コラム299 <人の苦しみを察せられる人間でありたい>
この5年近く、リハビリ病院での入退院を繰り返している。
最初は二つの病院でそれぞれ3か月と4か月、その後は毎冬1・2月の2か月間、入院してリハビリトレーニングに努めている。
院内ではこれまでさまざまな人に出会った。
やはり一番多いのが脳卒中(脳出血や脳梗塞等)を患った人、それにパーキンソン病の人も意外に多い。その他、肘(ひじ)から先や、膝(ひざ)から下を失った人など様々である。他にも私の知らない、色んな人達がいるのだろう。
入院中廊下ですれ違う人には、゛今日もお互い、がんばりましょうね〟とか〝リハビリがんばりましょう!〟といった程度のことだが、極力声をかけるようにしてきた。言葉が返ってくる人もいれば、表情で返してくれる人もいる。
人それぞれに辛さが違うから、〝病の辛さ・苦しみというのは、なった人でないと分からないものですね〟という意見には皆同感する。お医者さん曰(いわ)く、〝我々も判ったような顔してるけど、患者さんの苦しみというのは、本当のところ分からないんですよ〟。 こんな気楽に話せるお医者さんに担当してもらえてうれしかった。その内、一人一人の苦しみや辛さが本人のように解(わか)っていたら、医師は勤まらないな、神さまがそのようにつくって下さっているのだ、と思うようになった。
それでもさぞかし辛いだろうなあ・・・と思わせられる人にしばしば出会う。そんな時には分からないまでも、人の辛さや苦しみを察することのできる人間になりたいものだと感じるようになった。それは身体の苦しみばかりでなく、ちょっとした表情の変化に心の苦しみを読み取る力に通じていくであろうからである。しかし人の辛さ、苦しみ、心の悲しみを察するのはなかなか困難なものだということを、身に沁みて感じるようになった。
脳卒中の後遺症に苦しんでいる人はしばしば長い時間座っていられないと言う。私もその一人である。腰から尻にかけて耐え難く苦しくなってくる。それ故車で送迎してくれると言われても、コンサートなどには、どうしても足が遠のくことになるのである。
電話を受けたり、電話会議をしたりする時も同様である。
以前は限界が2時間位であったが、3回のコロナワクチン接種後どこがどうなったのか、左半身の筋肉がひきつれ、硬直を起こしてこの限界が、1時間程になった。
このことを電話に出た時、相手に告げるのだけれど、告げられた方は電話に出た時から1時間と理解するらしい。しかし、それ以前から座っていて、電話に出た時にはすでに限界状態を迎えているかもしれないではないか。私の見るところ、会議の途中でも気遣いを見せてくれる人はなかなか居ない。
経験がある程度無いと、察することは愚か、想像すらできないものなのだろう。
病人を病室に見舞う時には短めに、と言われる意味が、今の私にはよく解る。察するというのはその人の身になって感じるということであって、口で云うのは簡単だけれど、身につくまでには気がつく、気を使う、気を配る、といったことと相俟(あいま)って小さい時からの躾も含めて、長い経験の積み重ねを必要とするものなのだろうと思う。
察するにも深浅あり、である。