2023年8月28日月曜日

 コラム336 <初めて出会ったヤマネ君> 


 年の半分を山に住むようになってから約40年、写真集や近くの人の話では何回も見たり聞いたりしているヤマネ君。念願かなって今年7月、初めて出会う事が出来ました。

 山の小ネズミ達もかわいいものです。全体に茶系、腹の辺りが白。とても小さく、あまり人間を怖れる気配もなく、デッキに出している折り畳み式椅子のキャンパス地の中にもぐったり、ひょっこり顔を出したりする姿は実に愛くるしいものです。私が本を読んでいると手すりづたいにテーブルに乗ってきたり、慣れてくると手からヒマワリのエサを食べたりします。色といい、小さな体躯といい、すばしっこい挙動といい、一冊の絵本でも書けそうな程それはそれはかわいいものです。


 この小ネズミ達にはこれまで幾度も出会ってだいぶ仲良しになりましたが、ヤマネにだけは一度も出会ったことが無かったのです。

 小ネズミよりさらに小さく、茶系の毛に背中から長い尾先まで黒っぽい線が一筋入っていて、ネズミというよりリスのミニチュアと呼ぶに近い印象です。洗面所の扉の裏に居て、下のすき間から尾先だけチョロチョロ顔を出すのです。

 中に入ったら桧風呂の縁(ふち)を伝い、窓から飛び出ようとして何度も何度も跳ねるのですが、ガラスに阻(はば)まれて外に出られないのです。


 押し倒し窓を少し開けて、出やすいように風呂の桧の蓋(ふた)を橋渡しにかけておいたら、やっと外に飛び落ちるようにポトリと音を立てて出ていきました。ホッとしました。

 ヤマネは山鼠と書きますが、冬眠鼠とも云うようです。明らかに小ネズミとは別種です。冬は冬眠するのです。雪の中で丸まって眠っている姿の愛らしさは格別です。


 ここに載せてあるのは私が撮ったいたずらっ子の小ネズミ達です。残念ながらヤマネの写真が無いので、何かで見て下さい。かわいいですよ。

 






2023年8月21日月曜日

 コラム335 <野生種・天然ものと人間> 


 草花にも野生種と栽培種がある。

 茸にも天然ものと人工栽培物がある。

 さて人間はどうなっているのか?


 最近私は、人間の多くが野生種・天然ものから次第に離れて、見た目には人間のようでも、何か得体の知れない人工栽培もの・栽培種に向かっていっているのではないか、いやすでにそうなっていると思われて仕方がないのである。


 縄文・弥生時代の人種とは徐々に違ってきたのはいたって自然なこととして、こと近代・現代になって急速にこの野生・天然即ち種としての自然が遺伝子操作を受けたかの如くに変異してきたのである。





 私はこういう事態を薄気味悪い思いで感じ取っている。野生種の血を引く天然ものの人種の行きつく先は・・・というよりも行きつかぬまま破滅すると予感する。人間が人間として夢を描ける時代は過ぎ去ったのだ。今は天の意志でも制御できない得体の知れない何か見えない力に引きずられるように、自走し始めたのである。


 人間よ、自然を取り戻せ!

 人間よ、野生を取り戻せ!

という声は天空の彼方に空しく吸い込まれていく。

 これが最近の私の実感である。


2023年8月14日月曜日

 コラム334 <ケータイ・スマホの蟻地獄②>


 私の現在の山小屋生活は以前とは違い、予想以上に忙しい。

 週二回の訪問マッサージ

 週二回の訪問リハビリ

 週一回の特殊施術

 その他時々の通院、来客、電話会議、等々・・・。以前のようには出来ないが、出来る範囲で仕事もしている。毎月曜のブログ(コラム)〈──信州八ヶ岳──高橋修一の山中日誌〉も書き続けている。


 今山小屋に来て痛感しているのは上記のようなことも多忙の一因ではあるがケータイを持った後、私の電話生活がどう変わったかということだ。以前の固定電話時代に較べると、少なくとも3倍どころでない。5倍は慌(あわただ)しいことになったということだ。

 倒れるまでの5年前までの山小屋生活では電話などめったにかかってこなかった。それが今は一日どれ位掛かってくるだろう。こちらからかける回数も確実に増えた。それに加えて私にはよく判らない無用の電話やショートメールやらが飛び込んでくる。私はメールはやらない、私にとってメールは気が〝滅入る〟以外の何ものでもない、としょっちゅう言っているのにである。


 固定電話時代にはNTTコミュニケーションズの営業電話位はかかってきたが、夜の9時過ぎまでかかってくるようなことがあってその非常識ぶりを一喝して以来来なくなった。

 〝電話帳に載せていないのに、あなたはどこで私の電話番号を入手するのか?NTTの職権乱用というものではないか⁈〟

むこうは

 〝私は回ってきたリストを見ながら電話しているだけですから・・・〟

というが、こういう時の私は追及の手をゆるめない。

 〝それはどこから回ってきたのか⁈〟

むこうは

 〝・・・失礼しました〟

と言ったきり電話を切ってしまった。以来その手の電話はかかってこなくなった。

 だがケータイ・スマホの類は誰から来たのか、どんな内容の用件なのか、電話なのか、メールなのか、それとも何か他のものなのか皆目判らないものも多い。スタッフのアドバイスで、そういうものは相手にしないで放っておいて下さいというからそうしているが、特別用も無いのにかかってくること自体がうっとうしい。怒鳴ってやりたいところだが、それもできないから余計に腹が立つ。





 ケータイ・スマホは私には皆飲み込まれてゆくあの蟻地獄に見える。便利は程々にしておかないと、知らぬうちに天国行きのつもりが地獄行きの列車に乗り込んでいるのかもしれないのだ。文明の行き過ぎは人類の崩壊、文化の崩壊に繋がるのは歴史の証明するところである。


2023年8月7日月曜日

 コラム333 <ケータイ・スマホの蟻地獄①> 


 八ヶ岳山中ではヘルパーさんが土曜・日曜もなく毎日夕食づくりに来てくれる。標高1600メートルのこんな山の上まで、雨の日も風の日もイヤな顔ひとつせず元気にやって来てくれる。左半身マヒの私の日常生活は、もしもこういう人達がいてくれなければ、大きな困難を伴うことになる。

 夕食づくりばかりではない。買物、掃除、洗濯、ゴミ捨て、重いものの移動等々、てきぱきとやってくれ感謝しかないのだが、ひとつだけ気になっていることがある。ヘルパーとして滞在している4時から5時半までの1時間半の間に、この静寂な山小屋の中で、〝チロン〟〝チロリン〟〝チロン〟・・・とスマホがしばしば音を立てるのである。しょっちゅう鳴るから、あの音は何ですか?、と聞いてみたらラインだという。グループラインというものをしているから色んな人からのメッセージが入ってくるのだそうだ。自分に関係のない無駄なことも多いだろうにこういう傾向が私にはたまらないのだが、このヘルパーさんは何ら気にする様子もない。仲間で情報共有することが、そんなにありがたいことなのか。それも無料だというのだからなお始末が悪い。スマホがどれ程便利なものかは私だって大体は知っている。一方で人間の思考能力は減退し、文字も読めない、書けない───文章能力も相当に衰えていると思って間違いない、第一直筆が全滅気味だ。





 私はケータイを持たないと決めていた。皆持っているから用のある時には頼めばいい位の感覚でいた。そんな勝手な!と言うかもしれないが、そんな程度のことは勝手でいいのである。

 一人の時何かあったらどうするのか、などと心配し始めたらキリがない。大勢の時でも起きる時は起きるのだ。それ位の覚悟は出来ている。


 だがこうして続けてきた私の生活に異変が起きた。5年前の脳出血である。長期入院生活を余儀なくされ、新型コロナの影響も手伝って、誰とも会えない、外部との通信手段を失ってしまったのである。玄関脇に公衆電話があるとはいうものの、こちらは車椅子だし、玄関までが遠い。しかも10円玉専用の電話機ときている。左半身が殆ど動かない人間にどうやって使えというのか。


 こうしてついにケータイを持たざるを得なくなったのである。私のケータイはガラパゴスケータイで、私は掛ける受けるの機能しか使わない。それからどうなったか、あれから5年、今山小屋に来て初めてその変化ぶりを痛感しているのである。(次号に続く)