2015年12月28日月曜日


コラム 17 <言葉のいらない世界> 

 〝言葉慎みて、多くを語るなかれ〟と言う。このように言われるのは、言葉の前にすでに言葉を必要としない世界があるということなのだろう。言葉多くして、多くを失う。不立文字といい、瞑想・黙想というものもこれを暗示している。 

 秋田市内で郷土料理店を営むAさんが、仏画師の安達原玄さんと共に私の山小屋を訪れた。以前から一度訪ねてみたいと言っていたのである。
 入って間もなく、Aさんは〝話をすると泣いてしまいそうだ〟と言って込み上げる涙をこらえていた。そう言っただけですでに目には涙が滲んでいた。私はAさんの人生を多少は知っている。だから積年の辛かった思いや経験がないまぜになっての涙であろうと思われた。静かに流れる音楽、はぜる暖炉の薪の音、すぐ下を流れる渓流の瀬音―――余分なもののない、自然な場であった。 

 
 言葉のいらない世界とは、こういうことを言うのだろう。心満たされること以外に、何もいらない世界―――しかし考えてみれば、これこそが今我々が痛切に求めている世界である。TV、会議も、喧騒そのものだ。話さないでは場がもたないとばかりに口角泡を飛ばす。これが人間の主張というものだろうか。 

 人それぞれに心の調べというものがある。人間も自然の申し子であるならば、何か自然と調和する調べを身体内に宿しているはずだ。
 感動・感激の正体とはいったい何なのであろう。〝ああ、いいなあ・・・〟とじんわりと感じ入る時、我々の琴線は見えないところですでに調べを奏で始めているのだろう。Aさんの涙は人の心の調べの大切さを無言のうちに我々に教えてくれたのである。

2015年12月21日月曜日


コラム 16 <面倒を先に立てちゃあ、おしまいよ> 

 カツオ節だって 
     パックがあれば
     ちゃんと削らなくなるよ。 

 炊飯器だって
     電気釜があれば
     土釜なんか使わなくなるよ。 

 そのほうがうまい、と判っていてもね。
 こうしてカツオ節名人は廃れ
     土釜屋さんはつぶれていく。 

 削りたければ、パックは買わないこと、
土釜で炊きたきゃ、電気釜は置かぬこと。 

徹すればなんてことはない。
 〝面倒を先に立てちゃあ、
                           おしまいよ〟

2015年12月14日月曜日


コラム 15 <共に茶を飲む> 

 山小屋で茶を飲む時には、忘れなければだが、だいたい仏さん達と一緒に飲む。私の机の上には母と娘の写真が置いてある。本部と山小屋間の往復も一緒である。
 これを見た人はどうして母親と娘だけなのだろうと訝しがるかもしれないが、母の写真の裏には父の写真も、三つで亡くなった兄の写真も重ねてある。四枚も並んじゃ仰々しいし、だいたい男はそんなことは望まないに違いないと、こちらが勝手に思い込んでいるせいでもある。 

 朝には・・・・・これも忘れなければだが、汲み上げた最初の水を上げる。あの世に行った人がこの世の水を飲みたがる訳もなし、どんな意味があるのか判らないが、両親がやっていたから私もやっているだけのことである。野鳥や鉢植にだって水をやるんだ・・・・・その前に、位のものである。
 だが、これを長くやっていると一緒に飲んでいるような気分になってくるから不思議である。一人で飲むより少し気がまぎれる。
 
 近所に〝一人でいると、寂しくってさぁ・・・・・〟などと言う人がいるところを見ると、私はおそらく一人で居て寂しいといった感情はいたって少ない方に違いない。それでも〝うまく茶が入ったよ〟とか〝ちょっと濃く入れすぎたな〟とか言いながら上げる。共に茶を飲む行為は心地いいことなのだ。
 肉体を持ったこの世の人間であろうと、姿・形は見えないあの世の魂であろうと、私にとってはそう大きな違いは無い。一人であって一人でない。だからこそ茶の時間を共にするのである。

2015年12月7日月曜日


コラム 14 <礼節―その②>  

 礼と礼が出会うから節となり、それが礼節と呼ばれるようになった―――「礼節の国・日本」とはそういう国であったのだろう。江戸・明治の時代に日本を訪れた幾多の異国人の眼には、そのように写ったようだ。これは日本人として胸に刻むべき教訓である。 

 〝衣食足りて礼節を知る〟という言葉を、実感をもって受け取れた時代がたしかにあっただろう。しかし我々は今〝衣食足りて礼節を忘れる〟時代に生きている。貧しさは人間に礼節を忘れさせたことがあったかもしれない。しかし、物にあふれた状況もまた人間に礼節を失わしめるものであることを、我々は現に経験している。今よりはるかに足りなかった時代にはるかに礼節が息づいていたとは、どういうことであるか。不足にもまた礼節を育てる力があったということなのだろうか。 

 他人行儀な、という言葉がある。日本人には、親しい間柄においてしっかり礼を言い合うことにためらいを感じる風潮がある。
 逆に、親しき仲にも礼儀あり、とも言う。そんな心理がバランスよく保たれている内はまだよかったが、このモノ余り時代に感謝の念と共に急速に礼の心が失われた。失礼・失念の時代を通り過ぎて、欠礼・欠念の時代となったのである。

  ・親しきなかに礼を欠く 
  ・簡便の中に礼を失う
  ・多忙の中に礼を忘れる 

 こうなるのは人間の常なのであろう。ならばこそ我々は、かつての日本人が身につけていた礼節というものを、今一度想い起してみなければならないように思う。
 〝礼状を書けぬ程、戴き物をしてはならない〟とは、大正期に生まれた母の無言の教えであった。あの時代の多くの日本人の胸の内には、このような教訓がひとつひとつ息づいていたものだろう。
 こんなことを先日ある会社の経営者と話したら、今それをやろうとすれば社内マニュアルがいる、と言われた。