2021年8月30日月曜日

 

コラム232 <物知り>

  秋のものを霧(きり)、春のものを霞(かすみ)、靄(もや)は単にモャ~ッとしているからもやなのではない。霧より見通しがよく、視程1km超のものをいう———山中生活が長いのだ。それ位のことは私だって知ってるぞ!

  何でもよく知っている人がいるものだ。いわゆる〝物知り〟である。その割に人間が出来ていないと感じさせられるのは知り方が知識に偏り、人間理解を深めて自らの人格が風格を増すまでに至らなかったからなのか。

 もっと判りやすくいえば、脳細胞だけは鍛えられたが、それが精神に到(いた)らず、身体化されぬままに来てしまったからなのだろうか。そのことに気づかず物知りのまま生涯を送るとすれば、その溜め込んだ知識は何のためのものであったろうか。私は最近そんなことをよく思うようになった。


 そもそも何のために学び、知るのであろうか。専門家に専門知識が必要なのは当然といえば当然だが、それでも同様の問題があるのではないか。
 特に進学のため、資格取得のための勉強の傾向が強くなってそれが長く続いたからなおさらである。「学びの本質は人間をつくり上げるためにあり」と考えれば、血肉化されない知識にどれ程の意味があるのだろう。知る病と書いて痴(おろか)と読ますなど何と絶妙なことだろう。
 知らなくていいことを多く知り、人間向上のために知るべきことを知らない、知ろうともしない———こういう傾向が年々強くなっていると感じるのである。



2021年8月23日月曜日


 コラム231 <わからないことだらけ>

  デッキに椅子を出し、腰掛けていたら、腕に蝉が止まった。トレーナーの袖を伝って上へ上へと登っていく。小型の夏蝉ではない。油蝉でも勿論ない。羽根が透明なカナカナ蝉に似ているが、それをひとまわり、小さくしたような形をしている。目が合ったので聞いてみた。
 〝君は何という蝉だい?〟
 〝ジィッ〟と答えた。
 ちょっと目を離しているうちに姿が見えなくなった。襟(えり)のうしろあたりで〝ジジッ、ジジッ〟と最後の鳴き声をあげた。〝ジジイ、ジジイ〟と言っているんじゃないだろうな、もうだいぶ弱っているようだ。お互いに……。 

 疑問1 蝉は土中で何年もいるという。何を養分にして何年も生きているのだろう?

 疑問2 蝉は土中に居ながらどのように梅雨明けを知るんだろう?
 疑問3 梅雨が明けた途端に一斉(せい)に鳴き始める。あちらでも、こちらでも、離れたむこうの方でも…… 知らせ合うといっても無線機がある訳でなし、どのような手段で伝え合うのだろう。

  わからないこと、知らないことだらけだ。蝉に聞いてみたいものだと思った。

 白樺の幹に帰してやった。最後の力をふり絞りながら上へ上へと登っていった。天国をめざすかのように……。

2021年8月16日月曜日

 

コラム230 <『近代日本150年』(岩波新書)の読後感>

  山中で上記の本を読んで、読後深い虚無感に襲われた。万物の霊長と言われる人類は天国と地獄のどちらを多く創り出してきたのか?と思われたからである。

  早朝デッキでコールマンの椅子に腰かけ、朝陽を浴びながら心を澄ませば、渓流の音が聞こえる。野鳥の囀(さえず)りが聞こえる。樹間を吹き抜けるかすかな風の音が聞こえる。梅雨が明けて一斉(せい)に鳴き始めた蝉の声が聞こえる。静かな朝だ。一角を白い山法師の花が飾っている豊かな樹々の緑に包まれながら、自然と一体であることを忘れた人類のことを思った。

  私の故郷秋田は摂氏34度、本州最北端の青森ではさらに36度だという。秋田に住んでいる姉は〝地球がすっかりおがしくなってしまったぁ……〟と秋田訛りの言葉で言った。いかなる意味でも人類は地球を傷つけ過ぎた。経済発展のために、軍事・戦争のために、そして今、エネルギー革命の最終章原発のために、その元を繰っていけば結局カネのために大いなる自然と素朴な民衆を犠牲にし続けてきた歴史に突き当たる。巨額の富を手中にした個人・組織・国家……それで得たものは平和であったか?人類にとっての幸福であったか?経済格差社会はこれからも益々深刻度を増していくだろう。その先に待ち受けるものは決して平和ではないだろう。

  人類にとって幸福、平和とはいかなるものによって成立していくのか。巨額の富を手にしながら、幸福とはとてもいえないような人にあなたはこれまで出会ったことはなかったか?かえって幸福から遠ざかった人々、平和・平安から遠ざかった人々は数多くいる。
 知足:程々で足るを知るところにこそ平和・平安があるという古(いにしえ)からの真理をどうして人類は悟らないのだろう。不知足とは足ることを知らず、欲が欲を呼んで欲の蟻地獄にあがいても、もう抜け出せない、はい出せない、それがいかに平和に遠いことであったかを上記の本は教えてくれる。決して楽しい本ではないが、皆読まれたらいいと思った。



2021年8月9日月曜日

 コラム229 <自慢について>

 「自慢」というものはどのようなものであっても快いものではない。過ぎれば時に醜くさえある。自慢している本人はいい気分で書いたり、語ったりしているのだろうが、読み、聞かせられる側には決して心地よく響かない。
 真に偉い人というのは自慢ということはしないものだろうし、自慢したがり屋を出来た人間だと感じる人もいないだろう。しかし残念ながら人間は多く自慢したがるものである。聞いていてなぜそれを快く感じないのだろう。それは己の内にある慢心をさらに着飾って他人に見せようとするからであろうと思う。そんな自慢話より、もっと真に迫った人間の話が聞きたいし、私は住宅を業とする人間だから住宅や生活の美についてもっと肉迫した話を聞きたいものだと思う。
 
「見せびらかす」という言葉がある。大げさ、上から目線、偉(えら)ぶる、高飛車、といった言葉も同じ範中に入る言葉であろう。「自慢」とは自分のことや自分に関係のあることを他人に誇ること(『辞林
21』)とある。これだけなら印象のいいことも悪いこともあるだろう。だが自慢たらしいとなると真実味が無い分、印象を悪くする。少なくともこれまでの日本人の美徳には無かったことだ。74才まで生きてきて、恥ずかしながら私も随分自慢しながら生きてきたように思う。これからの人生は極力自慢無きようありのままを心掛けて生きていこうと思う。人間の浅はかさなど、どうあがいてもすぐ透けて見えるものである。毎日山中で眺めている野の花や樹々たちの素朴さに学んで日本人の美徳というものをもう一度見つめ直してみたいものだと思う。人生をかけて地味に、奥床しく、いぶし銀のような味わいのある存在になりたいものだ。これもまた夢物語か。

2021年8月2日月曜日

 コラム228 <几帳面なキジ鳩>

 数羽のキジ鳩あり。中に一羽几帳面な鳩あり。
 几帳面とはエサ台のエサを通常は細いくちばしで飛び散らかしながらつっつき食べるのだが、一羽のみは端から横一列ずつきれいについばみ、エサ台よりとりこぼすとすぐにそれをついばんで、ものの美事に整然と食べる。
 キジ鳩に親の躾などあろうはずもないから、これは生来の性格という外ないが、それは見ていて笑いが出るほどだ。美しく食したいものだと、常々心掛けてきた私も、思わず〝いやあ、感心だねえ!〟と声をかける。この鳩は数年前からエサ台に来ているのだけれど、驚くことなかれ最近はこの鳩の連れ合いだろうか、二羽揃って整然と食べている。夫の方が奥方から〝あなた、食べ散らかさずにもっとゆっくり、きれいに食べなさい〟とでも言われたものやら、明らかに一羽が他方に影響を与えている。おもしろし、おもしろし。

 PS:(漢文まじりの本を読んだ影響で私の文もそんな調子になった。影響とは知らず知らずの内に及ぶものなりと知る。)