2020年8月10日月曜日


コラム177 <涙―その②>

 一方、左半身にひどいシビレと共にマヒが遺(のこ)った私は多少モタつきながらも言葉は出るが、歌が以前のようには歌えない。気がきいてやさしいヘルパーの田代正史さんは入浴時間に私の得意曲を三曲、スマホでかけて歌わせてくれるが、どうも歌になっていないようだ。音程も狂っているようだし、音量も不足、ビブラートもうまくきかない。音痴というのはこういうものなのだろうなと思う———自分で歌っているつもりだが、歌になっていない———

 過日、連れ合いがスマホに高性能イヤホンのようなものをつけてベッドに横になっている私の耳に差し込み、〝一緒に歌ってみて〟と言う。いい音がする。それに合わせて歌っているつもりだが、どうもかつてのように歌っている気分にならない。そこで聞いた、
 〝歌になってる?〟こたえは、
 〝浪花節みたいだ〟とのことであった。

 おそらく同世代であろう、さだまさしのベスト盤を今日久々に聴いた。この人はきっと心根のやさしい人であろうと歌を聴きながらいつもそう思う。ベスト盤が手元に三枚あるが、一枚目の第2曲目に「道化師のソネット」という曲が入っている。そのソネットをCDと一緒に歌っていたら、ボロボロと涙がこぼれた。熱いものがこみ上げてきて、むせびながら最後まで歌ったが、どうせ浪花節調だったに違いなく、連れ合いとも仲のよかった大沢夫妻も、あの世で腹をかかえて笑いながら聴いていたに違いない。
 涙はやはり人の心の塵(ちり)を払い、一段一段、澄んだものにしてくれるように改めて感じた。