2017年9月25日月曜日

コラム 108  漢字に遊ぶ その① ―忙・親・偽―  

解釈が本意であるかどうかはともかくも、漢字に遊ぶのは実に楽しい。 

〝「忙」とは心を亡ぼす意なり〟とは、これなど誰でも知っていることであるが、年々忙しくなっていく現代にあってはもっと噛み締められていい字だ。
最近長姉が私に語った中に
〝「親」とは木の上に立って見る〟があった。語学上正しいのかは知らないが、現代の、特に日本の親達には教訓に満ちた解釈だ。
野鳥達の巣立ちから独り立ちまでの姿を見ていると、まさにその通りである。親は余計な手出しをしない。親がそうしなければ子供達は独り立ちできないのである。 

今朝もミソサザイの幼鳥達がおぼつかない飛行で下草や積まれた枯枝の間にもぐり込んだりして遊んでいるところを、しばらく眺めていたばかりだ。親鳥は樹上からチッチッ、チッチッと短く信号を送りながら見守っている。何か危険が迫ると、チ・チッ・チーッと小さな合図を送り、幼鳥達は動きをぴたりと止める。こんな姿を見ていると〝親は木の上に立って見る〟とはまんざら違った解釈とも思えないのである。 


ついでにもう一つ。
「偽」という字は + と書いて〝人が為す〟とも〝人の為〟とも解せるが、いつわりが人の為などと間違っても解してはなりません。
「為」には〝~のためにする〟という意味もあるが、この際の為は、〝なす、する、行う〟という意味である。しかしながら、人が為す・・・・・と書いていつわりになるとはおもしろいではありませんか。
                                     (つづく)

2017年9月18日月曜日

コラム 107  夕焼  

7月下旬に山中入りしてから約1ヶ月後の826日土曜日、この夏はじめての夕焼空を見た。
今年の夏は雨々々の連続で、まるで梅雨月のようであった。見慣れていたはずの夕焼は心が夕焼色に染まる程美しかった。 


都市社会に生きていると、こうした深遠な静寂に包まれることがほとんど無い。そんな中では自然への畏敬の念を抱くことも少ないだろう。人間存在の大きさも、小ささも胸に迫ってくることは無いだろう。心の動脈硬化症!・・・・・ふとそんな言葉が胸を過(よぎ)った。 

827日日曜日の朝は気温が12度まで下った。知らぬ間に、もう秋が近づいている。

2017年9月11日月曜日

コラム 106  電話の問題、もうひとつ  

山小屋の電話を約30年振りに替えた。子機ひとつのきわめて素朴かつシンプルなものだったが、子機をうっかり雨に濡らして使えなくしてしまった。子機だけ買い換えれば済むのかと思ったら親機共々交換しなければならないことが判って、子機二台のものに替えた。極力シンプルなものをと選んだが、以前に比べれば随分多機能だ。

その中に着信履歴という機能がある。何せここは山小屋なのだから一定期間しか居ない。よって留守中の電話がすべて着信履歴として残り、それを知らせる赤ランプが点灯するようになっている。 


見なければいいようなものだが、赤ランプが気になって、一通り着信履歴を見る。
留守中の10日間に14回かかってきたものがあった。いったいどこからだろうと、これもよせばいいのに電話をしてみたら〝NTT光回線に関する案内〟だという。これをストーカー行為とは呼ばないけれど、いくら何でも10日間に14回とは私の感覚でいえばストーカーに近い。以前にも書いたが電話帳に載せてもいないのにかかって来る不思議さ。これなどまさしくNTTの職権乱用ではないのか?

 他の営業電話にも、どうしてここの番号が判ったのか?と聞けば決まってこう返ってくる。

〝我々はただ回ってきたリストを見ながら掛けているだけですから・・・・・〟

 私はさらに追い討ちをかける。

“どこから回ってきたのか?〟

 何やら国会答弁のようだが、この手をしばらく続けていたら、営業電話はどこからも来なくなった。 

静かな山小屋(とはいっても向こうには山だか谷だかわからないのだが・・・・・)にまで、電話での営業攻勢ではたまらない。一度通信販売で取り寄せたりすると、お得意様でもないのに〝これはお得意様限定の案内〟だと電話がかかってくる。以前はこの手に弱かったが、もうその手には乗らない。私は知恵者になったのだ。
それにしても放っておけば山中の、しかも夜の9時過ぎまで追いかけて来るこの「かたっぱし電話」の無法状態に、何か規制のルールが必要なのではないか?

2017年9月4日月曜日

コラム 105  便利も考えものだ  

私の山小屋には電話が無いことになっている。あっても掛けるだけの電話であって、外からは通じないのだといえば、そんな都合のいい電話があるのかと訝(いぶか)りながらも信じてくれた。
だが、最近は掛けるだけのはずが、かけた先から電話がかかってくる。留守のはずだった先方がなぜ私の電話を・・・・・?。 教えてもいない電話を相手が知っている・・・・・。 


最初は不思議だった。
こんな調子で掛ける度にこちらの番号が割れたのだから、静寂の中に暮らすはずの生活が、だいぶ始末の悪いことになってしまった。
私のような心境の者はそう多くはないようで、相手も電話があるんだからと、掛けることに何ら躊躇(ちゅうちょ)が無い。
こういう類の人間には「非通知」といって、かける前に184(イ・ヤ・ヨ?―きっとそうだ!)を押す手段が備わっているという。私に言わせれば、通知したい人のみが114(イイヨ)か何かを押すというのが真っ当なあり方だと思うが、便利を喜ぶ世の中にそういう文句を言う人はもう大勢を占めないのだろう。
こちらが望んでもいないのに、掛けた先すべてに知れるというのでは腹立たしいし、第一これなどプライバシーの侵害に当たるのではないかと思う。それにこちらが掛けているのに「非通知」とは、どこか失礼な感がつきまとう。幼い頃の〝卑怯者、名を名乗れ!〟の名残りであるか。 

いずれにせよ、この手の便利は際限なく突き進む。
  〝Docomo かしこも ケータイ電話〟
なんて言ってるうちに、すっかり
  〝メール メールで 気がMail
時代になってしまった。
人間こんな調子で、ほんとうに幸せに向かっていくんだろうか?
まるで静寂を欠いた世の中にあって、今これを守ろうとすれば余程の決心と覚悟と策が要る。