2025年6月30日月曜日

 コラム424 <お金が無くとも豊かに暮らせる方法> 


 それは生活感覚を磨くことだ。そこから生まれる生活も豊かになるだろうし、生活感覚を磨くプロセスそのものを楽しむことさえできる。


 〝一輪の花の命

  一枝の花の真実(まこと)〟


 私はこの言葉が好きだ。京都のある寺の御住職の言葉である。

 なかなか解決困難な社会の貧困・苦しみもあるが、そうした例外を除いては大方上記のことは可能だろう。


 金・金・金 ─── 金だけが生活を豊かにするなどと盲想するなかれ、金が山ほどあっても、生涯使いきれぬ程ため込んでも、生活が貧しい人もいる。貧しい人はどこまで行っても貧しいものだ。人間の貧しさは金では解決しない。


 最近の日本を見ていて、特にこのことを思う。日本ばかりでなく経済的に発展した国と民族に共通して云えることだ。

 小学校から株式やらなにやら投資のやり方を教えるなど、愚かな国家方針の尻馬に乗ってはならない。国は国民を金稼ぎ(即ち多額納税者)のロボットとでも思っているのだろうか⁉荒(すさ)み始めたこの国の、人間の問題をどうしようというのだろう。人間に与えられた生涯の第一義はどこにあると考えているのだろうか?







2025年6月23日月曜日

 コラム423 <花を愛する人は・・・> 


 〝花を愛する人は、心優しき人なり

  野の花を愛する人は、なお一層心優しき人なり〟


 〝茶を入れるは、心を入れることなり。

  ペットボトルにどうやって心が入れられようか?〟

 

 6月初旬の高原は萌黄色の若葉の新緑とオレンジ色のレンゲツツジをもって出迎えてくれた。心鎮まって、すぐに浮かんだのが上記の二つの言葉である。山小屋に着いたら待ちわびていたかのようにまもなくアトリとキジバトがやってきた。


 〝今年は随分遅かったじゃない?

  苦痛に伏しているかと心配していたよ〟


と云わんばかりに・・・。






2025年6月16日月曜日

 コラム422 <馬場邦夫は不死身です!その②> 


 馬場さんは元々ヘアデザイナーであったらしいが、その面での付き合いは勿論無かったが、恢復後は何事もなかったように生活を続けているのは大したものだ。奥さんの明美さんの話では〝あの人はこれまでずっと見てきて、自分の現状を受け入れて、苦しい、苦しい、と言ったり、これから先に不安を抱くというようなことのない性格のようね〟との評価だ。人間だから内心そんなことばかりでもないだろうが、それだけ人間がしなやかに出来ているということなのだろう。「和顔施」という言葉を想い浮かべた。彼はいつもにこにこしている。この話を私の連れ合いに話したら、〝あなたも見習いなさい!〟と逆に、カウンターパンチを食らった。

 それにしても半身マヒと視床痛に苦しみはじめ、新型コロナワクチンの副作用に加えて、昨年8月の最先端治療Ⓐの後遺症、今年2月の最先端治療Ⓑの後遺症に計7年間も終日苦しみ続けてくると、さすがにバテ気味だ。


 その時に思うのが馬場さんの上記の言葉である。〝苦しい、苦しいとばかり言っていてもまわりの人も自分も幸せにしないわよ!〟これも連れ合いの言葉である。ごもっともである。以来〝調子はどうですか?〟と人に聞かれる度に馬場さんにあやかって


 〝高橋修一は不死身です!〟

 

 正しくは〝高橋修一は死ぬまで不死身です!〟かな・・・当り前じゃないか!


と言うことにしている(時々・・・)。

 

 考えてみれば私の住んでいる八ヶ岳は美濃戸高原といい富士見高原に山連なりに隣接している。それを「不死身高原」のとなりに住んでいるのだ、と思うようにして気合いを入れている。世話になっている沢山の人々への感謝の祈りと共に・・・。充電池の電気が残り少ないので、今日はこの辺で・・・。









2025年6月9日月曜日

 コラム421 <馬場邦男は不死身です!その①> 


 馬場さんとは八ヶ岳の別荘仲間である。何をやっても様になり、カッコよかった。バンジョウを弾き、トヨタの黄色のランドクルーザーに乗り、オートバイを乗り廻し、黒いドーベルマンのような犬と共に散歩して歩く姿も様になっていた。

 

 その馬場さんがオートバイでカーブにさしかかって、左側にバンク(傾けてヒザを広げる)したその時、対向車のダンプが突然現れて接触し、左ヒザの骨を砕いた。粉砕骨折だった。(幸いにもヒザそのものをはずれて少し下部だったらしい。)その勢いで飛ばされたのだろう。ヘルメットは割れ、脳挫傷にまで及んでいたと云う。

 その話を聞いた時、再起不能と思われたが、諏訪の日赤病院で月に4度の手術を受け、5か月間の入院、続いて回復期半年間の車椅子を使いながらのリハビリ、その間もその後も自主トレに努めたに違いない。そうした経過を経て見事、退院してきた時に届いたのが上記一行文のカードであった。このように何をやってもスマートだった。






2025年5月26日月曜日

 コラム420 <ブログ再開のお知らせ> 



 二ヶ月程休んでしまいましたが

 6月9日(月)から再スタートします。

 毎回楽しみにしてくれていた皆さん、ありがとうございます。再開を待ってくれていた皆さん、重ねて御礼申し上げます。 

                                       高橋






2025年4月7日月曜日

  <マンデー毎日 (ブログお休みします)> 


 毎週月曜日に続けてきました「── 信州八ヶ岳── 高橋修一の『山中日誌』」ですが、筆者体調不良につき、1か月ほどお休みします。

 また書けるようになり次第、復活いたしますので、しばしお待ちください。

 


2025年3月31日月曜日

 コラム419 <人間の涙> 


 人間の涙は、時に何よりも美しいと私は思っている。悲しみの涙だけではない。涙にも色々ある。切ない涙、同情の涙も無念の涙も、こみあげてくる感動の涙も、相手の心中を思いやっての涙も・・・。


 すべての動物の中で最も残酷なのは人間だと思えることもあるが、やはり人間の心の中には最も美しいものが潜んでいる。それは涙というものだ。そう信じなければ、真には生きていけないものと思う。苦しみの中にある人の心を察するあたたかい涙。ステファン・グラッペリというジャズヴァイオリニストは、よく涙を流す人であったというが、人間と同様、演奏もあたたかかった。その源泉はあたたかい心であったろうと思う。時々もらい泣きすることもあるが、源泉は同じくあたたかい心。

 そういう意味では人間の心は劣化し続けている。この問題をどうしていくかは高度に文明化した国々の最大の課題と思う。IT化の進む国々、際限なく技術革新を続ける国々、経済発展をとめどなく進めていく国々などは人間の心の問題をどのように考えているのだろう。


 敗者の心中に思いを致し、勝ち誇る態度を慎む惻隠(そくいん)の情などは何と日本的な心なのだろうと思う。これが今や武芸などにおいても全く損なわれている。

 地球の地下水位も水質も低下し続けているのと同じように人間の涙の水位も質も年々低下し続けているのではないか。新Vロート位では、とても間に合わない。