コラム461 <他人の苦しみは判り得るか②>
病人の苦しみは当人以外には判らない、とは自らも感じていたが、何ということもなく当然のことのように考えていた。
だが最近はそれが恵みであるとさえ感じるようになった。他人の苦しみを判る原理を神様がおつくりになっていたなら、医師は長くは務まらないだろうし、命がいくつあっても足りないようなことになるだろうし、連れ合いはじめ、数え切れない人達の好意と世話を受けているのだから・・・。
苦しむは当人一人で十分。苦しみを察してくれたり、気使ってくれたりする人間のやさしい心使いは勿論うれしいが、この苦しみを判ってくれたりするのは苦しみの連鎖であって神様はそれをくい止めてくれているのだ、と思うようになった。以来一人で苦しむのは、眠れない程苦しい日々が続こうともある意味自分自身に閉じられた問題として考えられるようになって、少し気が楽になった。
最も苦しんでいる人は辛い顔を見せないかもしれない。最も悲しんでいる時人は悲しい顔を見せないかもしれない。その人の真の状態を知るには、人の心の内を察するしかない。豊かな感性・情感が無ければ、人の真の状態を察することはできない。察する力が無かったら、うわべのことしか判らない。
病院で言葉を交わせるようになった人の殆どは
〝病の苦しみは、なった者にしか判らない〟
と言う。苦しみの少ない病、重い苦しみを伴う病等、人それぞれだが、心の問題を含めて、他人の苦しみは他人には判らないものだとつくづく思う。これは私のひとつの悟りである。