2024年10月21日月曜日

 コラム396 <対立①> 


 神や仏が何であるかを言い争ってみて、何になるのですか?言い争ってみて明確に判るのですか?存在するのしないの、形があるの無いのと何千年、いやそれよりはるかに長い言い争いの歴史の中で神学者や仏教学者にそれが判ったのですか?そうした果てしない議論はよしましょう。


 宇宙を司る何か、エネルギーのような意志が偏在していることは確かなのですから・・・それで十分ではありませんか。その存在を信じるかどうかはその人の責任を伴う自由というものです。私は学んで、人と出会い、経験して信じるようになりましたが、宗教上の対立、信仰上の、果ては殺し合いにまで発展する果てしない対立程、宇宙と言ってもいい、自然と言ってもいい、その意志に背(そむ)くことは無いのではありませんか?


 民族の違いによる対立もそうです。その大きな意志によって、さまざまな民族が生まれ出たのですから・・・。大民族だろうが、少数民族だろうが、不要な民族などひとつもないのです。


 〝我々日本人は単一民族だ〟などと未だ平気で主張する人々がいます。しかし我々は日本の先住民族アイヌを抑圧し、差別し、同化政策によって言葉を失わしめ、和名に変えさせたた歴史を背負っています。西へ北へと追いやったのです。

 長い間アイヌ問題に取り組んでこられた北海道新聞の深尾加那さんと一緒にアイヌの家族に招かれた夕食の席で、少し酒がまわり始めた頃、私は〝我々日本人は〟と言いかけた途端、その家の長に〝あなた方は日本人ではない。本当の日本人は我々で、あなた方は(我々を侵略した)和人である〟と面と向かって言われたことがあります。