2015年8月5日水曜日


コラム 2 <山小屋生活の始まり-その②> 

 土地はすでに昭和63年(1988年)に求めていたが、土地は手に入れたものの建物が建たない。お金が無かったからである。 

 何年間かはテントを張って遊んだりしていたが、そうこうしている内にチャンスがやってきた。
 五島列島福江島に計画していたリゾートホテルの設計を、銀行が提示した工程スケジュールでは到底無理とお断りさせてもらった。依頼主のIさんは銀行と交渉し、示された設計期間6ヶ月を倍の1年にしてくれたが、私の求めは最低2年であった。3040億円もの、しかもIさんが長年あたためてきた夢の計画に設計期間2年は最低必要だったのだ。しかも私は住まい塾を始めたばかりだ。この計画にのみかかり切る訳にはいかなかった。 

 結果的には銀行が紹介した某設計事務所が引き受けることになったのだが、Iさんはそれまでの基本構想のお礼にと、当時私が切実に願っていた山小屋実現のために必要なお金を出してくれた。こうして最初の山小屋が完成したのである。

 因みに当のリゾートホテル計画の方は、海に突き出た絶景の地に地下工事をすすめた段階で突然バブルがはじけ頓挫した。それまでに要した建設費の15億円がふいになった。構造体は野晒しにされ、海風に晒された鉄筋は錆が一気に進んだ。途中相談を受けたが手のうちようも無かった。今はどうなっているか詳しいことは判らない。 

 バブル期のあの当時、いつでもいくらでも必要なだけ金を出すという金融機関の甘い声に油断したのだ。担保物件の価値がみるみる下がるにつれ、必要なお金を融資してくれる銀行も無くなっていったのである。この事件以来、私は世の事業計画の多くが銀行主導で動かざるを得なくなっていることを知った。

振り返ってみると、巡り合わせというものは不思議なことに思われる。そして人と人との出会いや与えられる境涯は、人智や努力をこえて恵みとよぶ方がよりふさわしいように思われる。もしそれが恵みであるならば、そこには何らかの天意が働いているに違いない。だとすれば、ただただ戴いてばかりもいられない。何らかの形でそれにお返ししていかなければならない。私はそのように考える。 

 山中に入って、さまざまな恵みは何のために与えられているものかと考えるようになった。生じる全ての困難に意味があるというならば、幸運や恵みにも確実に意味があるはずだ。真の人生はこの自覚から始まる。私は今年68才になった。しかし私にはこれが人生の始まりのように思える。人生の始まりと呼ぶにはいかにも遅いが、遅いも早いもこの世でのこと、永遠の命から見れば遅すぎるなどということは決してないのだから。