2016年10月31日月曜日


コラム 61  枯れ枝
 

枯れ枝も

止まり木ぐらいには なれるもの

小鳥も安心、みんな安心

2016年10月24日月曜日


コラム 60  熊が出た!  

『熊に注意!』のお触れが回った。2009年のことである。それまで八ヶ岳山麓西北面には熊はいないと言われていた。その前年に、別荘地に熊が出たとの噂が立った。その時には〝熊みたいな男に出会ったんじゃないの?〟などと冗談を言っていたが、その後標高の少し下がった農場で二頭の足跡が確認された。 

秋田生まれの私には鉄砲打ちの叔父がいて、熊を仕留めたなどという話を耳にしながら育ったから、そんなに大騒ぎすることもないのに、と思っていた。
そんな私を心配してのことか
〝タカハシさん 熊、本当に出たらしいですよ、
野菜なんか外に出しておかない方がいいですよ〟
とか
〝夜行性も強いから夜は出歩かない方がいいですよ〟
と注意してくれる。
まだ出会っていない私はそれでも、その時にはちゃんとあいさつしておきゃあ大丈夫!・・・・・出会ったらね、〝あっ、お元気ですか?〟それでも通じない時には〝Nice to meet you!〟とかね・・・・・などとまだ冗談の域を出ない。それに、この辺でしばしば出会う日本カモシカの後姿は熊にそっくりだから、これを熊と見間違えた人もいたに違いない。 

出合ったら死んだふりをするのがいいと、その振りをしたら、あの熊手でゴロゴロとやられたという人がいた。その後どうなったかは詳しく聞かなかったが、本人がまだ生きているところを見ると大丈夫だったのだろう。それにしても生きた心地がしなかったに違いない。
鉄砲打ちの叔父から蝮(まむし)に噛まれた時の対処法は聞かされていた。二股の枝を切り、それで首根っこをぎゅんと押さえつけて首を切り、生皮をべりべりと剥いでその肉をその場で喰う、というものであった。
だがこんな知識も耳学問ではどうにもならず、咄嗟に役立つのは経験である。 

熊に襲われたあの主。ゴロゴロのあとどうなったのか今一度聞いてみたいものだが、大山倍達のような訳にはいかなかったようだ。死んだふりをして片目を開けたら、熊がまだそこに居たという。それ以上話したがらないところを見ると、あまりかっこいい退散劇ではなかったのだろう。  (写真は日本カモシカ)

2016年10月17日月曜日


コラム 59  大スズメバチ 大発生  

今年はスズメバチの当り年である。
トイレでしゃがんでハチに刺された、という人がいる。おならをした途端にやられたというからおかしい。フタの裏でまどろんででもいたのだろう。本人も驚いただろうが、ハチだってさぞかし驚いたに違いないのだ。 

窓を開けていると大スズメバチが毎日5~6匹は入ってくる。机の上に飛んで来たり、ガラス窓でもがいたりしていると至近距離で言葉を交わすことになる。もう友情を感じる程だ。
近くに来ても何事も無いかのようにゆったりと構えていればどうってことはないし、自然界の仲間のように感じれば、殺気立つこともない。だがこちらが驚いて手で払ったり、大声を上げて騒いだりすれば刺されること必定である。 


これは、対人間においても同じである。養蜂家の中には手袋もせず、網もかぶらずに平気な人がいる。ああいう人は刺されても平気なのだと思っていたが、そうではなくハチの方が刺さないものらしい。(時には刺されますよ、と言ってはいたが、そんな時でも手加減するらしい。)なぜそうなのか?これはきっとハチの心を苛立たせる邪気というものが少ないからなのだろう。この事実には学ぶことが多い。 

〝何もしなければ刺されない〟と聞いていたから何もしなかったのに、刺されたという人が時々いる。私が思うに、表立っては何もしなかったが心の中では大いにしてしまっているのではないか。〝寄って来るんじゃない!〟〝ヒェ~ コワ~イ!〟〝向こうに行け~ッ!〟こんな感情がきっと向こうに伝わるのである。野生動物の邪気を瞬時に感じ取る能力にはきわめて鋭いものがある。手にエサをのせて伸ばせば、リスも野鳥も安心してやって来る人を私は知っている。この人の表情を見ていてもそう思う。悠然と構える者に、この邪気は立たないのである。
  山中での会議中、作務衣の左袖からスズメバチが侵入した。それを見た人が〝あぁ、ハチ ハチ!〟と言ったが、その内背中に回ってモソモソ動いている。私は部屋の外に出て上着を脱いで逃がそうとしたが、その前に右袖から出て行った。こんなものである。

2016年10月10日月曜日


コラム 58  野の花  

野の花は見る人に安らぎを与えます。それは自己主張が無いからです。
野の花は〝きれいだねえ〟というと〝そう?〟と、そ知らぬ顔をしています。
野の花は化粧したりしないから、〝ワタシ キレイデショ?〟などとは言いません。
摂理に従って咲いているだけ。おまかせの自然体。 


人間が人を疲れさせるのは、自己主張があるからです。
相手が理解しないとなると・・・・・野の花と、何と違うことでしょう。 

〝「活ける」花は自己主張が大きくて相手を、疲れさせます。
花を材料として私の妄想を表現しようとしているのですから。花を通して相手の自己主張と、盲想におつきあいせねばなりませんから疲れてしまいます。花展でくたびれるのは、それです。〟
尼僧 青山俊董さんの言葉です。 

今は自己主張の世界――みんなそれをよしとしています。そしてみんな疲れています。
いつの日か、野に咲く花のような存在になりたいものです。

2016年10月3日月曜日


コラム 57  切磋琢磨――死ぬまで切磋、死んでも琢磨  

人間は自分のしたことが他人に喜ばれると、自らも喜びを感じるように出来ている。これは人間に与えられたきわめて貴い特質のように思われる。だがこうした感情は人間にばかりでなく、動物にも植物にもあるという。おそらく自然界全てに同じ原理が働いているのではないかと思う。この原理が破綻なく順調に働けば、感謝の感情が連鎖してやがて穏やかで平和な社会へと繋がっていくことだろう。 

だが、これが逆に出ることがある。
人間は不完全なものであれば、思い違いもあれば失敗もある。良かれと思ってしたことが裏目に出ることだってある。配慮に不足することもあれば、熱意に欠けることもある。これを深い人間洞察と寛容な心で受け止めてくれる人もいるが、そんなことは許さないとばかりに、愚痴や不満、時には怒りや憎しみにまで発展する。こうなれば人と人との関係は平和とは真逆の方向に向かうことになる。 



家づくりの道を歩んで50年、人に喜びを与えることの困難さを痛感する。喜びの波紋をと願っても、人も天もおいそれとそれを許してはくれない。なぜならこの仕事は建よりはるかに色濃く人間を相手にする仕事だからである。それ故、人間が試される。人間そのものの出来が試される。これは住宅設計者に課せられた生涯の試練である。切磋琢磨。この中で人間は鍛えられ、一歩一歩人間としての完成に向かう。しかしこれは、とても一代や二代では到達し得ないものだ。 

〝暖かい心は 仏の心
冷たい心は 悪魔の心〟 

幼い頃から聞かされたこんな素朴なことばが、最近胸に沁みる。