2017年7月31日月曜日

コラム 100  「戦争」以前に「喧嘩」は無くなるのか? その①> 

野鳥の世界も、野生動物の世界も、皆もっと仲よくすればいいようなものなのに、やはりケンカが絶えません。エサの奪い合い、雌(雄?)の奪い合い、縄張り争い、それによく見ているとそうした理由ばかりでなく、どうも相性の問題もあるようです。犬猫の仲に至ってはどちらが正しいとも、まちがっているとも言えないし・・・・・。
あれは何なんでしょうね。鳴き声が嫌いとか、臭いが嫌いとかいうことなんでしょうか。 


人間にだってありますね。どうも好かない、肌が合わない、鳥でもないのに顔を見ただけで鳥肌が立つとか。そばに来ただけで気分が悪い、さらにひどくなれば、虫唾(むしず)が走るなんて表現する人もいますね。
ですから高尚な問題より先にまずケンカのこと、相性のことを考えると、残念ながら戦争を無くすという夢は絶望的に思えてきます。
これは天から与えられた摂理のようなもの――その摂理を動物は超えられなくとも万物の霊長(と言っていいかどうか・・・・・)たる人間には超えられるかもしれないというのでしょうか。これとて地上の人間の常日頃の挙動を見れば、そんな理想はとても抱けない、と思えてきます。
都会の車内では朝からイライラして、爆発寸前のような顔をしている人をよく見かけますし、昨夜もカバンを強く引いたの、コンチクショウ!とばかりに足を踏みつけたらしく、車内で大喧嘩をしていました。 

「喧嘩」が絶えないのに「戦争」が絶えるはずもありません。そんな単純な話じゃないって?でも規模が違うだけで、あれは国家規模の、民族間の、あるいは宗教・宗派間の喧嘩なんでしょう?
人類の歴史が何千年、何万年あるのか私は知りませんが、規模の大小を問わずこれまでどれほどの戦さを繰り返してきたことか。どれほどの悲劇と悲惨を経験しても人間は懲りないんですね。記憶が薄れ、忘れた頃にまたやらかす――反省が引き継がれていくってそれほどむずかしいことなんでしょう。懲りた世代がこの世を去って、懲りない世代がやってくる・・・・・。どうしたらいいんでしょうか。

2017年7月24日月曜日

コラム 99  二羽のスズメ  

6月下旬のある日、山梨県塩山市牧丘町の工事現場に向かった。勝沼インターで降り、2号線を左折してフルーツラインに入る。それからは山の中腹を走って牧丘町まで一本道だ。
この季節はさくらんぼが最盛期を迎えていたが、のどかで見晴らしのいい桃やぶどうの畑が広がって、牧丘町辺りまで行くと山の斜面のあちこちにピンクや黄色の樹花が散りばめられ、さながら桃源郷といった風情だ。時々車がすれ違う程度で交通量も少ない。 

ここでの仕事を終え、昼には皆でうまい蕎麦を食べた。
帰途運転しながらすぐにうとうとし始めたのは寝不足のせいもあったが、そればかりではなく、こののんびりとした風景のせいでもあった。
が、突然眼が覚めた。路上に車輪につぶされてペッタンコになった一羽のスズメと、その脇にその場を離れようとしないもう一羽のスズメがいたからだった。急ハンドルを切って幸い轢()かずに済んだが、動こうともしなかったあのスズメは一体何だったのか。
あれは石ころ二つだったのかもしれない・・・・・そう思い直そうとした。だがいや、たしかに二羽のスズメだった。しかし、そんなことがあるだろうか。 

山中に年の半分以上を暮らす私には不思議な体験がある。窓ガラスに強く当たって番(つが)いの一方を亡くし、その場を離れようとせずに暗くなるまで悲しい声をあげて鳴き続けていたウソ。さらに驚いたことに翌朝残された一羽が同じ場所に同じ姿で死んでいた。後追い自殺だと思った。シダの葉を敷き、青葉を飾って二羽を同じ場所に弔(とむら)った。
後日、そんな事情など何も知らない仏画師の安達原玄さんはその脇を通った時、〝あれっ?今二羽の小鳥が目の前を飛んだのに、姿が見えない・・・・・この辺に何かあった?〟と私に聞いた。明らかに霊の視える人であった。


またこんなこともあった。何が起きたか判らないが、樹の葉陰に止まって何日も動かぬ一羽のキジバトがいた。強い雨の中でもじっとそこに留まり続けた。いつもはエサ台にやってくるのだが、エサを食べようともせず、日に日にやせ細っていくのがこの目にも明らかだった。
もう飛べぬのではないかと心配した私は、すぐ傍まで近づいて声をかけた。少し体をふるわせたかと思ったらやっと羽ばたいて飛んでいったのだが、あれはきっと番(つが)いの一方をテンかキツネにやられたものに違いないと私は確信した。あんな姿はこれまで初めて見たからだ。
そんなこともあって、私にはあの二つの固まりが単なる石ころであったとは思えないのだった。

2017年7月17日月曜日

コラム 98  野生動物の肥満なんて、見たことが無い  

標高1600メートル付近で年の半分以上を過ごしていると、幾種類もの野生動物に出会う。だが、食べ過ぎて肥満になった動物なんて、少なくとも私はこれまで一度も見たことが無い。シカ、カモシカ、イノシシ、キツネ、テン、タヌキ・・・・・皆ひきしまっている。
一般に厳しいと云われる自然ではあっても、季節によっては食べようと思えば必要以上に食べられる時期もあるだろうし、食っては寝、寝ては食って運動不足に陥るなんてことも考えられなくはない。しかし野生の原理とはその辺、バランスのいい適量を感知出来るようになっているものなのだろう。 

肥満となって動きが緩慢になっている動物となると、きまって飼育されている動物だ。食べ過ぎと運動不足が主たる原因だ。
紛れもなく動物の一種族である人類は、文明国家のことであろうと思うが、今や三分の二が肥満だという。
こうしてみると、人間はすでに野生を遠く離れて、誰にともなく飼育されている動物となった、と見ることが出来る。文明国家危うし!

2017年7月10日月曜日

コラム 97  ミソサザイのミーちゃん  

早朝から艶やかな美しい声でミソサザイが鳴く。透き通るような囀りだ。 

〝ミーちゃん、うまくなったねえ・・・・・!!〟 

すると、ますますさかんに鳴く。 

〝あぁ、きれい、きれい・・・・・きれいだねえ・・・・・!〟 

するとすぐ目の前の窓台にまでやって来て、しきりに鳴く。
余程うれしいのだろう。

2017年7月3日月曜日

コラム 96  細い枯枝 風まかせ  

細い枯枝がハシバミの枝の先にぶら下がっている。先月来た時からだから、もう一ヶ月以上にもなる。右の指一本で軽々とつかまって、ふわりふわりと風に揺れ、右に左に回転している。がんばっている風でもなく、どこか楽しげだ。 

双眼鏡 Nikon 7×21 7.1°614320 ―― この数字が何を意味しているのか私にはさっぱり判らない。解像力抜群、きわめて高性能だ。最後の数字は製造番号だろう。それ位は私にも判る。
これでおもむろに覗いてみるが、指先がどうなっているのかまではやっぱり判らない。脚立を掛けて、とも思ったがそこまですることもあるまい、無粋なことだと思われ、かつかの枯枝もそんなことは望まないだろうと思われて止めた。 


、フ 、スイーツ、スイーツ・・・・・まるで空中で踊っているかのようだ。
それにしても不思議なのだ。この一ヶ月の間には風の強い日もあっただろうし、雨の日もあったに違いない。それなのにどうして落ちないのか?
私には風まかせ、あなたまかせの、他に委ね切った姿が、次第にこの上なく清々しいものに思われてきた。 

私は思わず聞いてみた。
〝いつまでそこにぶら下がっているつもりなの?〟
答えはこうであった。
〝落ちたくなったらね・・・・・〟