2020年6月29日月曜日


コラム171 <知ること>と<身につくこと>———知識と実践①

 片付けや整理法がいい例だ。モノの本でいくら知っても片付かない。知るばかりで身につかないからである。
 翌日やることは前夜の内にしっかりメモしておいて……。だが三日坊主で続かない。これもそうやればいいとは知っても身に付くまでいかないからである。
 よくない癖や習慣を、親に、まわりにいくら注意されても、なかなか直らない。言われることが判っていても、日本語の理解という程度に終わっていては何遍言われても直るものではない。すべては私の経験を書いているのである。スキーだって、他のスポーツだって同じだ。身につくとは、そう簡単なものではない。

 久々に、仲よしの大家さんが見えたというので階下に降りて行った。〝思ったより顔色もいいじゃない……安心したよ……〟と言われたので、私は〝リーダーたるもの辛くとも辛さを顔に出してはならない……〟と言って、その通りだと笑い合った。さて、翌朝来てくれたヘルパーさんと顔を合わせるなり言われた。
 〝タカハシさん 今日はだいぶ辛そうですねぇ……〟そんなものである。

知ることあまりに多く、身につくことあまりに少なし

 最近、このことを痛切に思うのである。





2020年6月22日月曜日


コラム170 <情報>

 私は新聞というものをとっていないし、めったに読むこともないから、訪問客が読みかけの新聞を置いていったりすると、そのまま捨てたり、燃やしたりする気分になれず、新鮮な気持で隅から隅まで読む。たまに読むから余計に新鮮に感じるのかもしれないが、中には役に立つことも時々書いてある。


 以前、行きつけの寿司屋で、置いてあった新聞を〝ヘェ~〟だの〝ハァ~〟だのと言いながら読んでいたら、寿司屋の大将に〝いまどき新聞をそう感動しながら読む人もめずらしいねえ……〟と言われたことを思い出した。
 〝俺なんか新聞二つ、週刊誌23冊は読んでるよ〟
 〝何で?〟
 〝カウンターをはさんでの客商売なんだから客と話が合わないと困るじゃないの。先生(私のこと)は困ることないの?〟
 〝全然……〟
 〝変わってるわ、やっぱり……〟
 〝そんな余計なことをしている割に、寿司の腕前の方はさっぱり上がらないねえ……〟
と冗談半分に言い返してやった。
 長いつき合いだから、そんな会話も平気だ。寿司屋なんだから、そんな無駄なことをしてないで寿司の研究にでも精を出してりゃいいものを……と思ったのが冗談以外の半分である。

 現代は情報時代だから、得ようと思えば情報は山程得られる。私などそれでなくても余計な情報はもう沢山だと思っている方だから、過多な情報はたまらない。Mailも〝気が滅いる〟と言って使わない。
 私の手にするものはもっぱら本と時々雑誌の類だ。TVは全く見ないということもないが、かなり制限している。インターネットは使わない/使えない。私には外からの情報よりも自ら思うこと、感じること、内部から湧いてくること、反省すること、行動することの方が、よほど大事なのだ。そういう意味でも、都市生活と山中生活がほぼ半々というのが私にとってはベストバランスだ。
 
山の中で何をしているんですか?瞑想でもしているんですか?なんて聞かれることがあるけれども、山中に身を置けば何もしなくとも、さまざまな思いや気づきが自然に湧いてくる。
〝我、インスピレーションと共にあり〟という感じだ。そこにこそ、真実の自分が見えてくる。
だがこれが、都市生活ではベクトルが逆になる。内部から湧いてくるというよりも大方、外から押し寄せてくる求めに対して必要に迫られて反応し、返しているだけなのだ。都市生活と山中生活の大きな違いがここにある。
 自分の真の姿をほとんど発見しないまま、人生を終えていく。何のための人生なのだろう。

2020年6月15日月曜日


コラム169 <土釜>

 まだ土釜がそんなに流行っていなかった頃、信州松本市内のある店で土釜を買った。中町通りをぶらぶら歩いていて、ふと立ち寄った陶器店主にすすめられて求めたものだった。土釜にしては珍しく、素焼きではなく厚く黒釉がかかっていて、注文が多くて届くまでに三カ月ほどはかかるという。土釜にしては値段も安くはなかった。数か月後、届いた釜には達筆な筆字で店主の思い入れが巻紙状の手紙が添えられていて、最後に〝ではどうぞ、美味しいオカマライフを!〟と書かれてあった。そこに店主、小林仁さんの人柄が表れていた。この店の名は『陶片木』——店の名前からして、もうすでに店主の性格を表していた。

 楽に慣れてしまっていた私は、それが届いてからもしばらくは電気炊飯器を使っていた。土釜の方がたしかにうまいと判っていたが、油断すると黒焦げにしたりして、付きっ切りの面倒が先に立って、やはり日頃はスイッチポンの電気炊飯器だったのである。
 やはり楽なものが脇にあっては、せっかくの土釜も生きない、と思っていた時に、ちょうど別荘地の管理人が自分の電気釜が故障したか何かで欲しいといってくれたので電気の方は偶然無くなった。キッチンタイマーを使うようになってからは火加減調整のタイミングに失敗することも無くなった。何せ、標高1600メートルのところでの生活なのだから、朝炊いても夜にはコチコチになる。夜に炊いてはなおさらだ。夜の冷や飯もさびしいし、夜粥というのもいただけない。その頃、私の山小屋には電子レンジというものが無かった。
失敗を幾度かしているうちに、自然にそうなったのだが、今は夜に炊きたてを、翌朝には朝粥にして戴く——このスタイルがすっかり定着した。修行僧にでもなったような気分で、これがまたいいのである。朝粥などと今は特別のことのように言うが、事の起こりはこんなものだったのではないかと思うようになった。
 粥では力が出ないという人もいるかもしれないが、そんなに体を使って力仕事をする訳でもなく、かえってこの方が私の身体にはいいような感じだ。おかずも自然に簡素になる。一汁一菜プラス一品位がバランスのいいところというべきか。

 あれから15年、今は土釜と炊き上がりがほとんど変わらない高級炊飯器がさまざまに開発されているようだ。人間とは便利・簡便にいかにも弱いときている。技術開発の世界もそうした人間欲求のもと、ひたすら歩んできたが、その発展のうらで人間として何か大切なものを大きく損なってきたと思えてならない。そのひとつが手仕事である。

 他に楽な手段がないとなれば、慣れと工夫があるのみ——そうなると土釜で飯を炊くオカマライフなど何の面倒もなくなることを経験で知った。現在この身体では無理だが、もう少し快復したら、またオカマライフに戻ろうかな、それともスイッチポンに戻るかな?


2020年6月8日月曜日


コラム168 < 新型コロナウィルス:濃厚接触?>


 日本語をもっと大切に使いたいと常々思っている私は、この「濃厚接触」という表現に、未だに違和感を感じ続けている。どこで誰が決めたものやら、コロナ流行の最初から使われていたから厚生省がらみの政治家達だろう。ジャーナリスト達も無批判に右倣(なら)えだ。
 濃厚を国語辞典で調べても
     色・味などが濃いさま⇔淡泊
     物事の気配などが強く感じられるさま⇔希薄「敗色——」
     男女の仲が情熱的であるさま「——なラブシーン」       (『辞林21)
 確かに濃厚感染という言葉があるが、これは今回の濃厚接触とは意味あいがだいぶ違う。これと同時並行に〝三密を避けよう!〟との声がかかった。三密とは密閉空間・密集場所・密接場面をいうらしい。ならば余計、濃厚な接触ではなく、濃密な接触の方がすんなり来るし、ニュアンスとして国民にも通りがよかっただろうと思う。
 別に腹を立てる程のことではないけれど、国や都道府県からのお達しならばなおのこと、せっかくの日本語の豊かなニュアンスをもっと大切に正しく使って欲しいものと願うのである。



2020年6月1日月曜日



コラム167 < 知足 / 不知足 >

頂き物をしながら、御礼を申し上げるのを失念することがある。うっかりというのであればまだしも、ほとんど礼を述べる情動すら湧かないとなれば、これはもう行き過ぎた物質社会の中で人間関係―― ひいては健全な人間社会の第一条件を欠いているといわなければならない。「衣食足りて礼節を知る」が裏目に出た形だ。衣食に不自由した困窮した時代には、こんな時代になるとは予想もしなかったに違いないが、なんでも「過ぎたるは及ばざるが如し」で、足ることを知る、即ち「知足」は人間の心が平穏であるために大切な条件である。現代は足ることを知らない「不知足」だらけの社会である。これがどれ程、社会と人心を蝕んでいることか。
 我々の親の世代までは、頂きものには礼状を書くことが基本で、葉書では幾分ていねいさを欠き、電話での礼では失礼になる、といった感覚を持っていたように思う。やむを得ず電話で済ます時には、必ず最後に〝電話で失礼させて頂きます……〟とつけ加えたものだ。私の母親はまめに礼状を書く人だったから、子供達三人にその躾のようなものが余韻として引き継がれている。
母曰く、
 〝誰から頂いたか判らぬ状態で口にするものではありません〟
 だから頂き物の箱などには必ず「○○さんより載く」とサインし、「ありがとう」とまで書き込まれてあったものだ。頂いた気持は感謝の気持と言葉をもって返す―― これが返礼というものであり、人間関係の第一歩だと思うのである。礼を期待する位なら、差し上げぬ方がいいといった論法は上述したことと全く次元を異にする。こうしたことは小さいことながら人間の社会をつくっていく上で大切な一歩であろうと思われる。
 「失念」とは、仏教では「正念を失うこと」と教える。