2016年11月28日月曜日

コラム 65  文明生活を支えるもの  

この便利で潤沢な文明生活を底辺で支えているものはなんであるか・・・即ちこれが無くなれば我々の文明生活はガクンといくものとは何であるか――その第一はおそらく電気であろう。
電気が停まる。灯りが点かない/エアコンが使えない/電話もダメだ/TV、オーディオ関係もだめだから音楽が聴けない/その他冷蔵庫がストップするから、特に貯蔵してある冷凍物は全滅だ。電子レンジなんか当然使えないぞ、電気炊飯器だってそうだ。IHクッキング・・・・当り前だろう!そんなものしか知らなければ、米を炊いたり冷えたものを温めたりすることさえできない、洗濯もどうする?! 

今は停電というものがめったに無いから、都市近郊に住む者達はそんなことに気付く機会も無いが、私のように山中でしばしば停電を経験していると、山中生活においてすら何と多く電気の恩恵に浴しているものかと思い知らされる。
マイナス20度にもなる冬期の主たる暖房機・石油クリーンヒーターも、電気が停まっては使えないし、給水管に巻きつけてある凍結防止ヒーターもストップするから、停電後30分で水道管の破裂が始まる。その上水抜栓は便利にも電気式のワンタッチときているから水抜さえままならない。ボイラーつかず、便器もコンプレッサーによる圧縮エアー併用の超節水型便器だから、トイレも流せない。 

山中生活といえば、文明生活から縁遠くあるように思われるが、マタギや登山者の生活とは訳が違って、所詮文明生活の中でのこと。電気という基を欠いてはほとんど成立できないものだ。
文明生活とは本当は怖ろしい事態なのだ。
もう慣れっこになって、こんな生活を特にありがたいとも、異状な事態だとも誰も思わない――これこそが怖ろしい事態なのだ。 

・水が出ないなら、山水でも飲んで凌げば何とかなるだろう。
・灯りはランプ・ローソクがあるから、しばらくは大丈夫だ。
・暖房は薪の暖炉で凌げるだろう。炭、焚き付けも外にある。マッチもある・・・・・
・マイナス20度をこえるような夜も、経験上布団と毛布、それに厚いくつ下があればなんとかなる。
 ・車が使えず下山できなくなったら歩いて降りればいい。20年程前、三日間で2メートル近く雪が積もって、三週間以上脱出不能となったことがあったが、幸い山小屋にスキーがあったから、いざとなればそれで滑り降りると覚悟を決めていた。(私は雪国生まれで、スキーのベテランなのである)
 ・トイレは外でOK・・・・・しかし凍傷の危険性あり。南極では立小便をすると、放った先から凍結して、パリパリプツッと瞬時に放物線の氷となるなどと言うが、あれはウソだろう(当方マイナス30度まで経験あり)。土に穴を掘るといっても1メートル以上凍土となっているから、穴などとても掘れない。

こんなことを考えてみると、いざという時役に立つのは文明から遠く離れた原始に近い形のものばかりだ。 

ここに挙げたことだけでも、都市生活はもう電気なしではやっていけないことがよく判る。林立するオフィスビル、特に超高層ビルなど、どうなるのだろう。摩天楼が廃墟となる、というのもSFの世界の話とはすでに言えなくなっている。
荷馬車・荷車・リヤカー・人力車というのはさほど古い時代の話ではないが、文明に漬かり切った日本人は、もうそんな生活に戻れはしないだろう。石油と電気にどっぷりと漬かり切った近代文明国家、危うし!

2016年11月21日月曜日


コラム 64  情報  

外から取り入れるばかりが情報ではないと気付かされたのは、山中生活においてだ。 

TV、新聞、雑誌――勿論パソコンも無いし、インターネットの恩恵にあずかることも無い。困りませんか?とよく聞かれるが、あれば便利な時があるだけで、困ることなど何も無い。それでなくとも外から押し寄せる情報の多さに辟易しているのだ。これ以上増えたら、私の身体は拒絶反応を起こすに決まっている。 


気付かなければならないのは、情報源は常に外にあって、取り入れるものとばかり思い込んでいるその誤謬についてである。
外からの情報もあれば、内からの情報というものもある。さらに外からの情報が増せば増す程、内からの情報が少なくなっていく。

きっと誰にでも、泉の如く湧き出ずる内なる情報源というものがある。インスピレーションの類だ。それはこの身体を通して、どこからか直接的にやってくる。
我々はこれまで、食べること、摂取すること、取り入れることにばかり関心を向け過ぎてきた。もうそろそろ、身体内から湧き出ずる内なる声に耳を傾けるべき時だ。
取り入れることにばかり懸命の、辟易満腹の身体、消化不良の身体を考えてみるがいい。
人間はそのストレスでさらに食らい、取り入れると言う。

2016年11月14日月曜日


コラム 63  落葉松  

雪の舞いかと思いきや、
落葉松の落葉でした。
夕陽に照らされながらハラハラと舞う細身の葉は黄金色に輝いて、
最後の命の燃焼のようにも見えます。 

 
翌朝、今日はどんよりと雪まじり・・・・・
凍てつく中、誰にも見とられず雪の下にうずもれていく落葉松の葉・・・・・
天空の摂理からすれば、しかしそんなことは大したことではないに違いありません。
 
 

2016年11月7日月曜日

コラム 62 < 都会の雑踏  


夏の一日、都心に帰った。その日一日だけで、三度見た。
すれ違いざま人と肩がぶつかって、
憮然とした表情で睨みつけていく者、
舌打ちしながら、時には〝バカヤロー!〟と言い放って去っていく者、
つい先頃も〝ナニー、コノヤローッ!〟と言い返されて、ケンカしている者もいた。 

最近少なくなったのが、おだやかに〝ごめんなさい・・・・・〟と振り返る人。
急に増えたのは、スマホ片手に画面から目も離さずに、無反応で通り過ぎてゆく人である。
人間はさまざまなれど、人間社会が平和に向かうのはどんなあり方なのだろう。
あの〝バカヤロー〟と言って去った人も常日頃のうっぷんをそれで晴らしたつもりだったろうが、結果はさらにうっぷんを募らせただけに違いない。 

〝人間いかなる時でも、あるべきようにあれ〟とは、古(いにしえ)からのいましめである。
山中から久々に降りて行った者の眼には、東京の異状進行中がよく見える。
人間崩壊の兆しあり。