2023年10月2日月曜日

 コラム341 <当たり前なことで時を刻む> 


 起きるべき時間に起き

 眠るべき時間に眠る

 食べるべき時間に食べ

 学ぶべき時に学び

 やるべき時にやるべきことをやる

 

 掃除を怠らず

 床に就く前には、一日への感謝の念と一日の反省を心の清掃と心得て忘れないよう心掛ける。

 健康とは当たり前のことを当たり前にできること。健康でありながらそれをしないのを怠惰と云う。

 命はリズムであり、一時も休むことがない。それは自然からの我々への最大の贈り物である。


 悟りへの道を弟子に問われたある高僧・老師の返答は至ってシンプルである。


 〝朝しっかり掃除をしたか? 朝しっかり飯を食ったか?〟


 このふたことには、上記の事柄が全て含まれていたことだろう。

 但し、身体が動けば、という条件付きだ。そのことは決して当たり前なことではない。

 



2023年9月25日月曜日

 コラム340 <殺処分一千万羽?> 


 鳥インフルエンザにより千葉県で40万羽殺処分と聞いて驚いていた。だがこうした事態がどんどん拡大して、またたく間に全国で一千万羽を越えたと云う。

 一千万羽といえば、人間の数でいえばほぼ東京都の人口に等しい。驚いたというよりも人間の身勝手な傲(おご)りに怒りの感情さえ湧いた。大量生産(飼育)── 大量消費が原因の根っ子にあるからである。そもそも殺処分とは何事か。相手は歴(れっき)とした命なのだ。

 

 こんなことが平然と許されていい訳がない。こんなことがしばしば起きるような生活を人間が続けていていい訳がない一羽一羽の治療などより、さっさと大量殺処分した方が早い(経済効率がいい)という訳だろう。牛や豚の世界にも同様のことが為される。彼らは人間にとって食糧ではあっても、すでに命ではないのである。こんな摂理に反する行為が許されると思っているのだろうか?


 人類にも新型コロナが世界的に流行した。同じ命というのなら、こちらもパンデミックに陥らぬように殺処分した方が早いというなら、戦争よりはるかに残虐なこととなるだろう。


 人間は金のためになら何でもやるような生活そのものを変えなければならない。金(かね)・金(かね)・金面(かねづら)が蔓延しているような社会の価値観を変えていかなければならない。


 喰えるだけ喰って、ビヤ樽のようになっていく生活を改めて、知足── 即ち、足るを知る生活に一日も早く切り替えなければならない。それが人類の健康のためにも、目前に迫っている食糧自給問題解決のためにも、最も近道だと知ることが必要だ。

 知足には知力がいる。不知足の世界とは欲望まかせの世界だということだ。


 大食を競い合うTV番組も少なくない。飢餓に苦しんでいる人々が世界に沢山いるというのに、TV局もTV局だ。どうしてああいうバカげた番組を組むのだろう。視聴率が高いということは、見て喜んでいる者がそれだけ多いということであるし、その分広告スポンサーを得やすいことにも通じ、広告代も高く取れるといったことになるのだろう。

 現代社会は総じて知足の人間よりはるかに不知足の人間の多い世界になった。知の力が衰え、精神の力が崩れたからである。





 年々浅はかな金面(かねづら)が多くなっていく傾向にあるのはこうした背景があるからなのだろう。地球をこれだけ痛めつけておきながら、次に月に行って何をしでかそうというのか?人間であること、人間らしくあること、人間にとって最も価値のあることとは何なのかを根本からじっくり見つめ直す時ではないのか。SDGsもやれるだけやればいいが、もう手遅れなのだ。

2023年9月18日月曜日

 コラム339 <病んでいる地球> 


 病んでいる地球

 病ませたのは限りない人類の欲望


 現代の資本主義は1%の超富裕層を生み、とめどなく歪んだ経済格差社会構造を創り出して、もはやなすすべもない状態だ。社会に平安無し。


 気候変動問題も、SDGs等々遅まきながらさまざまな提案が為されているが、世界的同意を得て実効果を上げるのは至難なことだ。

 もう議論している場合ではないのだが、異論がある限り民主社会は議論が続く。やるならやればいいが、もう手の打ちようがない所まで来てしまっているとは大っぴらに誰も言わないけれど、事情に詳しい社会経済学者や地球環境科学者達の多くはそう思っているのではないか。大気中にぼう大な量のガソリンと二酸化炭素をまき散らしながら飛び交う飛行機を止めろと言っても止められないではないか。すべてはそれと同様だ。


 慎ましやかに生きるすべを身につけなければ地球は滅びるのは自明の理である。知足の世界を人間は手放したのである。何千年も前から教えられてきたというのに・・・。





2023年9月11日月曜日

 コラム338 <ホトトギスがしきりに鳴く> 


 雨上がりの霧の中、夕方ホトトギスが一定の場所で盛んに鳴いている。いつもは暗くなりかけた空を鳴きながら飛んでいくというのに、今日はどうしたのだろう。


 カッコウと共に同じカッコウ科のホトトギスは、他の鳥の巣に托卵するという。この辺では托卵相手はウグイスだろう。この時季、ウグイスもよく囀る。

 托卵成功を祝ってのことだろうか。それとも托卵のヒナがかえり、まだ目も見えぬヒナに、托卵相手のウグイスの卵を蹴落すように親鳥がしきりにうながしているのだろうか。

 カッコウやホトトギスのこの奇妙な習性を、私はどうにも好きになれない。


 「托卵する時に、まず相手の卵を抜き取り、その卵をくわえたまま産卵する。托卵にかかる時間は10秒ほど」という。「カッコウの卵は、托卵相手のものより2~3日早くふ化する」「生まれたヒナはふ化後2~3日目に、托卵相手の卵を巣の外に押し出し、巣と仮親からの給餌を独り占めする」(以上、「ヤマケイポケットガイドブックガイド⑦野鳥」から)

 信州も6月梅雨入りだそうだ、7月中旬までは続くだろう。標高1600メートルのこの辺りは冷たい雨がしとしと降り続いて靄(もや)がかかっている。この中で繰り広げられる惨酷な一幕である。毎年この時季、私の気分も靄の中である。(6月下旬に記す)




2023年9月4日月曜日

 コラム337 <キジバト君> 


 キジバトが空っぽのエサ台近くに飛んできてじっとしている。


   〝ハトちゃん、オハヨウ!〟

   〝でもねえ、そこまで歩いていけないから、エサあげられないんだよ・・・〟


 ちょっと首を振ってから

   〝どうしてくれないの?〟

という顔つきでまたじっと私を見ている。


 人間であるこの私と、鳥類であるこのキジバトとは何が通じているのか判らないが、何かが通じている。そんな表情をしばしばするから・・・。長いつき合いだもんねぇ。





2023年8月28日月曜日

 コラム336 <初めて出会ったヤマネ君> 


 年の半分を山に住むようになってから約40年、写真集や近くの人の話では何回も見たり聞いたりしているヤマネ君。念願かなって今年7月、初めて出会う事が出来ました。

 山の小ネズミ達もかわいいものです。全体に茶系、腹の辺りが白。とても小さく、あまり人間を怖れる気配もなく、デッキに出している折り畳み式椅子のキャンパス地の中にもぐったり、ひょっこり顔を出したりする姿は実に愛くるしいものです。私が本を読んでいると手すりづたいにテーブルに乗ってきたり、慣れてくると手からヒマワリのエサを食べたりします。色といい、小さな体躯といい、すばしっこい挙動といい、一冊の絵本でも書けそうな程それはそれはかわいいものです。


 この小ネズミ達にはこれまで幾度も出会ってだいぶ仲良しになりましたが、ヤマネにだけは一度も出会ったことが無かったのです。

 小ネズミよりさらに小さく、茶系の毛に背中から長い尾先まで黒っぽい線が一筋入っていて、ネズミというよりリスのミニチュアと呼ぶに近い印象です。洗面所の扉の裏に居て、下のすき間から尾先だけチョロチョロ顔を出すのです。

 中に入ったら桧風呂の縁(ふち)を伝い、窓から飛び出ようとして何度も何度も跳ねるのですが、ガラスに阻(はば)まれて外に出られないのです。


 押し倒し窓を少し開けて、出やすいように風呂の桧の蓋(ふた)を橋渡しにかけておいたら、やっと外に飛び落ちるようにポトリと音を立てて出ていきました。ホッとしました。

 ヤマネは山鼠と書きますが、冬眠鼠とも云うようです。明らかに小ネズミとは別種です。冬は冬眠するのです。雪の中で丸まって眠っている姿の愛らしさは格別です。


 ここに載せてあるのは私が撮ったいたずらっ子の小ネズミ達です。残念ながらヤマネの写真が無いので、何かで見て下さい。かわいいですよ。

 






2023年8月21日月曜日

 コラム335 <野生種・天然ものと人間> 


 草花にも野生種と栽培種がある。

 茸にも天然ものと人工栽培物がある。

 さて人間はどうなっているのか?


 最近私は、人間の多くが野生種・天然ものから次第に離れて、見た目には人間のようでも、何か得体の知れない人工栽培もの・栽培種に向かっていっているのではないか、いやすでにそうなっていると思われて仕方がないのである。


 縄文・弥生時代の人種とは徐々に違ってきたのはいたって自然なこととして、こと近代・現代になって急速にこの野生・天然即ち種としての自然が遺伝子操作を受けたかの如くに変異してきたのである。





 私はこういう事態を薄気味悪い思いで感じ取っている。野生種の血を引く天然ものの人種の行きつく先は・・・というよりも行きつかぬまま破滅すると予感する。人間が人間として夢を描ける時代は過ぎ去ったのだ。今は天の意志でも制御できない得体の知れない何か見えない力に引きずられるように、自走し始めたのである。


 人間よ、自然を取り戻せ!

 人間よ、野生を取り戻せ!

という声は天空の彼方に空しく吸い込まれていく。

 これが最近の私の実感である。