2021年11月29日月曜日

 コラム245 <愛の安定>

 

 愛についてこれまで古今東西さまざまな人が思索してきた。愛には最も身近な男女間の愛や、親子の愛・家族の愛にはじまり、友人愛・知人の愛、それに「痴人の愛」というのまであったな、又これらの愛よりもはるかに大きなスケールの人類愛まであって、これに自然に対する愛や動物に対する愛などを含めると果てしなく拡がってゆく。

  特に人間どうしの愛の発生に関していえば、感情的には好きとか、かわいいとか、気が合うなどの感覚愛や、生活センス・人生観を含めたところの価値観の重なりなどが含まれることであろうが、男女や夫婦・家族間の愛が安定するには、相手に対する尊敬の念というものが底辺に必要とされるのではないか。

 さまざまなことが起きる人生において、その人にしかない固有のものを相手の中に認めて、それに対する尊敬の思いを抱いておくことが、愛が安定するには必要なのではないか。
 特段深遠な思想というようなものではないが、病になってみて初めてそのことに気付かされたのである。



 

2021年11月22日月曜日

 

コラム244 <心の真実>

 

真の愛情か、形だけのものか
優しい言葉も、心の底から出た真の言葉か、うわべだけのものか
心配も、真に心配してのことか、そうでないか

 病になると、それらがこれまでになくよく判るようになる。
 真実が見える
 人の心の真実が見える
 病になるとは、恐ろしいことだ。
 ぼんやりしていたものが、はっきり見える。
 翻(ひるがえ)って、真実の人間になることの困難さを思う。


2021年11月15日月曜日

 コラム243 <病人(やまいびと)の孤独>

  病人の痛みや苦しみは当の本人にしかわからない。まわりの人達、たとえそれが夫婦であれ、親子であれ、いかに親しい友であれ、共感者であれ、又いかに愛情深い人であれ、わかり得ないことである。なぜなら痛みや苦しみはその人間に固有に与えられたものだからである。

  正直な医師は言う。
〝我々は判ったような顔をしているけれども、本当のところ患者の痛みや苦しみは判らないんですよ〟と。
 こう言える医師はまっとうな人間だ。仮に判り得たとしても病人と苦しみを分かち合う、共に背負おうと思う感情は人の心として人間らしく、気高いものだが、現実にこんなことを実践していたら、医師は長く務まらないものと思う。癌(がん)になってみなきゃ、癌患者の苦しみはわからない、なんて言われたって癌も多様だし、一人一人皆違うのだから、とてもそんな訳にいかないのが道理というものである。 

 このことは肉体の痛苦に対してばかりでなく、心の痛苦に対しても同様であろう。
 いかなる愛情をもってしても、慈しみをもってしても、他人の心の痛みを真に理解することはできないものだ。せめてそのことだけでも生きている内に知り得て幸いであった。それを補い得るのは、静かに寄り添い得る愛情であり、慈しみの心である、ということも……。
 理解し得ない中にあって、人間として最も気高いのは、他人のために祈り得ることである。

  〝人間であれ!〟という声が聞こえる。

 この言葉を胸に響かせながら、死ぬまで生きよう。

( 2021.10.27 記す )


 

 

2021年11月8日月曜日

 

コラム242 <野鳥にまで励まされ……>

 

十月末、八ヶ岳山中、特に標高1600メートルに位置する私の山小屋周辺は、もう冬だ。同じ別荘地内から来て夕食づくりをしてくれているヘルパーさんが言っていた。今朝はマイナス5度だった、と。

  寒いからと暖房付の室内ばかりにいては健康によくないと、比較的晴れた日にはデッキに出て陽を浴びている。
 しかしそれもせいぜい10分か15分だ。寒くて身体がさらに強張(こわば)ってくるからだ。健康な時にはこんなことはなかったのに……と思いながら、足元から先1メートル程のところに置いた野鳥のエサ台と、鉢の受皿を代用したプラスチック製の水皿を見る。
 エサはすっかり無くなり、水皿のまわりに水が飛び散り、野鳥達が水浴びをしたあとが見える。こんな寒い中でも野鳥達はちゃんと水浴びをするんだ……えらいものだ。 

 二度のコロナウィルスワクチン接種以来、マヒ側の筋肉が一段と硬直して危ない。それに先週の鍼(はり)治療以来この硬直がさらに度を増して、歩くのも辛くなった。加えて寒さが身体を強張らせる。
 入浴を一日一日と日延べしていたが、野鳥達に励まされて入浴を決意。やっとの思いで湯船に浸かり、身体を洗って上がった。筋骨隆々だった身体が、鏡に写った姿はまるで釈迦の断食像を想起させる程あばら骨が浮き出てガリガリだった。80キロあった身体が60キロになり、一時65キロ近くまで戻ったが、今は明らかに60キロ以下だろう。
 それ程極端に食欲がない訳でもないのに、なぜこんなに痩(や)せてしまったのか。癌(がん)に冒されている訳でもない。きっと強烈なシビレから来る痛みと苦しみが、身体のエネルギーを奪い取っているに違いない。中程度の腓(こむら)返りが左マヒ側全体に終日続いている、といえば、いくらか想像がつくだろうか。これが心臓や肺、その他の臓器に負担をかけているのが、自分でも判る。
 しかし静かな思いで辛抱するしかない。いつかピークを迎えるだろう。それまで私の臓器よ、持ち堪(こた)えよ!

 ( 2021.10.31 記す                                                                                                             

                                                                                                                 

2021年11月1日月曜日

 コラム241 <学び、習い、反省す >

  このところ『論語』と最も古い時代の記録とされている仏典『ダンマパダ(法句経) 』と『スッタニパータ』を繰り返し読んでいる。人間が出来ていないことを、病を通じて痛い程教えられたからである。

  一度や二度読んだくらいでは到底学んだとも理解したとも言えず、身体が不自由な身であっても、読み、学び、習い(実行に移し)、反省を繰り返すことで、自分の中の何かが少しずつ変わっていくような気がする。それでも実践できることが限られるから、また苛立つのである。

  現在の脚では半地階の書庫兼書斎まで降りて行けないから、広間のデスクに立てかけてある本を読むしかない。読みたい本が出たら麓にある行きつけの書店に電話をすれば入荷次第、車で30分程かかる山の上まで届けてくれる。ありがたい。皆の協力で今の私の生活は成り立っている。
 本当はいつでもそうなのだ。健康体の時はそのことに気づかないだけだ。 

 その気で見れば、まわりには病に苦しんでいる人が殊の外多い。高齢の人が比較的多いということもあるが、別荘地でも親しくしていた人が毎年1人、2人と欠けてゆく。自然の理(ことわり)とはいえ寂しいことだ。

 一人が病に倒れると家族はじめ、周囲の人達も大変だ。私も計り知れない程、周りの人々の世話になっている。恩返ししたい。でもできない。今の私にできることに何があるだろうかと考える。
 第1に そうした人々を気が萎(な)えないように元気づけること。
 第2に 自分がこれまで読んだ本の中で、今この人のためになるであろうと思われるものを送ること。
 第3に こちらも病中にあるが、極力元気な声を短い時間聞かせて語り合い笑い合うこと。
 第4には 何よりも自分の徳を高めることだ。
これ位しかない。

  私自身は苦しい時も病面(やまいづら)はしないよう、やっと心がけられるようになってきた。つい先日も6人の来客があったが、皆元気そうだと言ってくれた。病面は自分も他人も元気づけない、と判ったからである。しかしそうは言ってもやはり自然体が人間らしくて一番いいな。気負わず、あまりがんばり過ぎないことだ。