コラム232 <物知り>
特に進学のため、資格取得のための勉強の傾向が強くなってそれが長く続いたからなおさらである。「学びの本質は人間をつくり上げるためにあり」と考えれば、血肉化されない知識にどれ程の意味があるのだろう。知る病と書いて痴(おろか)と読ますなど何と絶妙なことだろう。
知らなくていいことを多く知り、人間向上のために知るべきことを知らない、知ろうともしない———こういう傾向が年々強くなっていると感じるのである。
コラム232 <物知り>
コラム231 <わからないことだらけ>
〝君は何という蝉だい?〟
〝ジィッ〟と答えた。
ちょっと目を離しているうちに姿が見えなくなった。襟(えり)のうしろあたりで〝ジジッ、ジジッ〟と最後の鳴き声をあげた。〝ジジイ、ジジイ〟と言っているんじゃないだろうな、もうだいぶ弱っているようだ。お互いに……。
疑問1 蝉は土中で何年もいるという。何を養分にして何年も生きているのだろう?
コラム230 <『近代日本150年』(岩波新書)の読後感>
知足:程々で足るを知るところにこそ平和・平安があるという古(いにしえ)からの真理をどうして人類は悟らないのだろう。不知足とは足ることを知らず、欲が欲を呼んで欲の蟻地獄にあがいても、もう抜け出せない、はい出せない、それがいかに平和に遠いことであったかを上記の本は教えてくれる。決して楽しい本ではないが、皆読まれたらいいと思った。
コラム229 <自慢について>
「自慢」というものはどのようなものであっても快いものではない。過ぎれば時に醜くさえある。自慢している本人はいい気分で書いたり、語ったりしているのだろうが、読み、聞かせられる側には決して心地よく響かない。コラム228 <几帳面なキジ鳩>
数羽のキジ鳩あり。中に一羽几帳面な鳩あり。
几帳面とはエサ台のエサを通常は細いくちばしで飛び散らかしながらつっつき食べるのだが、一羽のみは端から横一列ずつきれいについばみ、エサ台よりとりこぼすとすぐにそれをついばんで、ものの美事に整然と食べる。
キジ鳩に親の躾などあろうはずもないから、これは生来の性格という外ないが、それは見ていて笑いが出るほどだ。美しく食したいものだと、常々心掛けてきた私も、思わず〝いやあ、感心だねえ!〟と声をかける。この鳩は数年前からエサ台に来ているのだけれど、驚くことなかれ最近はこの鳩の連れ合いだろうか、二羽揃って整然と食べている。夫の方が奥方から〝あなた、食べ散らかさずにもっとゆっくり、きれいに食べなさい〟とでも言われたものやら、明らかに一羽が他方に影響を与えている。おもしろし、おもしろし。
PS:(漢文まじりの本を読んだ影響で私の文もそんな調子になった。影響とは知らず知らずの内に及ぶものなりと知る。)