コラム 17 <言葉のいらない世界>
〝言葉慎みて、多くを語るなかれ〟と言う。このように言われるのは、言葉の前にすでに言葉を必要としない世界があるということなのだろう。言葉多くして、多くを失う。不立文字といい、瞑想・黙想というものもこれを暗示している。
秋田市内で郷土料理店を営むAさんが、仏画師の安達原玄さんと共に私の山小屋を訪れた。以前から一度訪ねてみたいと言っていたのである。
入って間もなく、Aさんは〝話をすると泣いてしまいそうだ〟と言って込み上げる涙をこらえていた。そう言っただけですでに目には涙が滲んでいた。私はAさんの人生を多少は知っている。だから積年の辛かった思いや経験がないまぜになっての涙であろうと思われた。静かに流れる音楽、はぜる暖炉の薪の音、すぐ下を流れる渓流の瀬音―――余分なもののない、自然な場であった。
言葉のいらない世界とは、こういうことを言うのだろう。心満たされること以外に、何もいらない世界―――しかし考えてみれば、これこそが今我々が痛切に求めている世界である。TV、会議も、喧騒そのものだ。話さないでは場がもたないとばかりに口角泡を飛ばす。これが人間の主張というものだろうか。
人それぞれに心の調べというものがある。人間も自然の申し子であるならば、何か自然と調和する調べを身体内に宿しているはずだ。
感動・感激の正体とはいったい何なのであろう。〝ああ、いいなあ・・・〟とじんわりと感じ入る時、我々の琴線は見えないところですでに調べを奏で始めているのだろう。Aさんの涙は人の心の調べの大切さを無言のうちに我々に教えてくれたのである。