2020年8月31日月曜日


コラム180 <日本三鳴鳥+α>―――その①

日本三鳴鳥といえば、ウグイス・オオルリ・コマドリということになっている。ぜひこの仲間に入れてほしいのが、ミソサザイである。小さな体躯で、それはそれは艶(つや)やかな、美事な声で囀(さえずる)る。そのさえずりは、渓流の林間に冴え渡る。声も大きく、しかも鳴き声も長く複雑だから通常のカタカナ文字ではとても表現できない。
 体長(くちばしの先から尾羽の先までの長さ:cf スズメ14cm)は11cmと小さく、日本で最も小さな鳥のひとつとされる。その上、色も地味な茶系ときているから姿をとらえるまでに何年もかかった。見慣れたせいか、時々窓辺にひょいと飛んできて、姿を見せるようになった。子鳥達が巣立つ頃には、56羽の幼鳥を連れてやってくる。子鳥達はササヤブの中に積んである枯枝の中にもぐったり、ヨチヨチ飛びをして遊んだりしているが、その間親鳥は近くの樹の上でしっかり見守っている。人間が近づいたり、何か危険が迫ったりすると、チチッ!チ・チ・チッ!と短い警戒音を発する。するとヤブの中で遊んでいた子鳥達は、ピタリと動きを止めて、音を立てるのを一斉(いっせい)に止める。それは美事なものである。「親」とは「木の上に立って見るもの」の成り立ちを文字通り実感させるのが、このミソサザイである。あれだけの美声の持主ながら三鳴鳥に入れぬ理由は、あるいはその性状にあるのかもしれない。
山と渓谷社の『野鳥図鑑』には「雄は外装だけをつくった巣の前でさえずって雌をよぶ。巣が気に入ると雌は内装を完成させる。抱卵、育雛は雌が行い、雄は次の雌を求めて新たな巣の前でさえずる。」とある。
そこが気に入らないという人もいるが、自然の摂理なのだ。人間の私情をはさむこともあるまい。



2020年8月24日月曜日


コラム179 <八ヶ岳の標高千数百メートル付近の山間道路を走りながら考える>

皆セカセカと追い越してゆく。都会と変わらぬようなスピードで。まるでみな苛立ちながら走り去ってゆくようだ。
緑たっぷりの涼やかな道路をどうしてこうもセカセカと走って行かなければならないのか——しかも排気ガスをブカブカ吐き出しながら……この人達はこんなにもゆったりした環境の中に来ながら、どこで、どうやってゆったりするのだろう。地球の温暖化など自分らとは一切関係のない話だと思っているのだろう。地元の古老は、〝以前はこの辺で夏窓を締めて走る車なんて見ることなかったんだけどねぇ〟とつぶやいた。

 以前、〝そんなに急いでどこへ行く〟というTVコマーシャルがあったけれど、あれは名コピーだった。今、改めてそう聞かれても答えはあいかわらず
 〝どこに向かっているんでしょうねぇ……〟
位だろう。
 あのコピーからもう何十年も経つというのに、日頃のセカセカが益々身体に浸み付いて、体内リズムが振り子の短い時計のようにせわしなくなっているのだろう。

 だが、私は今はっきり言う。
 〝そんなに急いでも決していいところへは行けないよ〟……と。
 〝ゆったりした道では ゆったり走ろうよ〟
 〝散歩道では 野辺の名も無き野花の美しさでも眺めながら、ゆっくり歩こうよ〟

 今の私のようになっては、それすらできないよ。
みんな日々の大いなる恵みを大切に!


2020年8月18日火曜日


コラム178 <人間頭脳と人工知能(AI> 私のAI ——自戒の念を込めて

A
・諦めない
・焦らない
・慌てるべからず
・案ずるべからず
・愛情を受けて、情(じょう)を深めよ
・あとのない、あと一歩
・愛は平和の源泉、愛情深くあれ
・明らめるまで、諦めない

I
・急ぐなかれ
・苛立たない
・忙しくするべからず
・生きて、使命を果たすべし
・生き切ったら、思い残すことなし

AIartificial intelligence):人工知能

最近のAI(人工知能)には乱筆・乱文もなし
私の人間頭脳には乱筆・乱文に加えて、乱心まであり。
 ここが人間のおもしろいところだ。この世に生まれ出た第一の目的は、この乱心を修め、整えることだと私は教えられてきた。

2020年8月10日月曜日


コラム177 <涙―その②>

 一方、左半身にひどいシビレと共にマヒが遺(のこ)った私は多少モタつきながらも言葉は出るが、歌が以前のようには歌えない。気がきいてやさしいヘルパーの田代正史さんは入浴時間に私の得意曲を三曲、スマホでかけて歌わせてくれるが、どうも歌になっていないようだ。音程も狂っているようだし、音量も不足、ビブラートもうまくきかない。音痴というのはこういうものなのだろうなと思う———自分で歌っているつもりだが、歌になっていない———

 過日、連れ合いがスマホに高性能イヤホンのようなものをつけてベッドに横になっている私の耳に差し込み、〝一緒に歌ってみて〟と言う。いい音がする。それに合わせて歌っているつもりだが、どうもかつてのように歌っている気分にならない。そこで聞いた、
 〝歌になってる?〟こたえは、
 〝浪花節みたいだ〟とのことであった。

 おそらく同世代であろう、さだまさしのベスト盤を今日久々に聴いた。この人はきっと心根のやさしい人であろうと歌を聴きながらいつもそう思う。ベスト盤が手元に三枚あるが、一枚目の第2曲目に「道化師のソネット」という曲が入っている。そのソネットをCDと一緒に歌っていたら、ボロボロと涙がこぼれた。熱いものがこみ上げてきて、むせびながら最後まで歌ったが、どうせ浪花節調だったに違いなく、連れ合いとも仲のよかった大沢夫妻も、あの世で腹をかかえて笑いながら聴いていたに違いない。
 涙はやはり人の心の塵(ちり)を払い、一段一段、澄んだものにしてくれるように改めて感じた。



2020年8月3日月曜日


コラム176 <涙―その①>

 住まい塾で家をつくり、その後も親しく交流を続けてきた大沢一男さんが脳梗塞で倒れたのは、もう10年程前のことになるだろうか。恢復がままならず、まだ右脚に大きな装具を付けていた頃、住まい塾運動のよき理解者であり、しばしば酒を呑み交わし、かつ茶の湯仲間でもあった奥さんの大沢由利夫人が突然に急性白血病と診断され、迷われた末に抗ガン剤治療を選択された。だが病状は悲しいかな、急速に悪化の一途を辿り、まもなく亡くなられた。
 お別れの会では歩くのもおぼつかなかった一男さんが悲しみをこらえながら、しゃんと立ち挨拶をされた。その後時々訪ねたり、電話で話したりしたが〝すっかり涙もろくなってしまって……〟とその度に涙ぐまれた。このような姿に接していると人間の心は余分なものを涙と共に洗い流していくのかと思われた。涙は天が人間に与えた滴(しずく)のようにさえ感じられた。

 それから数年して、こんどは私が脳出血で倒れた。私が千葉県松戸市にあるリハビリテーション病院でリハビリに励んでいた頃、茶の湯仲間と共に、車に同乗し、見舞いに来てくれたことがあった。大沢さんの自宅からは距離もあるし、予想もしないことであったが、茶の湯仲間達の優しい気遣いと取り計らいであった。我々は顔を合わせるなり胸が熱くなり涙が ほほ を伝った。腰に巻いたポシェットから徳利とさかずきの絵の脇に酒と涙と添え書きのしてある少々シワシワになった絵手紙を、クシャクシャになったお見舞い袋と共に取り出し、〝やっとここまで描けるようになりました……〟と私に手渡してくれた。私とは反対の右片マヒなので、特に由利さん亡きあとの数年間はさぞかし不自由な思いをしながらの生活であったろうと思われ、再び涙がこみ上げてきた。私からの手紙には必ず不安定な字で返事をくれた。あれはうまく動かぬ左手でけんめいにかかれたものだったろう。今にしてそれがよく判る。後遺症の残り方は共通するところもあるだろうが、人それぞれによって皆違うし、それでもその身体の辛さとさまざまに錯綜する心の苦しみがわかり合えるようになったからこそ、瞬時に涙がこみ上げてきたのである。
 〝同病相憐れむ関係になりましたね〟と手を握り合った時には目に涙は残っていたもののいつもの一男さんの笑顔に戻っていた。
 その大沢さんも先日、希望に添って病院から自宅に戻り、大好きだった庭を眺めながら亡くなられた。
 御夫妻共々楽しいよき思い出を沢山残してくれた。死期が迫っているのを悟ったのであろう。自宅に戻られてから数日して亡くなられた。最後の二日間電話で話し、〝フィーリングが合う人どうしは、あの世でもまた会えるらしいよ〟との私の言葉に弱々しい声ながら、
〝タカハシさんと私はフィーリングが合うから、また合えるよね……〟
と返してくれたことが、悲しくも切ない最後の言葉として胸に刻み込まれた。