2016年6月27日月曜日


コラム 43 <やたらと電話営業するなかれ!> 

片っ端から電話をしているようだ。
電話帳に載せていないこの山小屋の電話番号をどこでどう知るのだろうか。 

山中、柳宗悦の『茶道論』を静かに共感をもって読んでいるところに、電話が鳴った。かわいげな若い女の声である。 
〝オソレイリマス、TVショッピングの○□デス・・・・・
         タダイマ吉野家ノ牛丼ノ特別キャンペーン実施中デ・・・・・〟
 TVでなくともTVショッピングなんだな・・・・・そんなことはともかく、どうでもいいから勘弁願いたいねえ、こういうの・・・・・。
 ここをどこだと思っているんだ!と怒ってみたところで電話の向こうにそんなこと、判るわけがない。
 
 人里離れた静寂な山中にまで、電話媒体の営業が追いかけてくる。ほんとに世の中、こんなことでいいんだろうか。
〝電話帳にないものをどこで知るのですか?〟と聞いても、ただ廻ってきたところにかけているだけなので・・・・・と言う。
〝どこから廻ってきたのか?〟と問いただすと
今回は御注文宜しいんですね・・・・・失礼しました、と切ってしまった。 

 一時期NTTコミュニケーションズがひどかった。夜の9時を廻ってもしばしばかかってきた。
 ある日、キッパリと言った。
〝得だの、安いだの、便利だのという話は、私にはほとんど関係なし。できるだけ使わないようにしてるんだから・・・・・〟
 その日以来、キッパリと来なくなった。
 

2016年6月20日月曜日


コラム 42 <高橋佐門と器> 

私の友人に高橋佐門という陶芸家がいる。もう長いつき合いである。30年程前にある人の仲立ちで知り合ったのである。それ故私の手元には彼の器がかなりある。義理を感じたのか、その後彼は住まい塾で家とギャラリーをつくった。
これまで粉吹窯変一筋に生きてきたが、世にいう粉吹(あるいは粉引)とはだいぶ趣が違って、これが粉吹かと思われるものまで表情の巾は広い。 

以前個展の際に私から知人達へ宛てた案内に
〝本人はいたって饒舌、しかし作品は寡黙です。〟
と書いてバレたが、改めて今見てもそう思う。
 
 この花の宵を思わせる窯変茶碗は華やいだあの花見の宵ではない。眺める人とて特に無く、音もなく静かに散りゆく街はずれの桜花を想わせる。
 
 
 
 
                             
 
 
 もう一枚の比較的大きな尺2寸の角皿は、秋草の葉かげでひっそりと光を放つ蛍を想起させる。蛍とは真夏のものと決まってはいるが、佐門のそれは真夏のものではない。 







 本人と会うと、私は不思議に思う。
 眼前のこの饒舌と、作品に漂うあの寡黙といったいどちらが真実なのだろうか・・・と。
本人に聞いてみたこともないし、尋ねたところで本人にだって判りはしないだろう。
 しかし私は思うのである。作品は眼前の人間よりもはるかに本人の内面の真実を写すものだ、と。作品の中には饒舌を思わせるものも少なくない。しかし佐門のあの過ぎる程の饒舌の底に、作品に見るあの寡黙が沈んでいるのを見るのである。 

2016年6月13日月曜日


コラム 41 <葉を落とすにも力がいる>  

山小屋の玄関前に植えられたソロが昨年頃から葉を落とさなくなった。
十年近く前に植えたものだが標高1600メートルの冬の厳しい寒さにはさすがに耐えられなかったらしく、当初の整った株立ちの樹形が葉の小型化と共に年々小さくなり、ついに株が枯れて残すのは幹一本のみとなった。
それでも毎年春には小さな葉を芽吹かせ、心を和ませてくれた。風にそよぐ姿も可憐でかわいらしかった。 

だが二年程前から細い枝先に小さな枯葉を残すようになった。はて、そんな樹であったかと一瞬思ったが、やはりそうではなかった。今年は昨年の枯葉を残したまま芽吹くことがなかった。 

葉を落とすというのは、次にやってくる新しい生命に押し出されるようにポトリと落ちるのである。新しい生命との代替わりである。秋には紅葉しやがて葉を落とすのは自然のごく当り前の行為だと思っていたが、ソロのこんな姿を見ていると葉を落とすにも力がいるのだと判る。 

地上1メートル程のところに生命の名残りが見える・・・・・
根元に残る新しい生命の息吹き・・・・・この生命の消え切らぬうちにもう少し暖かいところでもう一度生命をよみがえらせてやろうと思った。

2016年6月6日月曜日


コラム 40 <鶯の不思議> 

山の鶯が鳴いた。
6月に入ったというのに、この辺りはまだ早春だ。さえずりもおぼつかない。ホー・ホケホケッなどとやっている。時たま、ホー・ホケキョとうまくいく。手をたたいてやりたい位だ。 

不思議なのはここ標高1600メートルの八ヶ岳のそれと、私の仕事場である埼玉県志木市の鶯とが全く同じように鳴くということだ。何の縁もゆかりもないものどうしが、鶯というだけで同じように鳴く――これは実に不思議なことではないか。
先日北海道から人が来たから、北海道の鶯はどう鳴くのかと聞いてみたが、同じだそうだ。妙なことを不思議がるものだと言われたが、これを不思議に思わぬ方がどうかしている。 

犬だってそうだ。日本ではワンワンというが、アメリカじゃ英語でほえるのかい?そうじゃないだろう。Bowwowと書くようだが、犬のほえ方に違いはない。全く不思議なことじゃあありませんか?