2015年12月21日月曜日


コラム 16 <面倒を先に立てちゃあ、おしまいよ> 

 カツオ節だって 
     パックがあれば
     ちゃんと削らなくなるよ。 

 炊飯器だって
     電気釜があれば
     土釜なんか使わなくなるよ。 

 そのほうがうまい、と判っていてもね。
 こうしてカツオ節名人は廃れ
     土釜屋さんはつぶれていく。 

 削りたければ、パックは買わないこと、
土釜で炊きたきゃ、電気釜は置かぬこと。 

徹すればなんてことはない。
 〝面倒を先に立てちゃあ、
                           おしまいよ〟

2015年12月14日月曜日


コラム 15 <共に茶を飲む> 

 山小屋で茶を飲む時には、忘れなければだが、だいたい仏さん達と一緒に飲む。私の机の上には母と娘の写真が置いてある。本部と山小屋間の往復も一緒である。
 これを見た人はどうして母親と娘だけなのだろうと訝しがるかもしれないが、母の写真の裏には父の写真も、三つで亡くなった兄の写真も重ねてある。四枚も並んじゃ仰々しいし、だいたい男はそんなことは望まないに違いないと、こちらが勝手に思い込んでいるせいでもある。 

 朝には・・・・・これも忘れなければだが、汲み上げた最初の水を上げる。あの世に行った人がこの世の水を飲みたがる訳もなし、どんな意味があるのか判らないが、両親がやっていたから私もやっているだけのことである。野鳥や鉢植にだって水をやるんだ・・・・・その前に、位のものである。
 だが、これを長くやっていると一緒に飲んでいるような気分になってくるから不思議である。一人で飲むより少し気がまぎれる。
 
 近所に〝一人でいると、寂しくってさぁ・・・・・〟などと言う人がいるところを見ると、私はおそらく一人で居て寂しいといった感情はいたって少ない方に違いない。それでも〝うまく茶が入ったよ〟とか〝ちょっと濃く入れすぎたな〟とか言いながら上げる。共に茶を飲む行為は心地いいことなのだ。
 肉体を持ったこの世の人間であろうと、姿・形は見えないあの世の魂であろうと、私にとってはそう大きな違いは無い。一人であって一人でない。だからこそ茶の時間を共にするのである。

2015年12月7日月曜日


コラム 14 <礼節―その②>  

 礼と礼が出会うから節となり、それが礼節と呼ばれるようになった―――「礼節の国・日本」とはそういう国であったのだろう。江戸・明治の時代に日本を訪れた幾多の異国人の眼には、そのように写ったようだ。これは日本人として胸に刻むべき教訓である。 

 〝衣食足りて礼節を知る〟という言葉を、実感をもって受け取れた時代がたしかにあっただろう。しかし我々は今〝衣食足りて礼節を忘れる〟時代に生きている。貧しさは人間に礼節を忘れさせたことがあったかもしれない。しかし、物にあふれた状況もまた人間に礼節を失わしめるものであることを、我々は現に経験している。今よりはるかに足りなかった時代にはるかに礼節が息づいていたとは、どういうことであるか。不足にもまた礼節を育てる力があったということなのだろうか。 

 他人行儀な、という言葉がある。日本人には、親しい間柄においてしっかり礼を言い合うことにためらいを感じる風潮がある。
 逆に、親しき仲にも礼儀あり、とも言う。そんな心理がバランスよく保たれている内はまだよかったが、このモノ余り時代に感謝の念と共に急速に礼の心が失われた。失礼・失念の時代を通り過ぎて、欠礼・欠念の時代となったのである。

  ・親しきなかに礼を欠く 
  ・簡便の中に礼を失う
  ・多忙の中に礼を忘れる 

 こうなるのは人間の常なのであろう。ならばこそ我々は、かつての日本人が身につけていた礼節というものを、今一度想い起してみなければならないように思う。
 〝礼状を書けぬ程、戴き物をしてはならない〟とは、大正期に生まれた母の無言の教えであった。あの時代の多くの日本人の胸の内には、このような教訓がひとつひとつ息づいていたものだろう。
 こんなことを先日ある会社の経営者と話したら、今それをやろうとすれば社内マニュアルがいる、と言われた。

2015年11月30日月曜日


コラム 13 <礼節―その①>  

 つい先頃までは、人に物を送るに一文を添えるのが当り前だった。手紙を出すにも、心ならずも慌しく書いた時には〝用件のみにて失礼します〟などと言葉を添えたものだった。だが、今はそれすらない。用件のみが当り前となったからだ。手紙も添え状も文面から余韻余情が消えた。ことばはいのちであったと言われる如くに、ことばと共に人も余情残心を失うに拍車がかかった。 

 礼節とは簡単にいえば、社会の中で人と人との関係が快く保たれるための礼儀・作法だ。
 モノを送る。かつての作法に従えば礼はまずは手紙、次に葉書、致し方なく電話ともなれば〝電話で失礼させて戴きます〟などと言ったものだ。失礼とは最も簡便・簡単な方法による礼であったからだろう。
 今はメールという簡単至極な手段があって一見ありがたいようなものだが、注意しなければならないのは便利な方法が巷にあふれ出すと、途端に思いが簡単になっていくことだ。 

 感心に思う人達がいる。親子間にあってもしっかりと礼を言い合う家族である。親は子に対してありがとう、と言い、子は親にありがとうございましたと然りげなく言う。こうしたことは身近な間柄においてこそ大事なことだと判っていても、なかなか出来ないことだ。最も親しい関係であるからこそ、これが最もむづかしい。もっともむづかしいのはそれが出来ればあとは心配ないからである。 

 身近な関係のひとつ、私の仕事場においても時々危ない現象を見る。礼を忘れないように、礼を欠かないように、と常々心がけてはいるが、以前70代の建主から老婆心ながら、と次のように指摘されたことがある。
 「打合せの後に食事にお誘いする、あるいは何か土産を差し上げる・・・・・その時は勿論ちゃんと礼を言いますよ。でも次にお会いした時には一向に礼を言いませんな。
  〝この前はありがとうございました。〟
  〝先日はごちそうになりました。〟
こういうことは我々にとっては常識だけれども、今は、あの時言ったからもういいだろう・・・・・と考えるんでしょうな。
 住まい塾のスタッフは皆好青年(当時)ばかりだけれども、ひとつこうしたことも訓練して戴けるとうれしいんですが・・・・・」 

 礼節の元には、感謝というものがあるだろう。礼節を失うとは、感謝の心を失うということでもある。感謝の心を失えば人間は知らず知らずのうちに傲慢に向かう。私はあの方の言葉を肝に銘じている。
 差し上げる時には感謝など期待するものではない、というのは差し上げる方の心掛であって、受けた方はちゃんと礼をするというのが心掛でなければならない。相方相俟っての真の礼節であろうと思うからである。

2015年11月23日月曜日


コラム 12 <野鳥のおうち> 
 
 
 
 
  雨の日は
 
  小鳥はおうちで雨宿り?
 
      ( 寒かろう) 雨の夜は 

          どこで小鳥は雨宿り?

 

 

 
 

 
 
 

2015年11月16日月曜日


コラム 11 <〝毎年異常〟という異常>  

 8月初旬までは、こんなに暑い夏は初めてだ、とみんな言っていた。確かに30年近くこの山中に暮らしているが、室温が24度を越えたことはこれまで一度も無かった。それが今年は26度まで上った。 

 だが8月8日の立秋を過ぎた頃から俄かに涼しくなり、追うように連日の雨、雨、雨、雨・・・・・。さすがのおテントさまも早々に熱を出し過ぎて疲れを起こしたんだよ、などと言っている内に、もうカーディガンを羽織らないではいられない様になった。あちこちでストーブが入り始めた。
 人々は口々に、こんなに寒い8月は初めてだと言い、こんなに雨の続く夏も経験が無いと言い始めた。 

 8月2日の夜、集まりの最中に、何事が起きたかと思う程の大粒の雹が激しく降った。山小屋周辺は、まるでトロ箱をひっくり返したようになった。あとで聞いたのだが、ここから少し下った標高1400メートルあたりの仲間は、それがピンポン玉大となって車をボコボコにされたと言っていた。 


 それにしても、このしとしと降り続く雨は何なのだろう・・・・・忍び難く悲しんでいることでもあるのかと、空に聞いてみたいものだと思う。
 きっとお天道様も、自然に対して驕り昂ぶる人間と社会を悲しみ、さまざまな形で怒りを発しておられるのだろう。周辺では、バリバリと音を立てて大木が切り倒されてゆく。そのあとの手当てをする者もいない。

 

2015年11月9日月曜日


コラム 10 <天に音楽ってあるのかなぁ>  

 天国に音楽ってあるのかなぁ。いま、いい音楽をかけているけれど、願えば天まで届くのかなぁ・・・・・。
 もし天国に音楽があるとしてもハードロックやヘビーメタルはないだろうな・・・・・・。あっても、きっと静かな音楽に違いない。
 多くの人がなぜバラードに魅かれるかなんて、いくら考えたってわかりゃしないけれど、天で聴いた音楽への郷愁であるかもしれない。 

 こんなことを思ったのも、”一緒に学ぼう“という気持で人間の真理を学んで一段悟ることができたなら、その悟りがあの世でまだ救われていない縁ある霊のもとに届く、ということを聞いたからなんだ。我々が追善供養などと呼んでいるものも、本来はそのような類のことなのかもしれない。あの世には真理の本などというものは無いようだし、だからこの世に生ある者が代わりに学んで、成長しなきゃならないんだ。それが念波にのって届く。
 ところでこれが逆になったら、どういうことになるんだろう。人間の精神は衰退に衰退を重ねることになるんじゃないか。現代の人間崩壊の兆しは、まさにそうしたところから起きているのではないかと思う。人間精神のデフレ・スパイラル・・・・・。 

 標高1600メートルの山中で見上げる星空は、キラッキラッと輝いてとても美しい。夜に私が聴くのはもっぱらジャズだけれど、星にまつわる曲名が多いのに気づく。 

 WHEN YOU WISH UPON A STAR
     ケニー ドリュー トリオ
     ウィントン マルサリス
 STELLA BY STARLIGHT
     ハンプトン ホーズ トリオ
     キース ジャレット
STARDUST
     クリフォード ブラウン
     ブランフォード マルサリス
STAIRWAY TO THE STARS
     バーニー ケッセル
     ニューヨーク トリオ
等々 

元はどんな曲であったのか詳しくは知らないけれど、人はなぜか星空の美しさに魅せられ、星に想いを馳せる。我々の心の故郷と関係しているのだろうか。この理由もまた謎のままだ。