ。
  人間であることの条件を忘れさせたからである。

 疑い深いのは明らかに〝人間の病〟である。
 以前にも書いたが疑う病と書いて「癡」———おろかと読む。どうおろかなのかといえば、人間として愚かなのである。人が人を信じなくなり、疑い深くなるのだから……。
 知る病も「痴」と書き、同様におろかと読ませる。なぜ「疑う」と「知る」が病におおわれれば同義なのか、よく考えてみようではないか。




2022年2月21日月曜日

 コラム257 <私のブログ———『マンデー毎日』>

  短文ながら毎週月曜日に書き続けている私のブログ(コラム)は、これまで縁のあった人々に向けてばかりではなく私から今の世間に向けてのメッセージでもある。これはある意味で我が身を削りながらの作業であると思うのは、これに熱中して書いている間だけ、不思議にもこの病の苦しみを忘れられるからである。

  私の理想としてきたことのどれ程が数十年歩みを共にしてきた仲間達に理解され、伝わってきたか、私には判らない。そうした問いに対してブッダは初期仏典のひとつである『ダンマパダ』(漢訳では『法句経』)の中で

 〝それは偏(ひとえ)に弟子自身の問題であり、私にはどうすることもできない。私はただ道を説くだけである〟

 と語っている。それに較べれば私のこれまで述べ、書き記してきたことなど、大した内容のものではないと自覚しているが、中には普遍的な事柄も含まれているから、折角長い間歩みを共にしてきたのだ。それだけでも伝わってほしいものだ。
 しかしそれは私の望み、希望であって、結局は上記の言葉に託さざるを得ないのです。



2022年2月14日月曜日

 コラム256 <好きこそ物の上手(じょうず)なれ >

  〝好きこそ物の上手なれ〟とはたいていの人が小さい時から知っている言葉である。知ってはいるが、ほとんどの人はこの言葉をあまり真剣に、まじめに考えたことがない。言葉の意味は簡単だが、私はこの〝好きだ〟ということはこの地上に生まれ出た人間それぞれに与えられた使命と何らかの関係があると思ってきた。
 人間皆平等に生まれてくるとは言っても特に物づくりの世界に生きていると、向き・不向きといったことが必ずあり、素質や才能といったものが歴然としてあると感じる。これは建築家ばかりでなく、各種職人にも、工芸家にも言えることである。
 昔ある料理人から板前修業で最も教えにくいのはセンスであると聞いたことがある。これはどの道においても共通している。

 二千年以上前の『論語』にも次のような言葉があった。

〝子(し)曰(のたまわ)く。之を知る者は、之を好む者に如(し)かず。之を好む者は、之を楽しむ者に如かず〟

 子とは子供のことではない。子供がこんなことを言ったら明らかに天才、天の子である。

 私も〝シ、イワク〟を長年、〝師、曰く〟と思い込んできた。ある日、子とは先生という意味であることを知った。だから孔子とは孔先生、子曰くとは孔先生が言われたという意味になる。因みに如かずとは及ばない、という意味である。
 何だか漢分の基礎教室のようになったが、しかしながら「知る」とは努力で何とかなるが、「好む」となるとかなりむずかしいことになり、「楽しむ」となると天性との関わりが俄然深くなってくる、生涯をかけて取り組む職業選びには上記のことを念頭に起きながら為されるといい。いびつな経済社会の大渦の中で益々自由のきかぬ世の中になっていることを百も承知の上で言うのである。



2022年2月7日月曜日

 コラム255 <ブッダの教えの実践>

  学び、知ることだけでなく、学んだことを実践してこそ果があるとは誰でも知っている。このことに関して、少々長くなるが『ブッダが説いた幸せな生き方』(今枝由郎著:岩波新書)からその一部を引用してみたいと思う。 

 第二次世界大戦を終結したサンフランシスコ対日講和会議(1951)で、仏教国セイロン(現在のスリランカ)は、日本に対する損害賠償請求権がありました。ところが、セイロンを代表したJ.Rジャヤワルダナ蔵相(後にスリランカ大統領。19061996)は自発的にそれを放棄しました。その理由として引用したのが(初期仏典)『ダンマパダ』の次のことばです。
 

〝じつにこの世においては、怨(うら)みは怨みによって消えることは、ついにない。怨みは、怨みを捨てることによってこそ消える。これは普遍的真理である。〟

(以上、同219220ページ)

このような心打たれる話を、私は社会科の授業でもこれまで一遍も聞いたことがありませんでしたし、こういう事実こそしっかり教え、伝え、知ってこそ両国の関係並びに人間の心が実践的に美しく、磨かれ鍛えられていくのではないか。私はそう思います。
上記のような事実を知ったならば、日本の政治家も一般国民も若者もそうした歴史を背景に持つ現スリランカへの感謝の基盤の上に親愛の情を深めるに違いなく、少なくとも二国間は学び合い、協力し合いながら現在以上に平和な関係を築き得るはずです。J.Rジャヤワルダナ氏及び彼を支えた人々の素朴で、シンプルな信仰心に感動するのです。