2020年7月6日月曜日


コラム172 <知ること>と<身につくこと>———知識と実践②

 知ることは身につくことの始まりだというけれど、孔子も釈迦も「知ってやらない」ことを「知らずにやらない」ことよりも下に置く。おそらく、キリスト教でも同じように教えるのではないか。知って終わりでは知らぬと同然、ほとんど意味を為さない。このことを皆はどう考えるだろうか?
 知らないよりはましだと考える人もいるだろう。だが、孔子も釈迦もキリストも、なぜこれを逆転して教えたのか。数千年前からの教えである。知っていることをどれ程多く実践できないままできたか、と考えると愕然とするが、元々「知る」という行為は実践するために、学び、知り、反省する———その繰り返しの上にはじめて、じわりじわりと身についていくのである。自分の経験からしても生半可な覚悟では成らぬものだと知った。反省に反省を加え、さらに反省、反省、反省を100回繰り返してもまだ身につかぬ。気性、性格、さらに人間の出来具合ともなると、これはもう覚悟を伴った修行・精進の域である。溜息が出ても、なお諦めずにチャレンジする。「諦観の念」とは、〝あ~あ、もうや~めた!〟といった簡単な境地ではなく、諦めてもなお、明らめるところまで諦めないでいく。そのプロセスを悟りへの境地に近づいていくことになるのだそうだ。繰り返し、繰り返し、あきらめずに、繰り返す——つまり反省によって知り得たことを身につけていく人生。
 これが最上の人生というものではないだろうか。