2017年12月25日月曜日

コラム 121  暖炉に火を入れる時 >  

この季節になると、しばしば暖炉に火を入れる。焚き付けは敷地内で拾い集める枯枝で十分だ。
急がず、慌てず、基本通りに細い枝から太いものへと順々に重ねていくのがコツだ。慣れてしまえば何ということもないのだが、細いものでも逸(はや)る気持で一気に重ねて失敗したりもする。そんな作業を繰り返しながら、ふと気付いたことがある。 


最初は新聞紙一枚にマッチ一本である。それがやがて赤々と燃え立つ火となっていくのだが、まわりに火が移り燃え拡がっていくには、それなりの条件が要る。
木と木の透き間である。あり過ぎてもいけないし、少な過ぎてもいけない。適度の透き間が必要なのである。このことは小さな種火がやがて大きな火へと燃え拡がっていく原理を示していて興味深い。 

それ以前に必要なのは、一本一本がそれぞれに燃える状態を保持しているということは言うまでもない。特に燃え始めにはこれが重要だ。
一旦点いてしまえば多少の生木もかえって火勢を増したりするが、初段階では燻るか、周囲の火を消してしまうかのどちらかである。これなど何事も初期には志を共にしたものが寄らなければならないことを思わせて、おもしろい。 

また次のことも学んだ。
燃えている二本の木の間に湿った一本の木を置いては、すでに燃えているものの火勢は急に衰える。同じ湿った木ではあっても、脇に置いてやった方が火が回りやすく、全体に安定して長く燃え続けることも学んだ。
燃える二本は共に近くにあって、炉心となるべきものである。これもまた燃える人間と燃えない人間のあるべき位置関係を思わせて合点のいくことであった。 

〝宇宙は、自然の現象に仮託して人間に事の真理を教える〟という。暖炉の火を眺めながらこの言葉を思い出した。

2017年12月18日月曜日

コラム 120  山の灯りについて

薄暗く寒い陰気な日など、パッと灯りを点けると気分が明るくなる。温度が上がる訳でもないのに、室温が二・三度上がったような気分になる。
灯り――特に白熱灯の灯りはありがたいものだ。人々の心をこれまでどれ程癒してきたことだろう。 

数年前、別荘地内の街灯を白々とした白色蛍光灯から白熱灯色に換えてもらった。標高1600メートルの山中は盛夏の8月でさえストーブが欲しくなる時がある位だし、初秋の10月から翌春5月までの約8ヶ月間は寒い日が続く。厳冬期の1,2月にはマイナス20度を超える日もめずらしくないから、ここに白色蛍光灯ではいかにも寒いのである。
私は別荘地の会に諮(はか)って40年も続いた白色蛍光管を暖かい色のものに換えてもらおうと提案し、了承された。それ以前に管理人さんに頼んで、試験的に一本の通りを白熱灯色に替えてもらっていたのである。たったこれだけのことで、山中の雰囲気はだいぶ変わって人々の心を和ませた。少し暗い感じがすると言う人もあったが、概(おおむ)ね好評であった。
何せ550区画もある別荘地だから、予算のこともあって一気にという訳にはいかない。こうして数年がかりで寒々とした別荘地の山道に、ほっとする灯りが点々と灯った。住民にも訪れる人々にも、心和むものがあるに違いない。 


国は白熱灯の生産を中止させるという。
選択の自由を奪って愚かな施策を強いたものだが、根強いファンが居る限り白熱灯は社会から消えることはないだろう。だが球があっても、器具がない。反旗を翻す生産者はいないものだろうか。

2017年12月11日月曜日

コラム 119  ()まいに美を求めるのは、人間ばかりと思っていたが >  

よく見れば、野鳥の巣にも昆虫の巣にもそれぞれにある種の美が宿っている。作るにも暮らすにもぐちゃぐちゃなんてことはない。
以前雑誌に〝棲むことにおいて美を求めるのは、人間に与えられた摂理であるかもしれない〟などと書いたが、これは違っていた。
野鳥達の巣は美しいではないか、
昆虫達の巣づくりもそれぞれに美しいではないか、
これらは明らかに与えられた摂理と呼ぶべきものである。
一本の苗木を植える。少々形が悪くとも、光を求め光合成を繰り返しながら次第に形を整えてゆく。これとても自然の摂理と呼ぶ外ないだろう。動物、植物の姿形・色彩も美の摂理の範疇にある。 


ハッと気付かされた。
人間は限り無く崇高な美を求めて已まない存在だが、しかしこれ程ごちゃごちゃの中で平気で暮らせるのも、人間だけではないか・・・・・と。

2017年12月4日月曜日

コラム 118  > ――寂びる、侘びる、とは
                                     美をもって 高貴なる友と語り合うことなり―― 

好きな器は、私の友である。
独り食事をする時、この友の存在はどれほど大きいことだろう。
これが気に入りもしない粗末な器であったなら、どんなに無味なことであったろうとしばしば思わせられる。特別贅沢な食材になど恵まれずとも、器の美に慰められる。自然器にふさわしいように美しく盛り付けようとする。うまくいけば用を超え、食材と器と私はようやく一体となる。静かな調和である。 


山中での今晩の食事は、秋田の従姉が送ってくれたオホーツク海産の紅塩鮭、前橋のSさんが送ってくれた田むら屋の味噌漬、それに地元原村産のブロッコリー・・・・・これに白い御飯と味噌汁。
簡素なものである。これをどうでもいい器で食していたのでは、侘びしさこの上無いだろう。だが器達はこの寂しさを忘れさせてくれる。
鮭の紅色には若い頃の宮崎守旦さんが焼いた染付角皿を、
味噌漬の艶やかなベッコウ色には明治印判手浅鉢を、
それにブロッコリーの鮮やかなグリーンには明るい青磁色の中皿を、
といった具合である。
粉引の部類に入るのか、ごはんは角田武さんの白釉のかかった飯椀、味噌汁は本間幸夫さんの朱漆の汁椀、最後は緑茶で締めくくりだ。
特に晩秋、樹々も葉を落とし冬を待つばかりの底冷えの夜など、こんなことでもなければ何とも寂しいものである。気に入った器と共にあることで寂しさが「寂び」となり、美しく感じることによって侘びしさが「侘び」に変わる。こうしてはじめて閑居の情趣を味わうことができる。侘びる、寂びるとはかくの如く一種積極・闊達な心境なのである。