2017年6月26日月曜日

コラム 95  ウソの死  

今日またウソがガラス窓に飛び込んで死んだ。朝方コツ~ンと当たる音がした。これまでの経験から窓の下に落ちているに違いないとその方を覗き込んだが、見当たらなかった。どこも傷めずに飛んで行ったのだな、と安心していた。 

夕方二羽のウソが室内に入ってきた。一羽はまもなく窓外に出て行ったが、一羽はガラス窓のところでパタパタとやっている。外に出してやろうと近づいてハッとした。その近くに一羽のメスが倒れているではないか。あぁ、今朝の音は室内での出来事であったか・・・・・朝窓を開けたから、室内に入ってきたウソが外に飛び出そうとして窓ガラスに当たったのだ。もしやと思ったが、もう冷たく硬直していた。
樹々を映して鏡状になったり、見通しのいい窓ガラスには頭から勢いよく突っ込むから首の骨が折れてしまうのだろう。強くぶつかったものは助からないことが多い。
以前当たって死んだ南面台所の窓は開けておくか、さもなくば網戸にしておくのだが、まさか北側広間の窓に、それも室内側から当たるとは予想もしなかった。白い布を敷き、端を枕にして、上から数枚のティッシュペーパーを掛布団がわりに掛けて横たえている。最期の水もくちばしにつけた。せめてもの通夜であった。

この小屋で亡くなったウソはこれで三羽となる。私が小屋を建てていなければこんなことは起きなかった。だがウソに私を恨んでいる様子は無い。
外の小さなテーブルで私は本を読み、傍らでウソはエサをついばんでいる。時々テーブルの上にやってくる。あどけない目で私を見つめ〝ナニシテルノ?〟といった風だ。私の方も〝ナニシテルって、本を読んでいるんだよ、ホラ、口にエサついてるぞ〟とか、やっている。

2017年6月19日月曜日

コラム 94  キジバトが樹上で眠る時、目を閉じるか  

樹上でキジバトが長いことじっとしている。きっと眠っているのだろうと双眼鏡で覗いてみた。首を時々振りながら目をパチクリさせて、いかにも眠たげだ。瞼というよりも灰色の薄い膜が下ったり上ったりする。
見ている内に、鳩は眠る時まぶた(目の蓋)を閉じるのだろうかと疑問が湧いてきて、そのまま観察を続けた。
時々閉じるが少しの音にもパッと眼を開けて、反応はいたって俊敏だ。だが静かな時間が少し続くと、重くなったまぶたがまたく~っと閉じる。人間のようにじっと閉じて眠りこけるようなことは無いようだが、ここまでくるとまぶたの動きもやっと緩慢になる。人間にだって同じような状態がしばしばある。
まぶたを閉じたまま眠ってしまったら樹から落ちやしないかと余計な心配が始まる。そんなことで落ちるようなら、鳥はいくつ命があっても足りないことになるのだが〝それで死んだら命トリ〟などと独り言を言いながら、でもキジバトが樹上で眠る時、しっかり目を閉じるものかどうかは今のところ確認できないままだ。予想では暗くなって眠る時にはきっとそうするのだろうと思うが、私が観察したのはうたた寝までである。 

今日はキジバトが夫婦(つがい)で昼寝をしているから、外に出られないでいる。エサを食べたあと枝の上でしばらく羽づくろいをしていたが、それも終わって今二羽とも目をパチクリさせ首をすぼめて昼寝に入ったのだ。午前1120分。

2017年6月12日月曜日

コラム 93  善行とは  

“善行とは天に積むものなり”という。
天にどうやって積むのか?などと野暮なことは言うまい。 


それは一羽の野鳥、一匹の野生動物、一輪の花、一枝の花の命を通じてのこともあるし、我々が口にする日々の糧、日々の器、日々の仕事を通じてのこともあるだろう。言葉を通じてのこともあれば祈りを通じてのこともあり、また人を通じてというばかりでなく、多く人知れずということもあるだろう。
これらすべてに通底するものは感謝の念と愛情である。それらは言葉をかえれば、すべてを生かす道ということが出来る。 

“自分の胸に手を当てて考えてみよ”とはこれまでしばしば言われたことである。そうすることで人間の道はだいたい見えたものだ。だが現状の悲劇はこの胸に手を当てて考える余裕も、さらに当てるべき胸をも失っていることだ。

“病に留意せよ”とは肉体のことばかりではない。真の病は心にあるからである。
肉体の病はどんな病でも、あの世にいけば癒えるという。だが心の病はあの世に行ってもそう易々とは癒えないもののようだ。それはそうだろう。持って行けるのは心だけ、というのだから・・・・・。
“こころの偏りに留意せよ”とはそのことである。
自分の胸に手を当てれば、善行とは心の偏りからは生まれ出ないものだと知ることが出来る。病とはいかなる意味でもこの善業から離れることだからである。 

自責の念を込めて言う。
こんな時代なのだ。
心して平和を生み出す者であれ!

2017年6月5日月曜日

コラム 92  蝉(せみ)  

6月の太陽が昇ると、蝉が一斉に鳴き始める。まるで申し合わせたように。
その声はカジカのようでもあるし、聞きようによってはカエルのようにも聞こえる。

 蝉の一生は土中での地下生活が7年、地上に出てから一週間と言われているが、種類によっては土中生活が十数年に及ぶものもあり、地表に出てから交尾・産卵・死を迎えるまで34週間というのが実際のところのようだ。 


この辺のものが何という種類の蝉なのか私はよく知らない。鳴き声を聞いていると何種類か混じっているようだが、その代表格は写真に撮ったものだ。羽が透明でひぐらし(通称カナカナぜみ)に似ているが、体つきが一回りも二回りも小さいし、鳴き方も違う。勿論、油ぜみやにいにいぜみとも違う。
申し合わせたように、と言ったが、土中に居ながらどうしてそれが出来るのか不思議でならない。そんなことを言えば草木の芽吹きだって同じことだが、先発隊として地上に出て鳴くものあれば、土中深くにまで伝わる何かがあるのだろうか。

 蝉が鳴くのは野鳥にしばしば見られるように交尾相手を求めてのことと聞くが、私にはそれだけではないように思われる。長年土中で生きてきたのだ。それが日の目を見て地上に出てくる。一夜にして固い殻を破り、脱皮して縮んだ乳白色の羽を精一杯に広げる。こんな複雑な殻からよくも抜け出てくるものだとそれだけでも感心するが、暗く不自由な世界から自由に飛翔できるようになった喜びはいかばかりであろう。樹上でのあの声は長い地下生活から解き放たれた歓喜の声なのではないか。

 それにしても地上に出てからの解放の期間が数週間とは、いかにも短い。 
 命尽きかけた蝉が足元にポトリと落ちてきた。拾い上げて樹の幹に戻してやったが、自力で這い上がっていく力はもう残っていない。子孫を残し、彼ら自体はまもなく朽ち果ててゆく。
地上に出たことを彼らは今幸せなことだったと感じているだろうか。あの声は歓喜の声であったと同時に、悲しみの声であったかもしれない、とふと思われた。