2019年9月30日月曜日


コラム 132  その人の身になることのむずかしさ > 

こんな時でもなければ真剣に読むこともあるまいと、最初病室に持ってきてもらったのが正岡子規の『病牀六尺』他二冊の病床日誌であった。
生きる上で身近な人々に大変な世話をかけながら、何を我が儘なことを言っているのか・・・・・と思わせられる場面が時々登場する。しかし病に臥した人間からすれば多かれ少なかれ、もう少し気を使ってくれ!とか、もっと患者の身になってくれよ!などと思われる場面にどうしても出くわすことになる。私のこの9ヶ月間に亘る入院生活中にもお世話になっている方々に頭の下がる思いをしながらも、そういう場面に時に遭遇した。そのたびにその人の身になることのむずかしさを思わせられた。
これは看護士や介護士にあっても同様で、何か専門家とか素人の差というよりもひとえに人間的な気遣い、気転、優しさといった面が総合された差であろうと思われた。専門家だって気のきかぬ人は気がきかぬのである。
ベッドシーツの交換の度に身体の不自由な患者にとっては命綱ともいうべきナースコールのコードがブラケット(壁付照明)に巻き上げられていてベッドに戻って横たわった時にはナースコールに手が届かないとか、私の場合車椅子の生活からしばらく離れられなかったのだが、部屋の掃除の後など、車椅子の置いてある位置がベッドから遠過ぎたり、向きが逆になっていたりして〝車椅子まで歩いて行けってえのか!〟などと思わせられたこともたびたびである。おまけにナースコールは手が届かないのだから無理にベッドの柵を伝いながら歩こうとして転倒したこともある。
長い入院生活だったから、さまざまな場面を経験したが、その中で感じたのは特に健康体の人が身体の不自由な人の身になって気配りするむずかしさである。つい最近まで私もその健康体の一人であったのである。多くのことを教えられた。
やさしい表情や細やかな気遣いの根底にあるのは何といっても人間としての心根の優しさである。
気配りのない冷たそうな看護士が夜勤担当だったりすると少々気が重くなったものだった。逆にやさしい人が担当だったりすると安心できた。
病に臥している者はその辺に敏感になり、やさしそうな人とやさしい人を直感的に見抜くようになる。特に急性期病院は皆忙し過ぎるせいなのだろう、そのあとのリハビリテーション病院よりはるかに感情のピリピリ感、ザラザラ感、バタバタ感が強い。致し方ないのだろう。
そのあと松戸リハビリテーション病院で4ヶ月、信州上田の鹿教湯病院で3ヶ月リハビリ生活を続けたが、この二つの病院では不快な思いをしたことが一度もない。この辺が急性期とリハビリ病院の一番大きな違いだろう。退院時には主な関係者が集まってくれ、握手をしながら皆涙ぐんだ程だ。特に鹿教湯病院は山中にあったから余計にそう思われるのかもしれないが、私にとって想い出深い第二の故郷になるだろう。

2019年9月23日月曜日


コラム 131  食について/普通であることの大いなる惠み > 

私はすでに72才になった。中には豪傑もいて、70才を過ぎても酒豪・大食漢という人もいる。私はその辺まあ普通で、うまいものをもりもり食べたい、うまい酒をぐいぐい飲みたいという年令を疾うに越えている。脳出血を起こして左半身の自由がきかなくなってからというもの、余計にそうなった。
それだからこそというべきか、少量を、器から配膳に至るまで〝美しく食べたい〟という思いが以前よりさらに強くなった。幸いなことに伴侶が美的センスに恵まれているから救われているが、一方残念なことに、こちらの左手の自由がきかないから美しい食べ方ができない。極力左手を参加させるように努め、朝食後の食器洗いなどはリハビリを兼ねてできる範囲で自らやっているが、手や指が細やかに動くなどということは奇跡的な惠みであることを教えられている。普通であることすべてが大いなる恵みであることを知らされただけでも、健康そのもので歩んできたかのような私にはこの世に生まれ出た人生の甲斐があったと考えなければなるまい。苦しんでいる人が身近にこれ程多くいることにも気付かされた。

2019年9月16日月曜日


コラム 130  久々のブログ再開 > 

私のブログ『―信州八ヶ岳―山中日誌』は129回で途絶えた。20182月に脳出血で倒れて左半身マヒとなり、続けることができなくなったからである。あれから約一年半余り、数え切れない程多くの人たちに支えられながらリハビリに努めてきた。
寝返りもうてず自分の左腕がどこにあるかも判らないような当初の状態よりは格段によくなっているが、御世話になった方々への御恩返しが何百分の一でもできる程度までには回復したいという自分の思いに比すれば恢復の程度は捗々しくない。右手が動くのだから字や文章位書けそうなものだが脳の病はそう単純ではない。

私のやられた部位は視床というところだが、それがどの辺にあるのか私は知らない。が、どうも色々なところへの運動神経の通過点になっているようで、それ故左半身の各所に影響が及ぶことになった。幸い予想された言語への障害は、自分にはもつれる感があるが、他人にはそれ程には聞こえないらしく、言語のリハビリも早々に卒業となった。今回初めて知ったのであるが、舌の神経も中心から左・右に分かれているとのことで、左側にマヒ状態が残った。それと関連しているのか口の中全体が軽く火傷を負ったような感触となり、口腔外科では「舌痛症(ぜっつうしょう)」と診断された。病名はあるが原因がはっきりしていないとのことで治療法もこれといって無し。神経から来ているのだろうと言われているとのことであるから今回の病と関連していることは確かなようだ。それ故熱いものは自然に遠ざけることとなり、自ずと味覚にも影響が及ぶこととなった。それでもうまいものはうまいし、まずいものはまずいと判別がつく程度に留まっているから・・・・・まあ いいか。
今最も強く残っている後遺症は左半身、特に肩から腕・指先までのジンジンする強烈なシビレである。それが左脚にも影響を与えている。薬とリハビリによって少しずつでも快方に向かえばいいのだが、こればかりは逆に段階的に強くなって時々気が折れそうになる。強い日は気力と体力がこのシビレに吸い取られていくような気分になる。そしてひどく疲れる。こういう状態ではインスピレーションとエネルギーの集中を要する文章などはなかなか書けないものだ。シビレの専門医にも幾人か診て戴いたが、結果は同じであった。〝シビレとはつき合っていくしかありませんねえ。そう覚悟して下さい〟・・・・・覚悟しろと言われてもねえ・・・・・。
 志木に帰って最初に行った病院が「いしもと脳神経外科」。退院後二ヶ月程してのことである。いしもと先生曰く。
〝お酒は飲んでないでしょうねえ〟
〝いや、退院の日からやってますよ〟
〝ダメじゃないですか、退院の時に医師から言われませんでしたか?発症から1年はダメだって〟
〝いや、一度も言われたことないなあ・・・・・〟
〝どうしてかなあ・・・・・〟と私の顔をまじまじと眺めながらポツリ・・・・・
〝言ってもムダだ、と思ったのかな?・・・・・〟
そういえば、リハビリ入院していた鹿教湯病院の主治医の先生は人間的で心の広いすばらしい方だった。
〝1年といえばもうすぐじゃないですか〟の私の言葉に
〝見切り発車したんだから秋位までは控え目にしましょうね〟
だから今は控え目だ。

発症後半年以後はリハビリの効果は上がらない、というのが定説になっているようだが、多くの体験者が語るところによれば、それは違う。脚に装具をつけながらのことだが、私も500メートル、1000メートルと歩けるようになったのは半年過ぎてからである。
リハビリのセラピスト達のおかげで歩行や手の動きなど少しずつ回復しているが諦めずに今できることに少しずつ挑戦してやがてブログが続けられていた時のように自然が与えてくれる無限のインスピレーションに充たされながら文を書き続けたいと望んでいる。

美しいものが沢山あるというのに写真も今は自分の手で撮れないのが無念だ。レンズに納めたい感動的な草花や自然界の光景に出会うと、思うように動かない身体がもどかしい。
焦らないように、苛立たないように、一歩ずつ、半歩ずつ、薄皮を一枚一枚はぐような気持で・・・・・と多くの人に教えられ、諭された。

今後しばらくは病床日誌のような形で患者としてあるいは病室で思い感じたことなどを書き記していこうと思う。