2023年12月18日月曜日

 コラム352 <出版文化の衰退②──人間が人間らしくあるために> 


 私は出版文化の急激な衰えを憂えています。40年近く交流を続けてきた八ヶ岳山麓の今井書店もこの三月でとうとう店を閉じました。どの位衰えているのかは私には判りません。しかし本が読まれなくなり売れなくなって、町場の書店がどんどん消えていっていることだけは事実です。


 私が学生だった頃は月刊の建築雑誌を3冊も4冊も定期購読したものですが、今は建築科の学生ですらそんな定期購読者は激減していると聞きます。金額的に見ると、その分スマホに消えている計算になります。


 住まい塾では住宅の「設計者養成塾」を長年続けていますが、その養成塾で私が冗談まじりに〝一流の住宅設計者を目指そうというんなら、ユニクロパンツなどはいているんじゃないぞ!〟と言ったら〝タカハシさんは何をはいているんですか?〟と質問が出た。私はこれも冗談まじりにですが

  〝KENZOよ〟と答えたら返ってきた言葉が

  〝えっ、丹下健三さんって、パンツのデザインもしているんですか?〟

世代の差とはいえ、開いた口が塞がらないとはこういうことを云うのでしょう。

 私は先般新型コロナウイルスで亡くなられた国際的なファッションデザイナー高田賢三さんのことを言ったつもりでしたが、今の建築科の学生は建築についても、他分野についても全く関心も勉強も足りません。4年間何をしてきたの?と唖然とすることが少なくないのです。

 こうした現象と出版文化の衰えとはどこかで通底していると感じるのは私だけでしょうか。


 出版界の名門岩波書店も存続の危機をささやかれた時期がありました。あまり大衆受けしないような価値ある映画を、それでも観て欲しいと上映し続けた「岩波ホール」も閉館しました。東中野にもそのような映画館がありましたが、今はどうなっているでしょう。


 我々は何を得、何を失っているのでしょうか?それこそどうでもいいことを沢山得て、失ってはならないものを失い続けているように思えてならないのです。

 地球壊滅は人間解体と歩調を合わせてやってきます。人間が何を養い育てるべきかは、胸に手を当てて考えれば、皆すでに判っています。人間であること、人間らしくあることを人生の中で深めること──それ以上に大切なことが、どこにあるというのですか?この地球上に生まれ出た意味と価値が、無知・執着、物欲にあるなどと教えた時代がどこにあったでしょうか。





 


2023年12月11日月曜日

 コラム351 <出版文化の衰退①──よき本をもっと読みましょう>


 本の時代は過ぎ去りつつあります。日本の書物は昔は毛筆書きの和綴(わと)じであったし、同内容のものを手元に置くには所有している人から借りて、写本をするしかなかったのです。その苦労によって、身につくことも大きかったでしょうし、受けた影響も深かったに違いないのです。

 しかし大量に機械印刷され、本も安価に手に入り、気軽に読めるようになった分、得たものも大きかった代わりに、それ以上に失われたものもきっと深かったに違いないのです。そして今日、本が売れない時代となりました。多くの人が本を読まなくなったからです。必然多くの出版社が苦境に立たされています。出版文化の衰退は、人間精神の衰退に直結します。


 今多くの人が相手にする「Amazon」も巨大な本屋さんのひとつだという人もいますが、町場の大型書店とも違うし、本がこよなく好きで書店を始め、長い時をかけてやっと大きくなった大型書店とも性格を異にします。

 新刊本に限らず中古本・古書なども、だいたいが即検索できて、しかも家に居ながらにして数日内には届くというのですから、便利この上ないとも云えますが、こんなことで本当にいいのか、と私は思います。こうした便利によって足を掬(すく)われて失われたものも沢山あったことに、我々は気づいていません。

 これを流通改革の勝利などと呼んでいいものかどうか、他の世界と同様、地道に積み上げてきた町の本屋さんをどんどん駆逐(くちく)していく姿にITの勝利などと拍手を送る気持には私は到底なれません。小規模な町の本屋さんと市井(しせい)の人々との素朴なふれあいの寸断。私が40年近く親しくしてきた信州八ヶ岳山麓の本屋さんも、ついにこの三月で閉店に追い込まれました。さまざまに工夫し、努力してきた本屋さんだっただけに、私の思いは時代の流れというだけでは片付けられない憤りにも似た思いが入り混じって複雑です。


 古くから人間が人間として成長するのに果たしてきた大きな力は価値ある本にあったからです。それは人間と人間の出会いに近かったのです。よき本を読みましょう。価値ある本を読みましょう、そして人と人との出会いを大切にしましょう。そうした場を大切にしましょう。


 私の訴えはきわめてシンプルです。部屋に居ながらにして翌日には届くのがそれ程ありがたいことですか?そんなこと、どうってことないじゃありませんか。人と人との関係を大切にしながら、よき本をもっとじっくり読みましょう。





2023年12月4日月曜日

 コラム350 <読んで知ること、と身につくこと> 


 私はこれまで仏教関係の本や、キリスト教関係の本、その他人間の生き方に関する本を随分読んできた。教えられることも多かったが、今にして痛感するのは「学び・知る」ことと「身につく」こととの違いである。


 「身につく」とは日常生活の中で自然な形で実践できるようになることである。「知ること」は学び、研究すれば、程度の差こそあれ誰にでもできることだが、自然な形で実践できるようになるまでに「身につく」となると、これは容易なことではない。専門学者の中に知識人多くして、実践者が少ないのはそのためである。その時、知は「痴」となる。痴は癡とも書くが、知は古(いにしえ)から知る病、疑う病に陥(おちい)りやすい、との認識がどこかにあったのであろう。


 仏教では人間の三毒を貪(とん=貪欲)、瞋(じん=怒り・憎しみ)、癡(ち=無明:ものをありのままに正しく理解しないこと)と云い、その中でも最も根本的なものは「癡」であると云うから、無明を克服するとはそれ程むずかしいことなのだろう。凡庸(ぼんよう)なる人間にはなおさらのこと、しかし与えられた人生の中で、焦らずとも一歩ずつ、この無明脱出のために歩みを進めたいものだ。


 人間としてのあるべき真理を学ぶと云っても、辞典を調べて理解できる程簡単ではなく、多くの書物を読破したところで得られるといったものでもない。実体験を重ねてこそ、やっとその一端が見えてくる類のものだ。このことは、病を得て6年間苦しみと共に歩んできた中で、今身に沁みて感じていることである。

 人間の一生涯に一定の長さが与えられているのはそのためであろうとも思われる。


 私の生家は仏教(道元を開祖とする禅宗:曹洞宗)であったし、母は万教一致を説く谷口雅春氏の「生長の家」の会員でもあった。又、私自身はキリスト教会に通っていた時期もある。ある地域の支部長などをまかされた関係で、その間に得られた経験と心の友は、今も得がたい人生上の宝となっている。為すべき使命を与えられて、せっかく地球上に生まれ出た命なのだから、求めるべきものを求め続け、為すべきことを淡々と為し続けてこの人生を生き切るのだ、と己に言い聞かせている。






2023年11月27日月曜日

 コラム349 <救急車内にも笑いあり その②> 


 転倒と言えば、これまで幾度転倒したか知れない。コンクリートの床に頭をぶつけること三回、庭先のごろた石に頭をぶつけて流血三回、その他山中での散歩中や室内での転倒を数えると20回ではきかないかもしれない。強打した時などその都度MRIを撮って確認したが、私の頭の骨は脳内と同様よほど固く出来ているらしく、異常が見つからない。〝こんどは石の方を割ってやる!〟と豪語したほどである。

 今回は脳梗塞と硬膜下血腫が疑われたが、特別新しい徴候は見当たらないという。自分では頭、肘、肩、尻、手首などさまざまなところを打撲しているから、身体全体のバランスが崩れていると感じる。左マヒ側の関節や筋肉のひきつれが強烈で、これを加速させたのは、明らかに三回のコロナワクチンの接種である。


 〝笑いは副作用のない薬〟というがどんな中にも笑いの種はある。笑える時は笑うことである。それにしても長く続くこの苦しさには、さすがに私もへこたれそうである。





2023年11月20日月曜日

 コラム348 <救急車内にも笑いあり その①>


 9月初旬から1か月余り、緊急入院を余儀なくされた。9月2日の明け方4時頃、洗面所からの帰り、転倒を繰り返して、これは異変が生じたと感じたからである。脳出血の後遺症には違いないのだが、やっと立ち上がってベッドに向かおうとするが、体のバランスが崩れて、すぐまた転倒する。これを三度繰り返した。チェ・ゲバラのことを思い出し、ならばと試みたが、左半身マヒの身に匍匐(ほふく)前進はままならなかった。


 ここは基本的に別荘地である。あまり早い時間では住民を驚かすことになるから、七時頃まで待って救急車を呼んだ。

 転倒はこのところ平均週一回程度だった。今週は転倒しないのを目標にしましょうよ、と週二回来てくれている訪問リハビリの療法士(セラピスト)と話していた矢先のことであった。〝名前が修一だから、週一回転倒するのかなあ・・・〟などと冗談を言っていたのに、この始末である。


 長い間親しくしてきた近隣の馬場夫妻が、ご主人のブルーの軽トラですぐに駆けつけてくれた。連れ合いは横浜の方に帰ったばかりであったから、救急車には奥さんの千恵子さんが同乗してくれた。しばらく走ってから、救急隊長曰く、

〝うしろに付いてくるあのブルーの軽トラは、お宅の御主人ですか?〟

〝救急車は交差点でも優先権がありますが、一般の車は赤信号では止まらなきゃいけません。救急車のうしろに付いて来るのが一番早いでしょうが、危ないですから救急車を停めて注意してきます・・・〟

 私は担架(たんか)に横になりながら、千恵子さんと一緒に笑った。我々は救急車の中で隊長が救急病院とやり取りしているから、どこの病院に向かっているか判っているが、御主人の東彦(はるひこ)さんはどこに向かっているのかを知らないから、はぐれたら大変とばかりに必死に付いて来たのだろう。


 東彦さんは私が長い間別荘地の住民の会の会長を務めていた間、事務局長を務めてくれた方である。千恵子さんは〝最近ああいうところがね・・・ちょっと・・・〟などと呑気(のんき)なことを言っている。私より4才年上の81才の男が危険も顧(かえり)みず、青い軽トラで救急車を必死に追いかけている姿などユーモラスで、とてもいいではないか。こういう一途で、少年っぽいところが長く交流が続いてきた遠因であるのかもしれない。






2023年11月13日月曜日

 コラム347 <自然の摂理に従う> 


 樹々や草花は不平を言わない。

 動植物は愚痴を言わない。

 訪れる状況の中で、淡々と生きている。

 生きられるだけ生きて、死期が来ればそれに従う。自然の摂理に従って淡々としている。


 それに比して犯す罪がはるかに深く重いのは人間である。他の動植物の生存を脅(おびや)かし、地球そのものをも破滅させかねない程になってしまったのだから・・・。SDGsなどと今頃騒ぎはじめても疾(と)うに遅いのかもしれない。

 人間が作り出した欲望に歯止めのかからぬ現代資本主義社会は、結局止めるすべを持たない程肥大化し、幾多の罪を積み重ねてきてしまったのだから・・・。海に対しても、山に対しても、緑地や地下に対してまでも自然の摂理を破壊し続けてきた。それを誰が発展と呼ぶだろう。


 不知足(足るを知らず)は人間の生き方。

 知足(足るを知る)は動物の生き方。

 〝淡々と生きる〟とは不知足、知足をも超えている。ゴータマブッダは、人間が知足の存在となるように説いたが、2000年以上経った今、人類の現状は悲しいかなこの通りである。





2023年11月6日月曜日

 コラム346 <感謝の意味について> 


 人は ありがとうの数だけ賢くなり

    ごめんなさいの数だけ美しくなり

    さよならの数だけ愛を知る


 映画監督大林宣彦さんの言葉だそうである。上の姉が教えてくれた。


 食事の前に感謝の祈りを献げる。

 今日一日の命を支えられたことに対して、多くの好意と善意に囲まれていることに対して、特に世話をかけた人々の親切に対して、そしてこの苦しみに耐え続けている自分の心と体に対して・・・。

 だが一口に食事とは云っても、肉でも魚でも野菜でも、私の、あるいは我々の命を支えるために他の命を戴いていることにかわりはない。

 だからこの命達が私の体内に入って形を変えて、病を癒し、その力をもって人々の幸せのために働くことができる身体になれるようにと、祈る。


 感謝の祈りを献げている内に、ふと気づいたことがある。感謝の中にはそのすべてに対して謝りの気持が含まれている、と。

 文字通り、謝意には〝ありがとう〟という感謝の気持と同時に〝ごめんなさい〟という謝りの気持の相方が重なっていてこそ真の感謝の祈りなのだ。


 人間に食べられるためだけに育てられ、食材としてその命を犠牲にする ─── それを人間は自らの命の糧として戴くのだから、人間は自分に与えられた資質を通して何かのためにせいいっぱい献身しなければならない存在なのだ。そのためにはまずは自分を生かすこと、そして他人のため、苦しんでいる人々のために少しでも役に立てる状態に早く恢復することだ。そう気付かされた今、それを為せぬまま死ぬ訳にはいかない ─── 私は、そう思っている。約6年前に脳出血で倒れて以来、ほんとうに沢山の人々の世話になってきた。その人達の助けがなければ、私の日常生活は成り立たない。だが、世話にばかりなっているというのは切ないものだ。今のこの私にできることは何か?と自問するが自問するだけ、切なさが募る。

 人間はやはり、人のためになりたいと望む生きものなのだ。だがそれがほとんど出来ないのが辛い。大林宜彦さんの言葉のようにスマートにはなかなかいかない。が、おそらく上記の言葉が真実なのだろう。