2020年3月30日月曜日



コラム158 <散歩中に感じたこと②>

 土手の散歩コースには、所々にベンチが置かれている。そのベンチに腰掛けてうなだれている人に声をかけたなら、最初は何も応えてくれないかもしれない。怪訝(けげん)そうな顔をする人さえいる程だ。だが、二度、三度と繰り返している内に、余程のことがない限り、こたえが返ってくる。
 〝おはようございます〟
 〝おはようございます〟
 〝今日は暖かくて、いいですねぇ〟
 〝そうですねぇ〟
 こんな調子だ。そのうち、かすかにほほえみが返ってくる。
 川面に浮かぶ鴨の親子達を眺めながら
 〝みんな仲よくていいですねぇ〟
丘に上って日向ぼっこしている鴨達を見て
 〝鴨達もやはり暖かいところがいいんでしょうねぇ、気持ちよさそうですねぇ……〟
でもいい。ちょっとしたことばのかけ合いが人の心を和ませる。心中を察することなどできないが、その人は自分一人ではないことを感じて、笑みをもらしたのだ。小さなことだが、自主トレを兼ねた散歩道で、こんなことを感じるようになった。
 都会では人と人との関係に多く潤いを欠くようになった。日頃の小さな積み重ねが、いつの間にかそうした状況を生んできてしまったのだ。




2020年3月23日月曜日


コラム157 <散歩中に感じたこと①>

仕事場のすぐ近くに柳瀬川と新河岸川の二本の川が流れている。荒川の支流に当たるらしい。土手には枝ぶりのいい桜が続いていて、春には花見客で賑わう。自主トレをかねて散歩に出かけたのだが、近くにこんなにも美しい散歩コースがあるとは知らなかった。渡る橋の途中には、欄干に手を置きながら川の流れを見下ろしている人あり、身じろぎもせずはるか遠くに目をやっている人もいる。橋の上から鴨の泳ぎをじっと眺めている人もいる。人生のはかなさを思っているのだろうか……そんな風に見えるのは私の今日の心を映してのことかもしれない。
 表通りには車がひっきりなしに通っているのに、この散歩時間は静寂だった。二本の橋を渡り切って、すぐ右折して土手に入った。久々の散歩であった。ジョギング中の人もいれば、中には私のように身体が不自由になって懸命にがんばっている人もいる。途中のベンチに腰掛けてどこを見るでもなく、ただただ眼前の景色に目を任せている人もいる。何を思っているのだろうか。
 身体の状況が変われば、心に映る景色も変わる。脳出血を起こす以前の健康な私には、こうした姿は、明確には映らなかったに違いない。普通であることが大いなる恵みであることにも気付かなかった。と同時に、健康に生きていることが、どれ程奇跡的な恵みであるかにも気付かず、当たり前のこととして感謝もしなかった。朝・夕の感謝の祈りとはいっても、口先だけだった。哀しいかな、そんなことも、なってみてはじめて気付くことだった。人に夢と書いて儚(はかな)いと読む。仏教でいう「諸行無常」と重なる。そんなことを理解しながら恵みへの感謝の念を忘れずに生きるのが人生というものではないだろうか。

2020年3月16日月曜日


コラム156 <多忙 再び>

 これまで「忙」とは心を亡ぼす意なり、と幾度も書いてきた。忙しさはいかなる意味でも心を亡ぼすものだと私が思うのは、それによって人間は静寂な時を失い、同時に深遠な思いをも失うからである。朝に峰の向こうから立ち昇る太陽を見て、生命の息吹と希望の恵みの拡がりを思うこともなく、夕には地平に沈む太陽を見て、その深遠さに心打たれることもない。

 我々は便利と共に多忙を得たが、それと全く同時に、静寂の時を失い、深遠な思いを失い、神聖な思いに浸る時を失った。そして当然の帰結として現代人の多くが信仰を失った。
 心の存在、魂の存在に対する確信を失い、来たる世界と、往きし世界の存在を信ぜず、信じるのは無常のこの世(現在)のみとなった。いや、それすらあやういものとなった。

 私は東から昇り、西に沈みゆく太陽を眺めながら、太陽を神と崇め、信仰を抱くに至った人々の心情が理解できる。時に灼熱地獄のような様相を見せるが、この地球に計り知れない生命の恵みを与え続けている。もしも、太陽が失われたなら、どのような世界になるだろうか。我々人間の命も、地上の動物たちの命も、野鳥や草木の命も一瞬にして失われるだろう。
Nature Is My Life
〝自然は我が人生〟とも、〝自然とはかけがえのないもの〟とも訳される。このシンプルな言葉の意味をもっともっと重大なこととして受け止めなければならない。自然から受ける恩恵は計り知れず、自然は我々の生命そのもの、存在そのものだからである。
 一時期、アイヌやインディアンの遺した記録を集中して読んだことがあるが、自然への畏敬の念を、現代人は恐ろしいまでに失ってしまったことを改めて痛感させられたものだった。

2020年3月9日月曜日

コラム155 <主食・副食・間食・つまみ食い>

 早朝、床の中で、どういう訳か「主食」と「副食」という思いが閃いた。主食・副食といっても食事のことではない。日々の読書も、やることも、こんなつまみ食いのような生活を続けていてはいけないと思っていたからだったろう。その都度、手当たり次第に、関心が向いたなりに、何となく読み、何となく学んでいるような生活……。比較的、継続的に取り組んできたテーマは勿論あるが、日本語のことを学んでいたかと思えば、美術や詩歌のこと、また茶の湯を学んでいたかと思うと原発問題、パレスチナ問題……と関心があっちに飛び、こっちに飛びして、生きる腰の構えをしっかりしないまま、まるでつまみ食いのような人生を送っている。その割に私の人生の主軸となるべき建築のこと、住宅のこと、生活のことについては思いの外、学びが少ない。これでは主食と副食が逆転しているようなものではないか。さまざまことをさまざまに学び、学びが広範囲に及んだといえば聞こえはいいが、私はもっと自分の主食となるべきものをしっかり見定めて、それを日々しっかり摂取し続けることを基本としなければならないと思ったのだった。私の主食にあたるものとは何か、と考えるとやはり人間としてのあるべき姿を追い求めることであろうと思う。地球上に生を受け、地上に送り出された意味を考えれば、やはりそれが常に中心課題でなければならないと思う。
 第一に心の問題、精神の問題、魂の問題……、そうなればどうしても宗教上の問題と関わりをもってくる。
 第二の副食たるものの中心は何かと考えれば、私の人生上の職業の選択は建築の中でも住宅であるのだから、この分野にもっと深く、幅広く、精魂を込めて取り組むことだ。それを通じて、人々に安らぎと平和を与えることだ。そのためにも、せっかく日本人として生まれたのだから、日本文化の代表のひとつ、茶道の精神も窮めたいし、古典文学、詩歌、古典芸能、特に能などを通じて、日本語及び日本人の精神に精通したいものと思う。
 学びたいことは他にも色々あるが、主食・副食たるものと、間食・つまみ食い的なものとをしっかり見きわめて取り組んでいこうと思う。バランスのとれた生活をしていくことが大切なのは食生活と同じであろう。
 今日までは、おぼろげに目標はあったにせよ、しっかりと見定めた目標が無かった。師・白井晟一に若い時分に言われたことが思い出された。〝構えをしっかりしないで色んなことを学んだとて何のためにもならないぞ!〟
 あれは当時の私の心境をさしてのことであったろう。このことに改めて気付かされた今日をもって私の人生の学びは一段しっかりしたものに変わることだろう。



2020年3月2日月曜日



コラム154 <言葉が軽いことへの戒め> 

 ものづくりの中でも、特に家づくりは人間どうしの共感・信頼関係というものが無ければ始まらないものだ。さりとて、出会いの最初からそんなに深い人間関係が築かれているはずもない。相方共に打ち合わせを重ね、つき合いを重ねる過程で徐々に醸成されていくものである。
 「言葉が軽い」というのは、徐々につくり上げられるべきこの関係が、最初から存在しているかの如くに錯覚しているところから生じてくるのではないかと思う。
 私の書いた本を読み、「住まい塾」が特集された雑誌などを見て訪ねて見えたのだから、すでに共感と信頼感をお持ちなのだろうと担当のスタッフは考えるのかもしれない。それも勿論あるだろうが、残念ながら一冊の書物が人間と人間を精神的に深く結びつけた時代は疾うに去って、いかに精魂を込めて著された本も、雑誌も、ほとんどが「情報」の渦の中に巻き込まれていく。真の信頼・共感関係は未だに、生身の人間と人間の間に築かれていくものであることを忘れてはならないと思う。
 
 こちらが(あるいは逆の場合もあるが)親しげに話すのに対して、相手はまるで以前からの知り合いの如くに話されることに時に不快を感じることもあるのである。
 〝住まい塾のスタッフはなぜそんなに親しくもない建主に対して、親しげな口調で話をするのですか?……〟
 実際にある人から私に届いた手紙の一節である。
 人間どうし感応し合って自然に ”親しく”  なっていくのはいいが、注意せよ、 ”親しげ ” になっていいことはないものだ。
 これが軽い言葉となって表れるからである。
世には慇懃無礼(いんぎんぶれい)ということもあるし、礼儀作法の手引書から抜け出てきたような堅苦しい者もいる。こうしたタイプを快く感じない人がほとんどであることは救いだが、いずれにせよ、自然体であることが一番だろう。そうあるには無理をせず、常に自分を自分らしく磨いていくことが必要になるのだが、なぜかこれが一番むずかしいのである。

振り返ってみると、山中での人間つき合いは互いに自然体であることが多いのに気付く。自然環境の中では、つき合いに余分な要素が除かれ、自然体でのつき合いが一番似合うと、おのずから感じ取るのだろうか。あるいは気の合った人間としか付き合わずに済む、ということもあるのかもしれない。どんな場合でも、あまり虚飾や肩肘張って生きるより、地位だの、名誉だの、金持ちだのといったそんな余分な要素はなしにして、リラックスした関係でつき合うのが人間にとって一番大切なことではないだろうか。
 あの世に持っていけない余分なものにこだわりながら生きている人間達を、ピーチクパーチクの野鳥たちも牧場の牛や馬、野生の鹿たちも、気の毒に思って見つめているのではないかと思う。