コラム358 <白井晟一の言葉④ ── うちは無給だ、ありがたいと思いなさい ──>
白井晟一には熱烈なファンが多かった。だが会うことすらなかなか適(かな)わないというのがもっぱらの評判であった。会ってくれるまで帰らない、と門の前でハンガーストライキをやる人間までいたようだ。私は運が良かった。そんなことをしてまで会ってもらっても仕方がない、と直球勝負で手紙を認(したた)めた。
まもなく、〝いついつ来なさい〟という返事を戴いた。思いが通じたと思われてうれしかった。弟子入り志願をする時には学生時代の図面を持って行くのが、その頃の慣(なら)わしであった。私は図学や設計製図だけは優秀であった。私を助手に迎えてくれた井口洋佑助教授(当時:現在は名誉教授)は図学や設計製図の担当教授でもあったから、この学生は相当優秀だときっと勘違いしたに違いない。後に教授会で私を助手に推薦した時に判ったことのようだが〝君は優秀な科目はきわめて優秀だが、他は大したことないんだね〟と言われたからだ。そりゃあそうだ。大して興味も湧かぬ科目はからっきし勉強しなかったのだから・・・。
数年がかりでも、と腹をくくっていた私の望みは大した困難もなくすんなり適った。その時何を話したかはほとんど憶えていないが、〝君の建築に対する思いと、私とは似たところがある〟と言われたことだけは憶えている。
私が研究所に入ってしばらくしてからは志願者との第一面接は私がやるようになった。その頃は手紙で志願する者が殆(ほとん)どだったから、白井晟一がその手紙を読んで可能性のありそうな者が選ばれて第一面接となるのである。それでも私が居た十年間で私が会った志願者は3~4人しか居なかったから、返事ももらえず、会うこともできなかった人達は沢山いたに違いない。白井晟一が私に〝ちょっと会ってみてくれ〟という者は文面と書体から瞬時に判るものである。第一関門を突破して、彼ならやれるんじゃないですか、と報告すると初めて白井晟一との面接となる。その時の言葉である。
〝来てみたらいいよ。ただしうちは無給だぞ〟
〝君らはこれまで、高い入学金や授業料を払って大して役にも立たない大学で何年も
学んできたんだろう?うちに来て無給とはありがたい、と思いなさい〟
さらに
〝使いものにならないのに昨今は大学を出たら一人前に生活できるだけの給料が
保証されるのが当然とばかりに考える。こうした感覚はどこから来たのかね・・・〟
ものづくりの世界にはまだ内弟子といった感覚が残っていたが、合点のいく話であった。道理に適っている・・・なるほど・・・。そこには白井晟一の自負と自信、現代教育に対する不信もあった。時給、日給、月給、最低賃金制度等々。職人達を育てられなくなった社会の根底にはこうした問題が横たわっている。
お金とはある価値あること、ものを相手に与えて、その代価として得られるものである。これは以前秋田市の出版社から出た本にも詳しく書いたことである。本のタイトルは忘れた。