2015年12月14日月曜日


コラム 15 <共に茶を飲む> 

 山小屋で茶を飲む時には、忘れなければだが、だいたい仏さん達と一緒に飲む。私の机の上には母と娘の写真が置いてある。本部と山小屋間の往復も一緒である。
 これを見た人はどうして母親と娘だけなのだろうと訝しがるかもしれないが、母の写真の裏には父の写真も、三つで亡くなった兄の写真も重ねてある。四枚も並んじゃ仰々しいし、だいたい男はそんなことは望まないに違いないと、こちらが勝手に思い込んでいるせいでもある。 

 朝には・・・・・これも忘れなければだが、汲み上げた最初の水を上げる。あの世に行った人がこの世の水を飲みたがる訳もなし、どんな意味があるのか判らないが、両親がやっていたから私もやっているだけのことである。野鳥や鉢植にだって水をやるんだ・・・・・その前に、位のものである。
 だが、これを長くやっていると一緒に飲んでいるような気分になってくるから不思議である。一人で飲むより少し気がまぎれる。
 
 近所に〝一人でいると、寂しくってさぁ・・・・・〟などと言う人がいるところを見ると、私はおそらく一人で居て寂しいといった感情はいたって少ない方に違いない。それでも〝うまく茶が入ったよ〟とか〝ちょっと濃く入れすぎたな〟とか言いながら上げる。共に茶を飲む行為は心地いいことなのだ。
 肉体を持ったこの世の人間であろうと、姿・形は見えないあの世の魂であろうと、私にとってはそう大きな違いは無い。一人であって一人でない。だからこそ茶の時間を共にするのである。