2021年7月26日月曜日

 コラム227 <脳出血から34ヵ月経った者の心境 その⑤>

  病院での入院リハビリは現行の法律で最大180日までと定められている。それ以後はリハビリの必要性の有無にかかわらず、実質、社会に放り出される恰好(かっこう)となるから、介護保険内のリハビリが中心とならざるを得ない。
 しかし私の経験からいうと、これによって効果の上がるリハビリは期待できないと言っていい。他には自主トレーニングということになるが、これも継続的に出来る人となると、気力、体力、技法上かなり限られるというのが実状だ。若い時分にスポーツに明け暮れた私でさえ、気力を保持しながら自主トレに一人で取り組み続けるのは至難なことだ。
 
 180日までという制約は小泉首相時代に反対を押し切って成立した法律らしい。そもそもなぜ180日なのか———これについては6ヵ月以降はリハビリを続けても大幅な成果は得られないという定説が根拠になっているようだ。だがこの定説はもう古い。一般的にはそういうことが言えるのだろうが、それに違(たが)う体験者の本は沢山出ているし、私自身だって歩くのに大きな改善を見たのは6ヵ月を超えてからである。必要性の有無はそれぞれによって違うが私の経験からいうとこれが9ヶ月までであればだいぶ違ってくるものと思われる。この問題はリハビリ治療における今後の大きな課題である。  

 最近はさすがに左半身マヒの完全なる恢復は諦めつつ、一方では諦めないで淡々と日々のトレーニングを重ねていくのみである、と腹を決めている。〝余分なことを考えず〟とは気力を軸とした自分との勝負であるが、それがどこまで恢復につながるものか見ていてほしい。今はこれが生きるということのひとつの意味であるとさえ思われる。
 
 添うて生きてくれる人がいるということが何よりも大きな支えになっている反面、自分は助けを受けるばかりで、その人の支えに全くなれないことが辛い。病の辛さは身体上の苦しみもさることながら、第一には他人の助けになれないこの精神的辛さにあるのではないかと思う。この問題とどう折り合いをつけて乗り越えていけるかは私に課せられた精神上の試練である。
 3年以上ほぼ同じ薬を飲み続けても症状が一向に改善されないこと、名医野地先生にも有効な手段がなさそうなこと、このまま大量の薬を飲み続けてはこの体が薬漬けになってしまうようで私の望むところでは全くない。薬を極力減らしつつ今は東洋医学の漢方薬・鍼灸(しんきゅう)マッサージをプラスして取り組んでいる。



2021年7月19日月曜日

 

コラム226 <脳出血から34ヵ月経った者の心境 その④>

  小田急線本厚木にある<のじ脳神経外科・しびれクリニック>の野地先生は最後の頼みの綱として遠くからも訪れる人が多いと聞く。住まい塾事務局の川崎さんが見つけて推薦してくれたのである。すぐ予約の電話をすればよかったのだが、住まい塾から片道2時間と少々遠いし、冬期の入院リハビリの期日が迫っていたこともあって、数ヵ月後に予約の電話を入れた時には予約待ち1300人と言われた。〝ヘェ~~!〟だがひたすら待ち続けて7ヵ月以上はかかったろうか。予約できる順番がやってきた。
 
 初診は午後の時間であったから連れ合いと一緒に日帰りで行った。新宿・本厚木間はロマンスカーを利用したのでその分楽であったが、志木から池袋、新宿を通っていくのがなかなか大変だ。各駅にエレベーターがあるにはあるが、さがすのに手間取り歩く距離は大して変わらない。駅からクリニックまでは私の足で杖をつきながらも十分かからぬ程だが、日帰りで往復してヘトヘトになった。
 野地先生は一目で名医であると確信した。患者に寄り添う姿勢と気持が表情に表れていたからである。二回目からはスタッフのアドバイスもあり、前日に本厚木のステーションホテルに泊って、午前診察、午後には早目に志木に帰ることにした。これで往復のラッシュが避けられる。本厚木のステーションホテルはビジネスホテルだが、机・ソファなどが備えられているだけで余計なものがなく内装もこざっぱりしていて
 シングルルームの割に広く、悪くなかった。シングルルームを2室取ったのはコロナ対策のためだったが、夜中私はふらついて転倒し、妙な格好で転んだものだから家具の間に足がはさまり、起き上がれず、床にそのまま
20分程横になっていた。床がパンチカーペットだったから幸いしたが、横になりながら立ち上がる方法に頭をめぐらせ、やっとベッドに横になれたのはそれから30分程してからのことである。デスクには電話もあるから隣室にもフロントにも通じることはできるのだが、何せ立ち上がれないのだからそこまでたどりつけない。それに呼べたとしても部屋のドアに内カギがかかっている。こちらがドアを開けなければ入れない。そんな経験を生かして第三回目は自分の部屋の内カギはせず、少し開いた状態にして休んだ。

 色んなことが起きては経験から学び、第4回目はキングサイズのダブルベッドの部屋を取り(このホテルにはツインルームが無い)、端と端に寝た。最初からそうすればよかったようなものだが、馴染みのないせいか私はダブルベッドで眠るのが好きではない。が結果的には洗面も浴室もシングルルームより広く充実していてひとつに勉強なった。

2021年7月12日月曜日

コラム225 <脳出血から34ヵ月経った者の心境 その③>

  次に期待して訪れたのが東京のとあるシビレ専門のクリニックである。シビレはシビレでも脳から来るシビレとうたってあったから期待したのである。ここでの担当医は女医さんであった。

 〝はっきり申し上げてこれは治りませんから……一発で亡くなる方もいるのですから幸運だったと思って諦めてつき合っていって下さい。〟
       あまりのドライさにポカンと開いた口がしばらく塞(ふさ)がらなかった(今は閉じている)。この先生は治らないものは治らないとはっきり言った方がかえって親切というものだ、と固く信じているようだった。そう信じているというのならそれはそれでいいのだが、あまりにシャーシャーとした言いっぷりに、言われたこちらは何だか〝治りませんから……〟と言われるために志木からわざわざ来たような気分だった。病が判って人間の苦しみが判らぬ純粋医師を見たような思いだった。苦しんでいる人間に寄り添った多少のアドバイス位あってよさそうなものだが、〝治りませんから、つき合っていって下さい〟だけじゃ混んだ電車を乗り継いでやって来た甲斐が無いというものだ。それとももう一度行って〝そのシャーシャーとした言いっぷりは、もう治りませんから……〟とでもいってやろうかなあ。





2021年7月5日月曜日

 コラム224 <脳出血から34ヵ月経った者の心境 その② >

  脳出血(視床部)で倒れてからもう34カ月が経つ。自主トレも含めたリハビリも比較的よくやった方だと思う。リハビリの良きセラピスト(トレーナー)達との出会いにも恵まれた。主治医の先生方との出合いにも恵まれた。だが脳がやられるというのは、それでもそう簡単ではない。
 退院後も連れ合いや姉に多大な犠牲と負担をかけながら(二人共まだ現役の仕事人なのだから)諦めずにここまでこれたのも二人の助力に負うところが大きい。特に連れ合いは私の足元の不安定さを案じて、自らもまもなく股関節の手術を控えているような身でありながら、病院に行く時には必ず病院までの往復に同行してくれた。診療の予約、窓口での保険証の提出や支払い、薬局での薬の受け取り及び支払い等は左半身マヒの現在の私には無理がある。
 八ヶ岳では車で10分足らずのところにある八ヶ岳農場の一周45百メートルはあろうかという広大な芝生での自主トレを兼ねたウォーキングはいつも一緒だった。時には途中どこに行ったかと思いきや、私よりも散歩中の犬の方に関心が寄って、戯(たわむ)れていることもしばしばだった。大の犬好きときているからこれも愛嬌というものである。

  シビレ専門の病院にもいくつか行った。こんな努力をさまざまに重ねてきたが左半身の強烈なシビレは一向に快方に向かわない。逆に強くなる一方で最近では痛みと苦しみが加わってよく眠れない日もしばしばである。
 代々木にある「JR病院」のしびれ専門外来では担当医曰く、〝タカハシさん、よくここまでがんばりましたよ。我々医師だっていつそうなるか判りませんから、私がなった時にはタカハシさんのことを想い出して私もがんばりますよ……〟……そりゃあいいけど、私の方はそれまでどうすればいいの?このJR病院はシビレとはいってもどちらかといえば、頸椎(けいつい)から来るシビレが専門のようだった。