2020年11月9日月曜日


 

コラム190 <仏画師 安達原玄さんの想い出①>

  仏画師 安達原玄(1929~2015 86才)さんの晩年を想い出している。玄さんといっても女性である。そんな風に思ったことも感じたこともなかったが、私は1947年生まれであるから、私より18才年上であったことになる。すでに清里にほど近い国道141号線沿いに『安達原玄仏画美術館』はあるのだが、玄さんの45メートル四方程の曼陀羅(まんだら)等の大作が現在の美術館では収蔵しきれず、もっと大きな美術館をつくりたいとのことで、ある人に紹介されたのが出会いのきっかけであった。以来随分長いおつき合いをさせていただいたが、それが45年程だったか、10年以上に及んだものか、はっきりしないのはその期間私にとって言葉で言い尽くせぬ程濃密な時間であったからであろうと思われる。

  新しい建設候補地はすでに清里の萌木の村に隣接する国道141号線沿いに準備されていた。だが時勢が悪かったこともあって、残念ながらこの計画は基本設計止まりで、実現には至らなかった。

 私が知り合った頃には、玄さんはパーキンソン病に冒(おか)されていて、歩行にも、利き手の右手の方も不自由になられていたが、それでも筆を持つと手のふるえが止まるのだと言って、病状が徐々に進行するに及んでも〝右手でダメなら左手で、交互に描いているうちにどちらで描いているのか自分でもわからなくなるのよ〟とかおっしゃって、こういう方は天から何か使命を受けてこの世に生まれ出たものであろうと幾度も思わせられた。

 霊力(透視能力や霊感)も多分に働いていたようで、私には随分語り聞かせてくれたが、〝こういう話をすると気持悪がられるから他人にはあまりしないの〟とおっしゃっていた。

 晩年はその病状もさらに重くなり、進行を遅らせるために飲んでいた薬も、〝もっと強いものでもいいから、あと二年、描かせて……〟と祈るような調子で語ることもあった。表現したいものがまだまだあったのだろう。充実の中にも悲しい時間であった。