<マンデー毎日 (ブログお休みします)>
毎週月曜日に続けてきました「── 信州八ヶ岳── 高橋修一の『山中日誌』」ですが、
筆者体調不良につき、4月、5月はお休みとし、6月から再起予定です。
しばしお待ちください。
コラム462 <真理>
ある高名な師匠の元に熱心に弟子入りを志願する者がいた。やがてその熱意が認められ、念願適(かな)って弟子入りすることが出来た。
その時点では師のレベルは95に達していた。入門したての弟子のレベルは50にも達していなかった。弟子は熱心に修行に努め、成長し、85程のレベルに達した時どのように思ったか。
“私も成長し、師との距離もだいぶ縮まった・・・〟
その時の師のレベルは96に達しつつあり、いよいよ悟りに近づいた境地であった。しかしこれに対して真理は説く。
〝師との差は以前にも増して、はるかに大きくなっているのである・・・〟
と。
師は通常ならば弟子達より先に死の床につく。弟子達はこの真理を悟らぬまま、いいかげんに年老いてポツリ、ポツリと死んでゆく。
こうして真理は悟られぬまま置き去りにされ続ける。当然、師を越える者も出ない。何と悲しいことではないか。
うろ覚えながらこの話を私は能の『花伝書』で知ったと長年思っていた。そう思って花伝書を再度繙(ひもと)いてみたがこうした節はどこにも出てこない。あるいは何かほかの仏典にあったのかもしれない。夢の中で見た可能性もある。 誰か知っている人がいたら教えてもらいたい。明らかにひとつの真理だからしっかり胸に刻んでおきたいのである。身近に存在する真理を置き去りにしていく訳にはいかないからである。
コラム461 <他人の苦しみは判り得るか②>
病人の苦しみは当人以外には判らない、とは自らも感じていたが、何ということもなく当然のことのように考えていた。
だが最近はそれが恵みであるとさえ感じるようになった。他人の苦しみを判る原理を神様がおつくりになっていたなら、医師は長くは務まらないだろうし、命がいくつあっても足りないようなことになるだろうし、連れ合いはじめ、数え切れない人達の好意と世話を受けているのだから・・・。
苦しむは当人一人で十分。苦しみを察してくれたり、気使ってくれたりする人間のやさしい心使いは勿論うれしいが、この苦しみを判ってくれたりするのは苦しみの連鎖であって神様はそれをくい止めてくれているのだ、と思うようになった。以来一人で苦しむのは、眠れない程苦しい日々が続こうともある意味自分自身に閉じられた問題として考えられるようになって、少し気が楽になった。
最も苦しんでいる人は辛い顔を見せないかもしれない。最も悲しんでいる時人は悲しい顔を見せないかもしれない。その人の真の状態を知るには、人の心の内を察するしかない。豊かな感性・情感が無ければ、人の真の状態を察することはできない。察する力が無かったら、うわべのことしか判らない。
病院で言葉を交わせるようになった人の殆どは
〝病の苦しみは、なった者にしか判らない〟
と言う。苦しみの少ない病、重い苦しみを伴う病等、人それぞれだが、心の問題を含めて、他人の苦しみは他人には判らないものだとつくづく思う。これは私のひとつの悟りである。
コラム460 <他人の苦しみは判り得るか①>
救急病院での二か月の入院のあと回復期のリハビリテーション病院に移る。この転院先は自分のほうで探さなければならないから、先妻に苦労をかけた。二、三候補に挙がった。一か月程空くのを待たなければならなかったが病院設立の志のよさそうなところを選んだ。入院期間のMAXは6か月。後半は上田市山中にある鹿教湯(かけゆ)病院に転院した。最初からそこに行きたかったが、身体が全く動かぬ状態でそんな遠くの病院に入院するのは無理であった。
5月から7月までの3か月間、松戸リハビリテーション病院に入院。この病院は新しくきれいであったし、従業員の人々も皆気持のよい人々であった。3か月間で不快な思いを一度もしたことがない。特に理学療法士の荒堀さんは後半の転院までには一本杖で何とか歩けるように、と懸命に努めてくれたが、途中急性胆のう炎を起こして転院手術を受けたので、この2~3週間分が及ばなかったと悔しがった。鹿教湯病院には予定通り8月には転院した。一本杖で何とか歩けるようになったが、足どりはまだおぼつかなかった。
一年目の主治医は院長の大沢先生が担当して下さった。入院初日、面接の中で大沢先生はこうおっしゃった。
〝医者ってのはねえ、判ったような顔をしてやってるけども、患者の苦しみってのは判らないもんだよ・・・。〟
その表情はおだやかで人間的であったことも手伝って、そのフランクな語り口に即、親近感を覚えた。以来毎年廊下でウォーキング中にお会いする程度であるが、親しみを感じ続けている。あれからもう8年が経つ。2年目からは瓦葺(かわらぶき)先生が主治医を務めてくださるようになった。毎冬2か月余りの入院リハビリ生活を続けているが、毎年院内で幾人かの話し相手が出来る。毎年お会いする患者さんもいるが、私が必ず聞くのは第一に仕事柄
〝家に帰りたくないですか?〟
ということと、第二には
〝病んでいる人の苦しみは当人以外には判らないもんですねえ。〟
の二つである。第二の質問にはすべての人が同意するが、別の施設内でのことであったが、第一の質問にはこれまで一人だけ帰りたくないという人がいた。どこかの校長先生をしていた方らしく、99才というのにしっかりした方だった。どうも家族関係に問題があるようだった。〝こういうところに居ると何も困ることはないんだが、話し相手がいなくてねえ〟とポツリとこぼすように言った。この日以来、家とは一体何なのだろうと、改めて考えさせられるようになった。
コラム459 <専門家の陥(おと)し穴>
多くの医師は病を看て人を看ない。私の仕事は住宅の仕事だから、住宅を見て人を見ない設計者が殊の外多い。建物への要求ばかりを聞いて、人間あるいは家族を顧(かえり)みなければ、多く失敗する。
仕事において、この人間を見ない失敗をどれ程多くの専門家がしているだろうか。
その原因は専門家というものは多く人を見るだけの人間の力量を欠いているからである。必要とさえ思っていないから死ぬまで気づかない。きっと死んでも気が付かないに違いない。それは驕(おご)りの一形式だからである。
人間としてのやり直しである。人生のやり直しである。
この時代は多くのモノに恵まれた。カネと科学技術。しかし一方で大きく、深く失ったのはそうした価値観であり、人間観である。まるで注ぐ愛情も鑑識眼も無いままモノを集める美術・古美術・骨董品の蒐集家のように・・・。
コラム458 <百聞は一見に如かず>
出典は「漢書」とあるから大昔から言われ続けてきた言葉なのだろう。確かにこれもひとつの真理である。
だが、大方百聞しても悟れぬ者は一見しても悟れないものだ。それが私のこれまでの経験上の実感である。現代に近づけば近づく程この現象はひどい。
感性に張り無く、緊張感が崩れているからである。おごれる者──これもそのひとつである。素直であり、謙虚であり、常に自分の中に不足を感じている者──そんな鋭敏な感性をもってして初めて
〝百聞は一見に如かず〟
なのである。百聞しても一見してもボケーッとたるんでいるようでは何をかいわんやである。
たしかに百聞しても捉えられなかった真理を一見して初めて捉えられることもあるだろう。しかしこの意味を取り違えてはならない。如かずとは及ばぬという意味であって、百聞しても悟れぬ者が一見したら悟れる、あるいは百聞しても理解せぬ者が、一見すれば理解できるようになるということではない。百聞には百聞なりの意味と価値があり、一見はそういう者に対してさらに意味を加えるものだろうと思う。
百聞に意味を見い出せぬ者は一見しても百見しても一聞にも及ばぬのである。いずれにせよ鋭敏な感性が底辺に無ければ、百聞も百見も意味を為さないのである。
この鋭敏な感性とは天性のもの、ということもあるが、日常の生活の中でこそ磨かれていくものである。
コラム457 <人間とはかくも成長しないもの>
吾十五にして学に志し
三十にして立ち
四十にして惑わず
五十にして天命を知り
六十にして耳順(したが)い
七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰(こ)えず
孔子(前551~479)
40,50はハナタレ小僧
60,70は働き盛り
80,90になって迎えが来たら、100まで待て、と追い返す
渋沢栄一(1840~1931)
この二人の間には2000年以上の時が流れた。その先にも、後にも、数多(あまた)の賢人達が遺した言葉が、書物が数え切れない程ある。
現代の我々は学ぼうと思えばそれを学び得たはずである。しかし、人間とは成長の糧(かて)がいか程あっても成長し得ないものだなあ、と上記二つの言葉を読んで思った。しかも現代は長きに亘って続いてきた書物文化が衰退はおろか崩壊の危機にすらある。本は売れず、読まれず、街から本屋さんは次々と消え、出版社は生き残りをかけ喘(あえ)いでいる。情報の量だけは間便に入手できるようになり、人間そのものは益々幼児化している。長寿にはなったが、なんと寂しいことではないか。
コラム455 <人間っていいなあと思う時>
美しい音楽に出会う時
美しい器に出会う時
心の美しい真実の人に出会う時
こういう時私は人間に生まれてよかった、とつくづく思う。
美を愛する人に出会う時
人間であることを求め続けている人に出会う時
私は人間であって、よかったと思う。
それが最近そのような真っ当な人間に出合うことが極端に少なくなった。
その点私は恵まれていた。
心やさしき人々に多く出会った。
人間であることの意味を深めている人々
ひたむきに何かを求めて生きている人々にも
多く出会った。
私の人生に喜びと彩りを与えてくれた。小さいことでいい。私と出会った人に何がしか彩りを添えられる人間になってから、この世を去りたいものだ。
コラム454 <貧乏であることと、貧乏臭いことと>
真に志なり、フィーリングが合って親しくなっていくのはとてもいいことだが、そんなことでもないのに親し気にふるまうのはかえって印象を悪くする。
私はスタッフによく言う。
〝貧乏はいいが、貧乏臭いのは住宅の設計者として不合格だ〟
と。豊かな住生活を求めての仕事人が、貧乏臭くてどうする。
学生時代から私は仲間達によく言われたものだ。
〝タカハシは金が無いのにいつも金のあるような顔をしているよ〟
と。
別に意気がっていた訳ではない。自然にしてそうなのである。
大学が新宿区神楽坂にあったから、バーなどにもちょくちょく行った。皆がサントリーレッド、よくて角やオールドを頼むのに、私はブランデーを頼んだ。どうも私の口にはウイスキーが合わず、ブランデーの方が馴染みよかったからだ。
いまだにそうだが割り勘というのも性に合わない。どうしてか理由は判らない。こんなことがそのような印象を与えたのかもしれない。私はこう言われてきた自分を、今どう思うかと問われたらこう答えるだろう。
〝それが私の住宅設計者としての最大の素質である〟
と。
貧乏なんだから、貧乏臭くなるのは当たり前じゃないか、という人がいるが、それは違う。貧乏であることと貧乏臭いのとでは訳が違う。金持ちにだって貧乏臭いやつはいくらでもいる。それは金以外の豊かさを、内にどれだけ持っているかによっている、と私は思う。金が無いなら、その他の豊かさをいっぱい持とうよ!人の苦しみを思いやる心もそのひとつであるし、音楽への関心、美へのこだわり、古美術・骨董を含めたところの生活の器へのこだわり、灯りへの関心、精神や志まで含めたら豊かさの素は限りなくある。
これからでも遅くはないよ。そのためにこそ生きているようなものだから・・・。
コラム453 <朝の感謝の祈り(続き)>
医療関係の皆さん。
「イムス三芳総合病院」の院長、猪野屋(いのや)先生、いしもと脳神経外科の石本先生、「鹿教湯病院」の一年目、主治医を担当してくださった大沢院長、二年目以降今日まで主治医を務めてくださっている瓦葺(かわらぶき)先生、そして懸命にリハビリに取り組んでくださったセラピストの須恵さん、西条さん、その他沢山の看護師さん達、それに地味な働きながら多面的に支えてくれた介護士さん達、ありがとうございました。鹿教湯病院の瓦葺先生は毎日病室を訪ねてくださり、色んな話をして医師と患者の関係を越えて、友人のようになりました。須恵さん、西条さんも同様です。雪の日も凍てつく凍結の日も、朝・昼・夜と三食を準備してくれた栄養科の皆さんありがとうございました。
八ヶ岳の山小屋に滞在中は、数年前から「ライフクリニック蓼科」の麻植(おえ)先生にも世話をかけています。しっかり向き合ってくれて、人間味のあるお医者さん達に恵まれて、私は幸せ者です。
姉は〝それはあなたがいい人だからよ〟と言ってくれますが、それは当たり前です!
その点連れ合いの信ちんは手厳しい。〝調子はどう?〟と聞くからこちらは〝苦しい〟と言う。〝その苦しいって言葉、禁句にしたらどう?だって苦しいと言ったって苦しみが和らぐ訳でなし、まわりの聞かされる方も幸せな気分にならないわよ〟それもごもっとも。
だから最近はこの苦しいという言葉は医療・介護関係者以外には極力使わないようにしています。辛さ・苦しさなんて人知れず皆持っているんだから・・・。だけど連れ合いとは気心知れて仲よしだから、大丈夫。
そして何よりも住まい塾運動を下支えしてくれた沢山のユーザーの皆さん、個性的で、想い出深い人だけでも記し切れない程です。心からありがとうございました。楽しかった家造りの仲間達、賛助会及びそこに連なる数え切れない職人達、特に鍛鉄を中心とした造形家松岡信夫さん、庭づくりを担当してくれた東京の栗田さん・奈良の牧岡さん・大阪の住谷さん、ありがとうございました。
最後に、倒れてから約半年間、体調が悪い中、懸命に看病してくれ、いいリハビリ病院をさがすのに奔走してくれた先妻敦子にも、また私の必要を察してポータブルオーディオとジャズCD、それに自分が練習に使っていたというムエタイボクシンググローブを持ってきてくれたヴェトナム在住の息子の漢にもありがとう、と言います。
心優しき人々に幸いあれ・・・と祈りながら、ペンを置きます。
コラム452 <朝の感謝の祈り> ──世話をかけた仲間の皆さんへ──
宇宙を司っている神さま、おはようございます。日々、守りと励ましをいただき、感謝しています。また今日も新しい命をお与え下さりありがとうございます。この丈夫な肉体と強き魂をお与え下さりありがとうございます。この命を支えるために、一刻も休まずに働いてくれている多くの内臓さん達、ありがとう。また頭脳さん、脳神経さん、脳出血で傷めた視床部さん、前頭葉、側頭葉、大脳、小脳さん、後頭部さん、後遺症として残ってしまった左半身のマヒ、それに伴う緊張、つっぱり、関節の痛み、苦しみ等の原因に通じている扁桃体さん、懸命にがんばってくれてありがとう。
連れ合いの信ちんこと井出信子、時々ケンカしながらもわがままな私によく寄り添ってくれてありがとう。恵子姉、郁子姉、倒れた直後から沢山気遣ってくれてありがとう。皆の支えがなければ今日まで命をつなぐことは難しかったことでしょう。
実のきょうだいのように育った本家の長女静子姉さん(イトコ)、その娘の有路百(もも)ちゃん(ハトコ)、沢山、沢山心配してくれてありがとう。教会仲間の内田薫君、令子ちゃん、愛を沢山届けてくれて、ありがとう。
また、いつも励まし続けてくれたご先祖様、父さん、母さん、秀男兄、それに娘の葵、源吉おじいさん、源吉おじいさんから遡(さかのぼ)ること三代続いた仁左エ門おじいさん達、特に天井板にくっきりと姿を見せていつも見守ってくれた源吉おじいさん、ありがとうございました。皆共に居てくれてありがとうございました。
別荘地にあっては馬場夫妻や吉井さん、養蜂家の石倉さん、何かにつけ大変お世話になりました。ありがとう。
住まい塾スタッフの、特に東京本部の門田君、菅谷君、それに大学時代の三年後輩の古賀繁男君、学生時代からの親友、高田一(はじめ)君、独立して活動している横地君、沢山沢山、世話をかけました。大阪本部のスタッフも皆でわざわざ遠くまで見舞に来てくれてありがとう。ブログの継続を支えてくれた大阪本部の筒井さん、東京本部の山上君ありがとう。
私の愛する山小屋を造ってくれた高木棟梁、私が山小屋滞在中には毎月のように訪ねてきてくれました。沢山沢山気使ってくれた久道棟梁、リハビリ病院に健康にいいという白神山地の水を、重いのに沢山届けてくれた渡辺左官さん、それに遠く奈良から揃って見舞に来てくれた巽(たつみ)棟梁とその弟子達(亀ちゃん、高橋君)に心から御礼を言います。ありがとう。
森田先生はじめ茶の湯の仲間達もありがとうございました。3年で復帰すると誓った約束も果たせず、夢ばかり見ています。その道をもっと深めたかったのにごめんなさい。