コラム346 <感謝の意味について>
人は ありがとうの数だけ賢くなり
ごめんなさいの数だけ美しくなり
さよならの数だけ愛を知る
映画監督大林宣彦さんの言葉だそうである。上の姉が教えてくれた。
食事の前に感謝の祈りを献げる。
今日一日の命を支えられたことに対して、多くの好意と善意に囲まれていることに対して、特に世話をかけた人々の親切に対して、そしてこの苦しみに耐え続けている自分の心と体に対して・・・。
だが一口に食事とは云っても、肉でも魚でも野菜でも、私の、あるいは我々の命を支えるために他の命を戴いていることにかわりはない。
だからこの命達が私の体内に入って形を変えて、病を癒し、その力をもって人々の幸せのために働くことができる身体になれるようにと、祈る。
感謝の祈りを献げている内に、ふと気づいたことがある。感謝の中にはそのすべてに対して謝りの気持が含まれている、と。
文字通り、謝意には〝ありがとう〟という感謝の気持と同時に〝ごめんなさい〟という謝りの気持の相方が重なっていてこそ真の感謝の祈りなのだ。
人間に食べられるためだけに育てられ、食材としてその命を犠牲にする ─── それを人間は自らの命の糧として戴くのだから、人間は自分に与えられた資質を通して何かのためにせいいっぱい献身しなければならない存在なのだ。そのためにはまずは自分を生かすこと、そして他人のため、苦しんでいる人々のために少しでも役に立てる状態に早く恢復することだ。そう気付かされた今、それを為せぬまま死ぬ訳にはいかない ─── 私は、そう思っている。約6年前に脳出血で倒れて以来、ほんとうに沢山の人々の世話になってきた。その人達の助けがなければ、私の日常生活は成り立たない。だが、世話にばかりなっているというのは切ないものだ。今のこの私にできることは何か?と自問するが自問するだけ、切なさが募る。
人間はやはり、人のためになりたいと望む生きものなのだ。だがそれがほとんど出来ないのが辛い。大林宜彦さんの言葉のようにスマートにはなかなかいかない。が、おそらく上記の言葉が真実なのだろう。