2021年5月31日月曜日

コラム219 <真の批判>

  人を責める時には、自分の胸によく手を当てて、同等の罪を犯してこなかったかをじっくりかみしめることだ。
 〝愛情に裏打ちされなければ真の批判たり得ない〟
 どこかで教えられた言葉である。愛情に裏打ちされていない批判は誰のためにもならず、非難・中傷以上にはならないからである。誇り、自信も一歩間違えれば驕り、高ぶりとなる。多くの人がその罪を犯している。人間となるために生涯努力し続けなければならないと言われるのは、その辺に大きな理由がある。生涯かけて人間に近付かなくて、何に近づこうというのだろう。



2021年5月24日月曜日

 コラム218 <>

  杉を自信をもって使えるようになったのは50才を過ぎてからである、と先に出版した本の中にも書いたような気がする。しかし待てよ。この〝自信をもって〟という表現は言い過ぎだ。正しくはどういうことなのかと自分の心の中でよく咀嚼(そしゃく)して考えてみた。
 ・それまで安心して使える自信が無かったものがどうにか、不安なく使えるようになった……というようなことかな
 ・杉という材を杉に喜んでもらえるような使い方がやっとできるようになった……というようなことかな 

 赤身や柾の良材ならば日本建築、特に数寄屋建築にならそう心配はないが、一般住宅に使えるのは節も時々あり、赤身・白太のまじった俗に源平と呼ばれる並材だ。こうなると構成に厳しさを欠くと、途端に野暮臭い空間となる。これが杉使用の難しさだ。杉だらけのような秋田県湯沢市~横手市で生まれ育った人間がなぜ杉に自信が持てないのか自分でも不思議だったが田舎育ちなのにこの野暮臭さをどこかで嫌っている———さりとて、それを払拭(ふっしょく)するだけの厳しい構成力がいまだ自分に身についていないことを身体は知っていたのだろう……と今にして思う。皆平気で杉を使うが、日本の代表的木材だから当然といってそれで済ませている。私はどうしても杉に魅力を感じることができなかったのは小さい時から見過ぎてきたということもあるのかもしれない。あるいは、私の求めているような杉仕様の美しい木造住宅に出会ってこなかったということもあるのかもしれない。しかし、油断大敵———スタッフは予算や入手のしやすさなどで割と気楽に材種の選択をしているがきっとこの怖さを知らないままだ。私にだってまだまだ自信と呼べるものはない。寸法に対する繊細な感覚、部材のより厳しい美的構成力を鍛え上げなければ「自信」という言葉は使えない、と改めて思った。夢にまでそれが出てきた。


2021年5月17日月曜日

コラム217 <不老長寿と長生き>

 古代エジプトや古代中国などで昔から夢見られたことのひとつに、「不老長寿」というものがある。いわゆる長生きである。短命に終わることは、はかなく、悲しい。まだまだやるべきことがあったと思われるからである。
 だが長寿世界の実現とはいっても、平均年齢300才などということになることをほとんどの人は望まないのではないかと。少なくとも私は望まない。くれるといってもいらない。どんな世界になるか想像するだにおそろしい。生と死の適度の循環がやはり理想というものである。 

数十年前、住まい塾で家を作られた方が久々に本部を訪ねて見えた。住まい塾で主催した屋久島ツアーにも参加したという。
〝あの時は遭難者が出て大変でしたねぇ〟
と想い出を語ったら、
〝その遭難者は私です〟
といって思い出を語りながら笑い合った。

 現在はPPC48というグループに属して活動しているという。
PPC48って何ですか?〟
〝ピンピンコロリフォーティエイト〟といって一人あの世に行かなければ新しい人は入れないのだという。どんなことをしているのかまでは聞かなかった。聞いても仕方がないと思ったからである。



 

2021年5月10日月曜日


コラム216 <古美術屋で>

 会社員風の中年の男がある古美術屋の前を通りかかった。店に入ってすぐの所に抹茶碗が置いてあった。店には耳の遠くなりかけた(本当かどうか知らない)バアさんが一人。
 〝これいくらするんですか?〟
 〝ハァ~?〟
 〝これいくらするんですか!?〟
このバアさんは〝ちょっとお待ちを……〟と言って奥に入って行き、店主らしき人に〝店先にある茶碗、いくらだったかねぇ?〟と聞いた。
 〝萩の茶碗かい?あれは30万円だ〟
という声が客にははっきり聞こえた。バアさんは客の所に戻ってきて
 〝それは10万円だそうです……〟とこたえた。
客はすかさず財布から10万円を取り出して支払いを済ませ、足早に立ち去って行ったという。 

 昔は古美術・骨董屋と銘木屋は値段をつけずに観る眼があるかどうかの試し合いをして、眼がなくて騙されても文句の言われる筋合いはなかったそうだから上記の出来事は店番のバアさんと奥のジイさんの見事な連携プレイの勝利であった。 

 騙されてはじめて鍛えられる鑑賞眼ということもあるから、欲を出さず程々に楽しんでいる分には愉快な世界なのだ。遊んでいるうちに次第、次第に観る眼が養われてくる。私は箱書きや作者の名などにとらわれず、自分が魅かれていいと感じたものだけを買ってきた。だから私の場合、騙されたかどうかさえ判らない。私には行きつけの古美術屋さんが四軒、他地方に行った時に時々立ち寄る店が数軒あったが、長いつき合いの内に色々教えてもらったし、さまざまのものに触れさせてもらった。人間関係も十分楽しませてもらった。長い間には向こうもこちらの好みが判るようになってくる。楽しい談義の想い出も沢山ある。皆、つき合ってくれてありがとう!ありがとう!ありがとう!



2021年5月3日月曜日

 コラム215 <縦割行政>

 

 年度末 工事騒がし テレワーク

      できる訳ない 音聞こえねば

           ———築200年(江戸時代)の商家の住人———