2018年2月19日月曜日

コラム 129  空の色の不思議 >  


このところ快晴の日が続いて、空は爽快な青、夕方ともなれば西の空が橙色から徐々にブルーとピンクのパステルカラーの層へと変化し、やがて静かに日が暮れてゆく。
山小屋の西の窓から眺めるこうした光景は、私に深遠な感情を抱かせる。 


晴れた日に空が青いのは当り前、夕焼だってだいたい橙色に決まっている。太陽が山の向こうに沈み切って黒い峰々の背景がパステルカラーになるのもごく当り前、特別驚くようなことではない、と多くの人が思っている。
だが、快晴だとどうして空は青いのか?
陽が沈むと西の空はなぜあれ程に輝くのか?
今日のことだから、その理由を科学的に説明することは出来るに違いない。しかし、なぜ?なぜ?なぜ?と繰り返して第一原因にまで近づくと、なぜ宇宙にそんな原理が存在するのかとなって、説明が困難になってしまう。そこに私はことの不思議を感じ、深遠な思いにかられるのである。 

雪は白いとばかり思っているが、そうと決まったものでもない。もしも雪が白ではなく、真っ赤だったり、真っ青だったりしたら、どうなるだろう・・・・・。透明な雨が結晶化して雪になれば白くなるのは当り前だ(と思っている)が、そもそもなぜ雨は透明なのか?血のような赤であっても何ら不思議はないし、青いペンキを溶かしたようなものであってもいいし、墨のような黒色であってもおかしくはない。これまでにも黒い雨というものが実際あったのだし・・・・・。 

こんなことを想像していると、この世界は実に美しい原理のもとにある、と思われてくる。宇宙は、地球はきっとこの原理のもとにある・・・・・してみれば我々の心の原理もそれに違わぬものであるに違いない――刻々と変わるこの夕空を眺めているとそのように思われてくる。

2018年2月12日月曜日

コラム 128  人の道 その⑥ ―あるべきように― >  

あるべきことを あるべきように
やるべきことを やるべきように
それが 人としての道 

言葉で表現すれば、何と簡単なことだろう
判っていることを実践することが、なぜこんなにもむずかしいのだろう。

2018年2月5日月曜日

コラム 127  氷柱(つらら) > ――屋根断熱が失わしめた厳冬の美―― 

つららの先から
雫が落ちる
一瞬キラリと光って
ポタリと落ちた。
つららとの別れを
惜しむかのように・・・・・
はかなき無言の別れ。 

















一時間程経って
ふと見ると
つららの長さが数センチ
短くなっている。
そうか、あれはつららの分身
つららの涙だったのだ。
うららかな陽気に
つららの心もゆるんだのだ。 

夜半には再び厳しい寒気がやってくる
涙をためて、たくましく育つために

2018年1月29日月曜日

コラム 126  馬鹿にするな! >  

馬鹿とは馬や鹿に対して失礼であろうと思っていた。あれ程人なつっこく、澄んだきれいな眼をしている動物は他にあまり見ない。彼らは人の心がよく判るという。だから余計にそう思うのだ。 

愚かなことを馬鹿と書くのはなぜなのか調べてみた。私と同様に思っている人がいるかもしれないと思い、ここにその調査結果を記す。 

・馬鹿と鋏は使いよう
・馬鹿に付ける薬はない
・馬鹿は死ななきゃ治らない
これらが英語にまでなっている。
No medicine can cure folly.  <どんな薬もばかは治せない>
・馬鹿の一つ覚え
He that knows little of ten repeats it.
<わずかな知識しかない者は、それを何度でも繰り返し言う>
                             『成語大辞苑』より 

馬と鹿もさんざんである。
これでは馬鹿もたまったものではない。
しかし調べてみて判った。私は彼らの名誉のために言う。
馬鹿はこっちの方であった。 

〝馬鹿〟あるいは〝莫迦〟とはサンスクリット語(梵語)のbaka(痴)又はmoha(無知)から来ている、というのである。『新潮 現代国語辞典』は大きな辞典でもないのに、この馬鹿についての説明がいやに詳しい。
それにしてもわざわざ馬と鹿の字を当てることもないだろうと思われるが、サンスクリット音訳即ち当て字であることが判っただけでも収穫であった。
他『漢語林』には上記解釈の他、馬鹿(バロク)と読ませて『史記』(秦始皇紀)の一節を紹介している。さらに興味をもたれる方はそちらもお調べになってみるがいい。私にはそれ程の興味は無いからこれで終わりにする。

2018年1月22日月曜日

コラム 125  太陽が落ちた >  

2002116日のことである。
夕刻540分に私は次のように書き記している。 

太陽が落ちた・・・・・とはいっても、夕陽が沈んだという意味ではない。
今日の西の空は不気味だった。
暗紫色と黒色の雲に沈んだ太陽の余光が蛍光色を伴って白々と混じり、すぐさま暗黒の世界を想起させた。 

それはまるで太陽が落ちた、というにふさわしかった。普段の夕闇なら多少の緋色を残して明日への希望を予感させるが、今日のそれは違っていた。もう二度と登らぬのではないかと思われた。
落ちた陽の続く姿を思い重ねて、改めて外を見た。
生き物はただ一つ無く、樹々も草花も成長を止め、やがて一木一草無い闇の世界と化すだろう。人の気配も完璧に消えていた。 

不気味だった・・・・・そして我々が日々恵まれていたあの輝かしい、生気に満ちた世界がどれほどつややかでうるわしいものであったかと胸締めつけられる思いであった。まさしく天からの恵みであり、贈り物であった。 

15年以上前の忘れられない記憶である。

2018年1月15日月曜日

コラム 124  冬のトマト >  

冬のトマトは
 生()りたくないが 生らされている味がする 

夏のトマトは
 生りたくないが 生ってしまう味がする 

秋のトマトは最高だ
 食べて欲しくて 生っている 

早春に時々うまいトマトがあるのだが
 はてな?理由が判らない

2018年1月8日月曜日

コラム 123  恵み 代価 >  

雨は樹々を潤す。
育った樹々達は枝を伸ばし、葉を広げる。 

〝多くの水のために(おかげで)
   枝葉は茂り、枝は伸び、
   その枝葉に空のすべての鳥が、巣をつくり、
その枝の下に野のすべての獣は子を生み、
その陰にもろもろの国民は住む。〟
――エゼキエル書3156―― 

だが雨は樹々に向かって代価を要求しない。樹々達もまた鳥や獣に向かって家賃を求めたりはしない。
渓流の水は巡って流れ、やがて裾野の田畑をうるおす。だが、水は代価を求めない。水の司人がいるならば、田畑をつくる者達に請求書を出すだろう。
恵みに恵みを受けている人間だけが、その恵みの何たるかを忘れて要求し、請求し、利を求める。 


雨に、樹々達に、人間は何を返しているだろう。雨も樹々達も、渓流の水も何の代価も求めない――しかし願ってはいるだろう。自然への畏敬の念を忘れた人間達に、これが天の意思、これが自然の姿であることに気づいてほしい、と。

2018年1月1日月曜日

コラム 122  〝忙とは心を亡ぼす意なり〟と知る > 

礼を忘れ
恩を忘れ
節度を忘れる

 挨拶を忘れ
感謝を忘れ
心を込めることを忘れる 

親切を忘れ
優しさを忘れ
思いやりを忘れる 




















 倒れている人に手を差しのべる時間さえ無い
こうして人間は心のありかを失っていくのである。