2025年6月16日月曜日

 コラム422 <馬場邦夫は不死身です!その②> 


 馬場さんは元々ヘアデザイナーであったらしいが、その面での付き合いは勿論無かったが、恢復後は何事もなかったように生活を続けているのは大したものだ。奥さんの明美さんの話では〝あの人はこれまでずっと見てきて、自分の現状を受け入れて、苦しい、苦しい、と言ったり、これから先に不安を抱くというようなことのない性格のようね〟との評価だ。人間だから内心そんなことばかりでもないだろうが、それだけ人間がしなやかに出来ているということなのだろう。「和顔施」という言葉を想い浮かべた。彼はいつもにこにこしている。この話を私の連れ合いに話したら、〝あなたも見習いなさい!〟と逆に、カウンターパンチを食らった。

 それにしても半身マヒと視床痛に苦しみはじめ、新型コロナワクチンの副作用に加えて、昨年8月の最先端治療Ⓐの後遺症、今年2月の最先端治療Ⓑの後遺症に計7年間も終日苦しみ続けてくると、さすがにバテ気味だ。


 その時に思うのが馬場さんの上記の言葉である。〝苦しい、苦しいとばかり言っていてもまわりの人も自分も幸せにしないわよ!〟これも連れ合いの言葉である。ごもっともである。以来〝調子はどうですか?〟と人に聞かれる度に馬場さんにあやかって


 〝高橋修一は不死身です!〟

 

 正しくは〝高橋修一は死ぬまで不死身です!〟かな・・・当り前じゃないか!


と言うことにしている(時々・・・)。

 

 考えてみれば私の住んでいる八ヶ岳は美濃戸高原といい富士見高原に山連なりに隣接している。それを「不死身高原」のとなりに住んでいるのだ、と思うようにして気合いを入れている。世話になっている沢山の人々への感謝の祈りと共に・・・。充電池の電気が残り少ないので、今日はこの辺で・・・。







2025年6月9日月曜日

 コラム421 <馬場邦男は不死身です!その①> 


 馬場さんとは八ヶ岳の別荘仲間である。何をやっても様になり、カッコよかった。バンジョウを弾き、トヨタの黄色のランドクルーザーに乗り、オートバイを乗り廻し、黒いドーベルマンのような犬と共に散歩して歩く姿も様になっていた。

 

 その馬場さんがオートバイでカーブにさしかかって、左側にバンク(傾けてヒザを広げる)したその時、対向車のダンプが突然現れて接触し、左ヒザの骨を砕いた。粉砕骨折だった。(幸いにもヒザそのものをはずれて少し下部だったらしい。)その勢いで飛ばされたのだろう。ヘルメットは割れ、脳挫傷にまで及んでいたと云う。

 その話を聞いた時、再起不能と思われたが、諏訪の日赤病院で月に4度の手術を受け、5か月間の入院、続いて回復期半年間の車椅子を使いながらのリハビリ、その間もその後も自主トレに努めたに違いない。そうした経過を経て見事、退院してきた時に届いたのが上記一行文のカードであった。このように何をやってもスマートだった。






2025年5月26日月曜日

 コラム420 <ブログ再開のお知らせ> 



 二ヶ月程休んでしまいましたが

 6月9日(月)から再スタートします。

 毎回楽しみにしてくれていた皆さん、ありがとうございます。再開を待ってくれていた皆さん、重ねて御礼申し上げます。 

                                       高橋






2025年4月7日月曜日

  <マンデー毎日 (ブログお休みします)> 


 毎週月曜日に続けてきました「── 信州八ヶ岳── 高橋修一の『山中日誌』」ですが、筆者体調不良につき、1か月ほどお休みします。

 また書けるようになり次第、復活いたしますので、しばしお待ちください。

 


2025年3月31日月曜日

 コラム419 <人間の涙> 


 人間の涙は、時に何よりも美しいと私は思っている。悲しみの涙だけではない。涙にも色々ある。切ない涙、同情の涙も無念の涙も、こみあげてくる感動の涙も、相手の心中を思いやっての涙も・・・。


 すべての動物の中で最も残酷なのは人間だと思えることもあるが、やはり人間の心の中には最も美しいものが潜んでいる。それは涙というものだ。そう信じなければ、真には生きていけないものと思う。苦しみの中にある人の心を察するあたたかい涙。ステファン・グラッペリというジャズヴァイオリニストは、よく涙を流す人であったというが、人間と同様、演奏もあたたかかった。その源泉はあたたかい心であったろうと思う。時々もらい泣きすることもあるが、源泉は同じくあたたかい心。

 そういう意味では人間の心は劣化し続けている。この問題をどうしていくかは高度に文明化した国々の最大の課題と思う。IT化の進む国々、際限なく技術革新を続ける国々、経済発展をとめどなく進めていく国々などは人間の心の問題をどのように考えているのだろう。


 敗者の心中に思いを致し、勝ち誇る態度を慎む惻隠(そくいん)の情などは何と日本的な心なのだろうと思う。これが今や武芸などにおいても全く損なわれている。

 地球の地下水位も水質も低下し続けているのと同じように人間の涙の水位も質も年々低下し続けているのではないか。新Vロート位では、とても間に合わない。






2025年3月24日月曜日

 コラム418 < 父の想い出と後悔  ②> 


 私が病室に入った時には気丈な父の命ももう最後であると一見して判った。苦しそうに息を吸っても吸っても、肺が固くなっていて吸収しないのだから、苦しかったろうと思う。今思えば苦しんでいる父の手を握って〝もう十分苦しんだのだから、これ以上がんばらなくていいよ〟とでも言ってやったらさぞかし父も安らいだろうに、と思えて、これが父への大きな悔いである。最後のモルヒネを打ってからは、ローソクの火が消えるように父の命もス、ス、ス、ス、ス-ッと消えていった。

 〝修ちゃん(姉達も親戚の人達も私のことを未だにこう呼ぶ)が来るまで父さん待っていたんだぁ〟と言われたその通りの最後であった。未だに写真に手を合わせる時、この時の手を握ってやれなかったことを謝っている。




2025年3月17日月曜日

 コラム417 <  父の想い出と後悔 ①> 


 私は1947年、秋田県湯沢市に生を受けた。小学校3年の夏までその地で育った。父は明治時代に祖父が始めた写真館を本家の長男である伯父(父の兄)と二人で引き継いだが、伯父は議員をしていたから、実質的には父が中心であったようだ。

 休みの日には町内の子ども達共々、山に絵を描きに連れていってくれた。詳しい記憶は薄れているが、湯沢市の七夕には毎年、大きな絵灯篭(とうろう)を写場で描いていた姿を記憶しているから絵は上手だったのだろう。先祖には画家もいるから、その血を引いていたのだろう。


 そんなことより、体格は大きい方ではなかったが腕っ節は強かった。親しい来客があれば、よく腕相撲をしたがった。たしかに私が高校2年の国体やインターハイに出ていた頃でも適わなかった。何でくらったか覚えていないがその時のゲンコツがごつかった。その感触は今でも何となく覚えている。

 私は柔道もやっていたからさすがに体力が私の方が勝るようになって、第二次反抗期の時、取っ組み合いとなって部屋の隅まで投げ飛ばした時〝あぁ、やってはいけないことをしてしまったな・・・〟と思った。その時が私の反抗期の終焉(しゅうえん)であった。この父も私が住まい塾をスタートして第一棟目の完成見学会の日に危篤に陥り、急ぎ秋田の病院に着いた時にはもう最後の息をしていた。まわりの人達には〝あんたが着くまで待ってたんだぁ・・・〟と言われたのを記憶している。

 病名は『肺繊維症』:息を吸っても吸っても酸素が吸収されない病だった。〝炭鉱にでもいたことがありますか?〟と医師に聞かれたが写真館一筋なのでそんなことは全く無かった。長いこと町内で「走ろう会」を続けてきて70才頃には世界高齢マラソンに出た程であった。〝70才を越えると急に駄目になるもんだなあ〟と言い始めたのが病の始まりだったのだろう。

 亡くなって後に判明した。後に石綿公害と呼ばれるようになったあれであった。暗室には数種の液体がホーローのバットに入って並べられていたがその薬品前の壁に張られていた石綿スレート板が化学反応を起こしてブファブファだったのだ。石綿の繊維が空中に飛び散るのを暗室だったために長い間気付かずに仕事を続けてきたせいだった。酸素が吸収されないとはひどく苦しいことである、と別の医師から後で知らされた。